壊れ物を壊す
狭い部屋に閉じこめられて、壁を引っかくとか。
首を絞めてくる手に、爪を立てるとか。
そんな、くだらない抵抗もできない。苦しいのに、暗いのに、怖いのに、訴える気力もない。
居場所でもない生き地獄の地べたで、息が絶えるのを待っている。
俺も。彼女も。みんな──
「『イジメで中学一年生が自殺』」
踏みつけていた里菜の頭を蹴って、俺はそばにあった席の椅子に座ると、スマホのSNSのトレンドを読み上げた。
文字をタップすると、そのニュースに関するコメントが画面に並ぶ。俺がそれにスワイプでざっと目を通しているあいだにも、藤香たちがせぐくまる里菜の背中や脇腹を蹴り飛ばしている。
俺は、里菜の頭にまた上履きの足を載せると、かかとで額を押して顔を上げさせた。
「『自殺した男子に、同級生数名は殴る蹴るなどの行為を加えた疑い。遺書らしき文章が残っていた。学校側は事実を確認中。』」
里菜は泣きそうなのをこらえて俺を見上げ、俺はそれを冷ややかに見下ろす。
肩までのさらさらの髪。睫毛が縁取る深い瞳。淡い桃色の唇。まだ女になりきっていない危なげな軆。夏服の白い丸襟シャツと紺のスカートは、殴る蹴るされて汚れている。
俺はスマホに目を戻した。
「『いい加減、暴力をイジメって言葉でごまかすのはやめろよな。』『自殺だとしてもこれは殺人だ! 加害者の実名晒せ!!』『イジメって言っておけば罪が軽くなるような風潮がほんと嫌だ』」
俺はスマホをつくえに置いて、頬杖をつくと笑い出して、里菜の顔面を蹴りつけた。
「お前もそう思うか? 俺たちのこれ、」
立ち上がって里菜の肩にかかとを振り下ろす。
「暴行ですか? 暴力ですか? イジメごときじゃありませんか? 違うよなあっ」
俺は里菜の髪をつかんで揺すぶり、すくみあがっている彼女の耳のそばで怒鳴る。
「これは全部、可哀想なお前に構ってやってるだけだよなあっ」
周りの奴らが笑い出して、「そうだよー」と一番俺の言うことを聞く藤香が、里菜と違って曲線の現れてきた軆をかがめる。毛先がくるくる跳ねるロングヘアが流れる。
「あたしたちは、あんたと仲良く遊んでるんだよお。そうだよねえ?」
里菜は涙を落としはじめて、鼻をすすりながらも、必死に何度もうなずく。
「この顔、撮る?」
藤香がスマホを取り出したけど、「やめとけ」と俺は吐き捨てる。
「この面がスマホの中に残ってるだけで吐く」
「ま、そうだね。証拠にもなっちゃうしー」
「お前ら、ほんとドSカップルだな」
「俺と藤香はそんなんじゃねえよ」
「えー、ほんとにー? どうなの、藤香」
「何でもないというか何にもないかなー。今のとこ」
「今のとこか。早原、お前がほっとくなら俺が藤香と、」
「やだよ、あんたとかっ」
「あははっ。瞬殺ー!」
俺は乱暴に再び椅子に腰かけて、頬の擦り傷に触れて一瞬顔を顰めた里菜を見つめる。残暑の蒸した日射しで、涙がきらきら光っている。
藤香たちに蹴られながら、もうやめて、と里菜の口が弱々しく動いた。それに何だかいらついて、ボロ雑巾をむしゃくしゃして引き裂くみたいに、俺もその軆を痛めつけようとした。
そのときだった。
がらっ、と大きな音を立てて教室のドアが開いた。
俺たちは、それぞれにそちらに目を向けた。俺たちの目を受けたのは、クラスメイトの男子である糸山だった。
いつも無表情で無口で、教室からは無視でハブかれているのに、意に介さず登校してくる野郎だ。
十七時近いのに教室に残る俺たちを糸山も一瞥したものの、相変わらずの鉄仮面で教室に入ってきて、自分の席に歩み寄った。そして引き出しに手を突っこみ、がたごといわせたあと、ひらりとプリントを見つける。
それをかばんにしまうと、糸山は何も言わずに出ていこうとした。
俺は椅子を立ちあがった。
「おい。待てよ」
糸山は足を止めて振り返ったが、やっぱり何も言わない。
「チクるなよ」
短く、きつい口調で言っても、糸山は眉も動かさない。
ずっ、と里菜のすすりあげる音が静かな教室に響き、そちらを見ると、里菜も糸山を見ていた。俺はそれにかすかに目を眇める。
糸山は何の反応もないまま、廊下に向き直って教室を出ていった。ぱん、とドアも閉まる。
「……気味悪い奴だね、やっぱ」
藤香がつぶやいて、残りのふたりも笑いながらうなずく。
俺は里菜を見て、彼女がぐったりうなだれたのを確かめる。
舌打ちした俺は、里菜の背中を蹴りつけた。不意だったのか里菜は声を上げて体勢を崩す。
「今、あいつに助けろって色目使っただろ?」
里菜が俺を振り向いて、俺はその目をめがけて足を突き出す。
「俺はお前のそういうところが気持ち悪いんだよっ!」
里菜は床にべちゃっとつぶれて、藤香たちがまた笑って、その軆を踏みつける。俺は苦々しい瞳でそれを見つめ、無意識に息が荒くなっているのに気づいた。
