心をほどくように
藤香が学校に来なくなって十日以上過ぎ、十二月になって期末考査も終わってしまった。
藤香はよく俺にくっついていたから、心当たりはないかと池畑に訊かれたりした。俺は一応首を横に振っていても、里菜のことを話したほうがいいのかとも考えた。でも、里菜は誰にも言う気はないと言っていたし、イジメた側とイジメられた側に変に話が食い違うのもおかしい。
藤香の家も知らないしなあ、とどう出るべきか迷っていた頃の昼休み、俺はふと思い出して屋上に向かってみた。
朝のホームルームからすがたがなく、休みかと思っていた糸山が、地面に座ってうたたねをしていた。そして三時間目からいなくなっていた里菜が、その隣に座って本を読んでいる。
俺に気づいた里菜は、そんなに怯えずに、むしろほのかに咲った。俺はふたりに近づき、「邪魔だった?」と訊いてみる。「そんなことないよ」と里菜は糸山の眠りを妨げないように小さな声で答える。
「里菜と糸山って、よく一緒に授業消えるけど、ここに来てるのか」
前から訊きたかったことを訊きながら、俺は里菜の隣に腰を下ろす。
「教室にいないときはここに来てるけど。待ち合わせとかは別にしてないよ」
「……ふうん」
なぜかあまり納得いっていないような声で言った俺に、里菜はちょっと咲う。
「ここはね、私が鍵がないことにけっこう前に気づいてたの」
「あー、普通鍵かかってると思うよな」
「うん。屋上に行けないかなって思ったのは、……えと、」
里菜の言いよどんだ様子で、「飛び降りようとした?」と察すると、「……ごめんなさい」と里菜はうつむく。
「里菜が悪かったんじゃないから謝んな」
突慳貪に言ったあと、「俺がごめん」とぼそっと言葉を補うと、里菜はそれにまた柔らかく微笑する。
「それでね、糸山くんも教室がつらそうだったから教えたの」
「教室つらかったのかよ、こいつ」
そう言ったあとで、糸山が桜にナイフを立てていた日を思い出した。いつもそっけない顔をしていて考えもしなかったが、糸山は単純に教室が息苦しかったのだろうか。
「ストレスは溜まってたみたいだよ」
「ストレス」
「糸山くんは、優しいと思うから」
「……そうか?」
「ここには、私がほっとけなくて来てくれてるだけかもしれないけど」
里菜の向こうにいる糸山の寝顔を見て、そういえばそうだな、と思った。糸山は無口で無表情で、ずっと無愛想な奴だと思っていた。だがあの日、車からよろよろと逃げ出した俺を、嗤って見捨てたりせず、支えてそばにいてくれた。
俺はあのとき、初めて誰かを「優しい」と思った。
「糸山くん、ここに来てもほとんど話さないけど、家のこと話してくれたことがあるの」
「え、しゃべるのか、こいつ」
「私も、もしかして耳聞こえないのかなとか思ってたけど、ちゃんとしゃべってたよ」
「そうなのか。知らなかった」
「糸山くんも、家の中がつらいみたい。それで、腕とかをたくさん切るって言ってた」
「自分で?」
「そう。だから、夏もパーカー着てたでしょ」
「……そっか。俺は、糸山が桜の樹をナイフで切ってるとこ見たことある」
「私も知ってる」
「……制服飛ばされた日?」
俺の先回りに、里菜はぎこちなく咲ってからうなずき、「それでね」と言葉を継ぐ。
「そういうのは、自分の感情を残したいんだ、って言ってた」
「自分の感情」
「腕とか桜に、どれだけ苦しいかを吐いて、確かめるの。誰も自分の感情を認めないから、表わして目で見ないと怖いって」
誰も自分の感情を認めない──俺も同じだ、と思った。いくら苦しくても、死体みたいにただ受けて。感情のまま泣くこともできない。こんなに苦しいのに、俺も何ひとつ残せていない。いつか、この傷が現実か妄想かさえ分からなくなってしまうかもしれないのに、化膿した気持ちを消毒もしていない。
「分かる気がする」とつぶやくと、里菜が俺を向いた。
「俺も自分が思い通りに動かなくてつらいときってある。自分さえ自分の感情認めてやれねえ」
「早原くん……」
「糸山って同類なのかなとか思ったことあるけど。やっぱそうなのかな。……いや、俺は糸山みたいに強くないな」
俺はわずかに自分を嗤ってから、十二月の曇りがちな空を見上げた。学ランの下にトレーナーも着こんでいるのに寒い。
音を立てる風が髪をなびかせ、里菜の手の中の文庫本のページをめくってしまう。慌ててページを抑える里菜の指とか、読んでいた文章を探す睫毛とか、ちょっとかさついている唇を見ていると、俺は急に息苦しくなった。
