僕の爪痕-6

傷口に触れて

 もやもやと落ち着かないまま授業を過ごし、放課後になると、俺はいつも通り、エアコンを消した日直から教室の鍵を預かる。「今日も残るのー?」とか言う藤香も帰してしまい、俺は自分のつくえに座って、クラスメイトがいなくなっていくのを見守っていた。
 里菜はおとなしく、席から立ち上がらずに教室に残っている。やがて放課後のざわめきがなくなって俺と里菜のふたりきりになると、俺はつくえを飛び降りて里菜に近づいた。びくついて俺を見た里菜に、俺は舌打ちしてから言う。
「何かするわけじゃねえよ」
「……ごめん、なさい」
「何もしてないのに謝んな。てか、その……」
 服を脱げ。
 いざ言おうとすると、何だか激しく誤解を招きそうな台詞だと思った。だが、俺が抑えつけて服を引き剥がすと、ますます勘違いされる。
「服を、……脱いでほしいんだけど」
 気まずさに舌を噛まないように俺が言うと、里菜が驚いた顔を上げた。「そういうつもりじゃねえから」と俺はすぐにつけくわえる。
「上だけでいい。ちょっと脱げ」
「で、でも……」
「何にもしねえよ。確認したいものがあるんだ」
「確認、って」
「それがなかったらとっとと帰す」
 里菜は躊躇っていたが、逆らえないと思ったのか、えんじのスカーフをぎこちなくほどきはじめる。
 紺のセーラー服をゆっくり脱ぐと、下にシャツを着ていた。「それも脱げ」と言うと、里菜は俺の視線で窮屈そうにしながらシャツを脱いだ。貧相な胸でもブラジャーをつけているけれど、「それは取らなくていい」と言うと少しほっとしたのが見取れた。
「前は服で隠してていい。背中見せろ」
 里菜は俺を見てから、猫背になりながらこちらに背を向けた。
 俺は眉を寄せ、それに手を伸ばした。指先が触れると、里菜の肩が震える。本当に、左右の肩胛骨のあいだくらいに、膿んでいる穴を空けたような傷があった。いや、それ以外にも痣や傷があって、それは俺たちが文化祭前に残したものにしては生々しい。
「この火傷、煙草か?」
 傷だらけの背中が少し動き、里菜は振り返りかけたけど、やめて、うなだれるようにうなずく。
「お前、俺たち以外にも殴ったりされてたのか」
 躊躇してから、里菜はまた小さくこくんとする。俺はこめかみにちりっと電流を感じた。
「誰だよ。クラスの奴か?」
 里菜はしばし動かなかったが、首を横に振る。
「じゃあ、何組の奴だよ」
 里菜は答えない。俺は眉を顰め、「またそいつらと組もうとかそんなんじゃねえよ」と言う。里菜は背中を丸める。
「それ、は……分かってる、けど」
「じゃあ、誰だよ。俺が釘刺せば止まるだろ」
「……の人じゃ、ない」
「は?」
「学校の人じゃ……ないの」
「え」
「おかあさん……だから」
 俺は目を見開いた。里菜は脱いだものを抱きしめ、消え入りそうな声で言葉をつなぐ。
「うち……ね、おとうさんいないから。おかあさん、そのぶん私に厳しいの。子供の頃から、少しでもおかあさんが決めたことを間違うと、罰があって」
「罰、って」
「傘でたたかれたり、ベランダで正座したり、……いろいろ。でもね、私のためだから。おかあさんは、自分の気分でそういうことをしてるわけじゃないの。私が悪いことをするから」
「じゃあ、俺たちのせいで服が汚れたり、帰るの遅かったりしたらどうなってたんだよ」
「………、」
「それは、お前のせいじゃなくて俺たちのせいだろ。なのに、」
「私のせいだよ」
「はあ?」
「分かってるよ。私のこと、気持ち悪いって……早原くんが言って、そのあと全部始まったから。悪かったのは私だよ」
「……───、」
「ごめんね。私なんかに告白されて、ほんと気持ち悪かったよね。ごめんなさい」
「それは、」
「二度と、そういうこと言ったりしないから。絶対、早原くんに気持ち押しつけたりしない」
 俺は里菜を見つめ、軆の向きを戻した里菜も俺を見上げてくる。そして、弱く咲った。
 何、で。
 何で、俺なんかに咲うんだよ。俺の勝手なトラウマで、お前のトラウマを踏み躙ってきたのに。
「何で……」
「え」
「何で、俺のことなんか」
「何で、かな。近いような気がしたって言ったら、嫌だよね」
「近い……」
「でも、今はそんなの思ってないから。大丈夫。早原くんは遠い人だと思う」
 母親に体罰される里菜。
 あの人に蹂躙される俺。
 確かに、近いのかもしれない。家の中が悪夢のように忌まわしい。でも、俺は学校生活がまだマシだけど、里菜の学校生活は俺のせいで──
「……糸山が、できたから?」
「えっ」
「もう、糸山が好きだからそんなこと言えるのか」
「い、糸山くんは、友達だよ」
「好きなんだろ」