どっ、どっ、と脈打つ心臓も速い。
……くそ。
確実に、俺は、こいつに勝ってるのに。
そう、もはや里菜はカースト底辺だ。俺はといえば、成績も人気もかなり優位にいる。
それなのに、俺は、春のあの日から里菜が怖くてたまらない。
十七時をまわったのを機に、俺たちは里菜を解放した。十七時半には用務員がまわってくる。
里菜が帰ったのをこの三階の教室の窓から確認すると、俺たちも荷物をまとめて引き上げることにした。職員室に鍵を返すとき、担任の池畑に「今日もこんな時間まで勉強会か」と苦笑混じりに褒められて、俺たちは照れ笑いみたいな顔をしてから校舎をあとにした。
校門まで歩くと、俺と藤香は左、あとのふたりは右に別れていく。
まだ明るい九月の青空の見上げる。虫が澄み切った声で鳴きはじめている。風だけは涼しくなって、むせ返る草の匂いも消えてきた。
「早原」と俺の歩調を追いかけてくる藤香が、声をかけてくる。
「あー?」
「大丈夫かな」
「何が」
「糸山じゃん」
「あー……」
「誰かに言わないよね?」
俺は鼻で笑ってから、「言わないんじゃねえの」と戸建ての住宅街に続く前方を見やる。
「あいつ、元から誰ともしゃべらねえじゃん」
「そうだけどー」
「何だよ」
「何考えてるか分かんないもん、あいつ」
「池畑は糸山より俺を信じてるよ」
「んー、まあ、それはそうだね」
「何とかなるだろ。最悪、サトイモに否定させればいい」
「あ、そうか! 頭いいっ、早原」
現金にぱっと笑顔になった藤香に、俺は肩をすくめる。
サトイモ。里菜のことだ。里菜という名字の字面イメージが芋みたいので、俺たちはそう呼んでいる。
やがて藤香と別れて、帰り道にひとりだけになる。すると、俺は一気に気が滅入ってくる。
犬の声。子供の声。テレビの声。音はするのに、すれちがう人が滅多にいなくて、この時間帯のこの道は不気味だ。
家が近づくほど、安心するどころか内臓が見る見る萎縮していくように感じる。息ができなくなって、吐き気で喉がつまる。
ああ、帰りたくない。家は嫌だ。またあの人が来ているかもしれない。笑いながら俺を出迎えるかもしれない。
とうさん。どうして。
かあさん。何で。
俺をあの広い家に放っておかないでくれ。あの人とふたりにしないでくれ。仕事なんか放って、早く帰ってきて、俺をあの手から引き離してくれよ。
そうしてくれないと、俺はもう今にも闇に塗りつぶされて、発狂に砕け散りそうなんだ。
「おかえり、颯汰くん」
家にたどりつくと、やっぱり朋春さんの笑顔が待っていた。ドアを開けると、笑顔が浮かぶ面のように、ぽっかり暗い家の中から近づいてくる。
悲鳴を上げて、外に逃げ出したい。でも、怖くて軆がすくんで動けない。
「今日も遅かったねえ。友達とまた勉強?」
朋春さんが腕を伸ばして、俺の肩に触れる。びくっと俺の全身が痙攣する。
「ほどほどでいいんだよ。おとうさんもおかあさんも、勉強にうるさいわけじゃないだろう」
強い搏動がこみあげて、頭の中がぐるぐると渦巻いてくる。
「もちろん、おじさんも颯汰くんはそのままでいいと思うよ? ほんとに、そのままでいいんだ」
目の前が溶暗していく。視覚が停電する。
はあ、はあ、という息遣いが耳障りだ。
「……ありのままの颯汰くんを一番知ってるのは、僕だろう?」
この匂いが嫌いだ。濃すぎるコーヒーの臭い。
ばたん、と背中でドアが閉まる音がした。手をぎゅっとつかまれる。
「ほら、今日も部屋で一緒にゆっくりしよう」
引っ張られて、俺は盲目の迷子みたいにおとなしくついていく。
ばさっ、といつも途中でかばんを落としてしまう。そのせいで、やっととうさんかかあさんが仕事から帰ってくると、「また颯汰は荷物を投げ出して!」とまず声を上げる。それから、一分以内に朋春さんは全部片づけてしまい、つけっぱなしにしていたテレビゲームの前に座る。そして、勝手にドアを開けて入ってきたとうさん、あるいはかあさんは、「またトモおじさんとゲームか!」と怒りながらも仕方なさそうに笑う。
涙。おい、涙。
出ろよ。出てくれよ。
頼む、一滴でいい、涙、出てこい。
じりっ、とときおり意識が瞬く。
天井。白い電燈。汗の臭い。
ぎし、ぎし、と軋むベッド。服を着ていない。素肌を汗ばんだ手が駆けまわる。脚のあいだが開かれてすーすーする。尻の穴に何か突き刺されている。それが腹の中まで伸びてうごめいている。
乱れた息遣い。湿った音。まくらもとに転がる瓶。Lotionという文字。
痛い。便意をかきまわされる。もれそうだけど、ぐっとつらぬかれて引っこむのが反復する。乳首をいじる親指。動いている。俺の軆の上で、影が動いている。
だらしない顔をした、さっきの笑顔。舌を垂らして、頬を赤らめて、動物のように喘いでい──
【第二章へ】