何で、気持ち悪いなんて感じたのだろう。こんなに綺麗な女の子を傷つけて、俺は何が楽しかったのだろう。もし、バカみたいに、かわいい女子に告られたと喜ぶことができていたら、きっと誰もつらくならなかった。
「里菜」
やや逡巡してから俺が声をかけると、「うん?」と里菜はこちらを見た。俺は言いよどんだのち、せめてちゃんと説明して謝らなきゃいけない、と強く思って言葉をつないだ。
「俺、ガキの頃から、男にレイプされてるんだ」
「えっ」
「親父の親友の人なんだけど。幼稚園のときから、共働きの両親の代わりに家にいるんだ。帰ったら、大抵はその人が待ってて、……怖くて逆らえなくて。そのまま、はけ口みたいにされてる」
そこまでだけでも言葉にしたのが重くて、息を吐く。里菜は言葉を失って俺を見つめている。驚いているけれど、嫌悪などは湧き起っていない。
「いつも、言われるんだよ。好きだよって。俺のことが好きだって、あの人がいつも言うから」
「……あ、」
「だから、里菜が悪かったんじゃないんだ。ただ俺が思い出して混乱しただけ。里菜はほんとは何にも悪くないし、気持ち悪かったりもしない」
「早原くん……」
「お前みたいのだから、告白とか、きっとすっげえ勇気出したんだよな。なのに、こんな俺でごめん」
「わ、私……私こそ、そんな、立ち入るようなこと、」
「察してたほうが怖いからいいんだよ」
そう言って、うぬぼれかもしれないと思って続けるかに迷ったが、言わなきゃと思って、「でも」と俺は声を出す。
「俺はきっともう男としてダメだから、やめとけよな」
「……え」
「って、言わなくても、糸山が好きなのかもしれないって分かってんだけど」
「い、糸山くんは友達だよっ。ほんとに、……そんなふうには、」
「ほんとに?」
「ほ、ほんとに」
「そっか。──お前は、それでいいのか? 糸山」
俺がそう言って初めて、里菜ははたと振り返った。さっきから糸山は目を開いて俺たちを見ている。糸山はかたむけていた上体を起こすと、里菜の肩をとんとたたいた。すると里菜は咲い、「糸山くんは」と俺を見直す。
「私の味方だから、そんなふうに言っても、私があきらめるのを応援はしてくれないよ」
里菜の気丈な表情に、俺は息をついて肩をすくめると、「じゃあ」と言う。
「勝手にしろ」
俺の素直じゃない言葉に、「勝手にする」と里菜はうなずいた。そして、初めて見る生き生きした笑顔を見せた。
勝手に──俺のことを好きでいて、そんな表情が生まれるのか。あの不気味な笑顔とはぜんぜん違う。俺を「好き」になって、里菜はそんなきらきらした笑顔を生むことができるのだ。何かすごいなこいつ、と思って、何だか俺も笑ってしまった。
それから、ときどき三人で屋上で過ごすことがあった。過ごしながら、変な三人だよな、と我ながら思った。イジメた奴。イジメられた奴。ただ見ていた奴。
糸山は相変わらずしゃべらなかったけど、もう俺のことを威嚇するように見たりしなかった。里菜も俺に怯えたりせず、屋上という居場所に俺を許してくれる。俺はそこにいて、やっといらいらすることのない、かといってびくつくこともない、穏やかな安心感を覚えた。
「早原くん」
「ん?」
「おうちは、変わらない?」
「……うん。里菜は」
「私も」
「そっか。糸山は──」
俺は糸山を見て、里菜も糸山を見た。糸山は一瞬睫毛を伏せてから、里菜を見た。その視線を受けた里菜に「いいの?」と問われて、糸山はうなずく。俺が分からなくてまばたくと、「糸山くんはね」と糸山は里菜を通し、俺にもその家庭環境を打ち明けてくれた。
糸山は、幼い頃から親に「生みたくなかった」とか「死ねばいいのに」とか、いわゆる言葉の暴力を言われてきたのだそうだ。理由はよく分からない。ただ、両親が愛しあっていないことはさすがに分かる。
自分ができたせいで結婚しただけなのかもしれない。自分さえいなければとうに別れていたかったのかもしれない。
そんな両親に、生まれたことを拒絶され、愛されて生きることを否定され、そのせいでまともに感受性が育たなかった。何を感じても虚しく、何とも思わない。言葉をなくし、表情が死んで、いっそう両親には「かわいくない」と嫌われた。
でも、気づけばそれに何とも感じない自分がいた。自分は今つらい? 哀しい? 苦しい? あるいは、もはやすべてが憎いのか?