「好き……だけど、恋愛ではないよ」
「ほんとに?」
 突っ込んでくる俺に、里菜は当惑を見せて、「それは」と口ごもりながら睫毛を伏せる。
「糸山くんのこと好きになってたら、早原くんも一番安心なのかもしれないけど」
「そうじゃない」
「え」
「そうじゃ……なくて、」
 里菜が言葉に詰まる俺を見つめてくる。
 長い睫毛に白い肌。さらさらの髪。痩せた腕に華奢な軆。
 俺は顔を伏せて、糸山が好きじゃないなら、と思った。それなら、お前は今は誰が好きなんだ。もっと別の奴なのか? それとも──
 そう思うと、なぜか俺は、吐き気でなく発熱を覚えた。
「今……好きな奴はいるのか」
「えっ」
「いないのか」
「……わ、分からない」
「分かんねえことないだろ」
「………、私──は、」
 里菜が言いかけたときだった。
 突然、がらっと音を立ててドアが開いた。俺も里菜もはっと振り向く。そして、そこにいた奴に思わず目を開いた。
「信っ……じ、られない」
 わなわなと震えた声が、教室に響く。
「サトイモの靴までずっと上履きにならないから、見にきたらっ……」
 そこで肩を怒らせているのは、藤香だった。
「ねえ、あんたたち何してんの!?」
 藤香は俺たちを睨みつけ、静けさを引き裂くようにそう叫ぶと、ずんずんと大股でこちらに近寄ってくる。ロングヘアがなびいてついてくる。
「早原がやめるとか言い出したのって、こういうわけ!?」
「いや、これは──」
「何なの! 早原がこいつのこと気持ち悪いって言うから、あたしは同じようにしてたのにっ」
「藤香、落ち着け、」
 俺が藤香を黙らせようと声をかぶせても、藤香の混乱の混ざった怒声は止まらない。言葉では俺を責めながらも、目は里菜を睨めつけている。それに怯えた里菜は、胸を隠している服をぎゅっと握りしめる。
「あたしはイジメなんてそんなの嫌だった、でも早原に逆らったらクラスに溶けこめないから、」
「そうだよっ!」
 俺が強く言って、やっと藤香は俺を見た。俺は里菜と藤香のあいだに立つ。
「悪いのは、俺だから。お前はもう、何もしなければ大丈夫だから──」
「気持ち悪いとか言ってたくせにっ!」
 藤香はそう怒鳴って、俺につかみかかろうとした。思わずそれを抑えるために藤香の手首をつかむと、間近に藤香の水気で滲んだ瞳が来る。
「藤香──」
「結局この女に手出しするなら、あたしがやったこと、何にも意味なかったじゃないっ。ムカつく、あんたなんか死んじゃえっ」
 藤香は俺の手を乱暴に押し退けると、教室を駆け出していった。その激しい嵐のような感覚に、俺は茫然としてしまっていた。
「早原くん」と里菜が心配そうに声をかけてきて、それではっとする。そして、引き攣った息を吐くと、「ビビった」とつぶやいて崩れかけていた体勢を直す。
「いや、ええと……あいつには俺から言っとくから。里菜は心配すんな」
 俺がそう言うと、里菜は小さく笑んで、「ありがとう」と言ってきた。
「え、何がだよ」
「今、初めて名前をちゃんと呼んでくれた」
「あ──」
「私、それでじゅうぶんだよ。絶対、早原くんも藤香さんも誰かに悪く言ったりしない」
「……俺のことは、」
「言わないよ。ほんとに、何にも言わない」
 微笑む里菜を見つめる。
 言わない。
 言わないということは、本当は、言いたい何かがあるということだろうか。その「言いたいこと」はイジメに関してだけなのか。あるいは──
「里菜」
「うん」
「……俺も、つらいんだ」
「えっ」
「うまく言えねえけど、死にたいって思うんだ。たぶん、苦しさはお前ほどじゃねえんだけど」
「………、」
「ひどいことされる気持ちはよく知ってるのに、お前にひどいことした」
「早原くん──」
「ごめん。お前は悪くないよ。それだけは分かっててくれ」
「でも私が、」
「里菜は悪くないんだ。何にも悪くない」
 里菜がじっと俺を見つめる。俺は息をついて、そばにあった席の椅子に座った。「とりあえず、寒いから服着ろ」と言うと、里菜はうなずいて制服に腕を通した。
「藤香さん、大丈夫かな」
「明日になったらちょっと落ち着いてるだろ。うまく話しておく」
 俺の言葉に、制服を着直した里菜は、こくりとしてスカーフを結ぶ。
 しかし、俺のその約束は結局叶わなかった。次の日から、藤香は学校に来なくなってしまったのだ。三日くらいはそんなにショックだったのかくらいに日和っていたが、一週間ともなると不登校のレベルじゃねえだろと困惑が湧いてきた。
 そしてそれから、藤香が学校に来ることはなかったのだ。

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