感情を表すために、自傷や破壊を始めた。可視化しないと、自分の心が存在するのか不安で頭が壊れそうだった。
自分の感情が、何の痕跡も残さない。その恐怖は俺も分かる気がした。俺も自分の無抵抗がもたらす絶望は毎日感じている。「爪痕がないんだよね」と糸山を代弁した里菜が言う。
「爪痕」
「心が感じたものが、表情とか言葉とか、行動に現れないの。だから、人に届かないし、自分でもそれを感じたのか分からない」
「……そう、だな。あんなに嫌なのに、涙が出なくて、俺はまだ足りないのかって思うときがある」
「糸山くんのそれは自傷とかなんだよね。切って、やっと自分の感情を残してるの」
桜の樹に「何か」をぶつけていた糸山の背中を思い出し、「うん」と俺はうなずく。
「けど、自傷とか、ひどくなると危ないから。深いと、ほんとに死ぬかもしれない。何かに当たることも、結局最後はまたストレスになるだけだし」
「……そうだな」
「いつも、糸山くんの感情をそれ以外のことにはできないかなって考えてるけど。むずかしいよね」
俺は糸山を見た。糸山は何も言わず、長袖の腕を投げている。でも俺と里菜の話を聞いているのは分かる。
「誰かに聞いてもらう、っていうのはあるんじゃね」
「えっ」
「俺には話せなくても、里菜には糸山って話すんだろ」
「ん、たまに」
「じゃあ、里菜が糸山の話、聞いてやれよ」
糸山が俺を見る。
「俺はさ、里菜と糸山にならあのこと話せて、少し楽だから」
里菜がまばたきをして、糸山も俺をじっと見つめる。
「自分で考えてるだけだと、全部、被害妄想みたいになってくる。でも今は、里菜たちも俺のこと考えてくれる。だから、もしかしたら、自傷をどうにかできないかとか里菜が考えるだけでも、それは糸山にとって『自傷はよくない』って感覚につながるんじゃねえかな」
糸山は小さくうつむいて、何か言いそうに口を少し開いたけど、やっぱりつぐんでしまう。「違うかな」と俺が遠慮すると、それには糸山は首を振った。すると、里菜はほっとしたように咲って、「そっか」と曲げた膝の上で手を組む。
「そうだよね。私も、早原くんに『お前は悪くない』って言われて、すごく安心した。私はいつも、自分を責めて納得してたから」
「里菜──」
「つらいことがあったあとで、私の爪痕は、ほんとに、自分を責めることだけだった」
俺は里菜の横顔を見つめ、「うん」と小さくうなずいて空を見やった。今日はよく晴れていて、風は冬の匂いがしても陽射しはほのかに暖かい。
糸山はもちろんそうだけど、里菜も強いのだろうと思った。本当なら、俺の言葉で安心するどころか、俺のこと自体を拒んでもおかしくない。それほど俺はひどいことをしたのだ。
なのに、今はこんなふうに俺の話まで聞いてくれる。スクールカーストで自分を判断していた俺が、結局、一番弱かったのだ。
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