僕の爪痕-9

 春休みが始まって、学校沿いに咲き始めた桜の下を里菜と歩く。
 陽射しも暖まって、緩やかになった風には花や草の匂いが混じっている。晴れた空には今日は雲の影もなく、柔らかな青が広がっていた。
 歩道の隣では車が行き交っていて、何となく俺が外側を歩き、里菜は内側を歩く。ちりん、とベルが鳴って、振り返るとすぐに自転車が俺たちを追い越していった。
「またお邪魔して、ご両親には迷惑じゃないかな」
 ちょっとずつ見慣れてきた私服の里菜がそう言うと、俺は「いつも喜んでるよ」と俺は咲う。
「ふたりとも里菜のこと気に入ってるから。かあさんは一緒に料理できるの楽しいらしいし、とうさんはそれ食うのが幸せだそうで」
「はは、そっか。料理、うまくなってきたかな」
「もともと包丁とかうまく使えてたじゃん」
「じゃなくて、味つけとか。やっぱり、おばさんの味つけが早原くんも好きでしょ?」
「好きというか慣れてる」
「好きなんだよ、それ」
「そうなのか? まあ、里菜が作ってくれるなら俺は食うよ」
「ありがと。三年生になったら、早原くんのお弁当は私が作りたいなー」
 嬉しそうにそんなことを言う里菜に、俺は咲ってしまって前を向く。桜の花びらがふわりと風の上を滑っていく。
 あと少しで一年か、と思った。桜が散って葉桜になったら、里菜が俺に告白してくれて一年が経つ。
 冬休みの直前、俺はやっとそれに「ありがとう」と応えて、里菜とつきあうことになった。そして、一緒に自分を苦しめる大人から逃げることにした。
 まずは、俺が両親に朋春さんのことを打ち明けた。俺ひとりで話したら、もしかしてふざけるなと信じてもらえなかったかもしれない。だから、里菜が同席して、実際朋春さんが学校に来ていたことを見たと事実で後押ししてくれた。
 それでも、両親は半分信じていなかったが、確認させてほしいとその場で朋春さんに電話して、「留守にするから颯汰のことを頼む」と家に呼んだ。車があったら両親が留守にしていないと気づかれるから、かあさんが一時間くらい買い物に出ておくことにした。
 とうさんと里菜が隠れて見守る中で、家に来た朋春さんは、案の定俺に手を出そうとした。親友と思って息子を預けてきた男の本性に、とうさんがショックを受けていて、割りこんできたのは里菜だった。すると朋春さんは、里菜と俺の関係に嫉妬して、目に物凄い殺意をたぎらせた。だがそれでさすがにとうさんが我に返り、朋春さんを殴って倒すと、そのまま警察に通報した。
 かあさんにも連絡がいって、買い物なんか放り出してきたかあさんは泣きながら俺を抱きしめて、何度も謝った。とうさんは俺に土下座までした。
 朋春さんは、警察に引きずっていかれながら、俺の名前を何度も呼んでいた。
 それが怖くて、かあさんの腕の中にいてもこわばっていると、里菜が俺の手を握った。その手の温もりが、ついに俺の中を溶かしてくれた。両親の前になると、あんなに出なかった涙が、あふれて止まらなくなった。
 とりあえず、事情は明日から聞くと警察が引き上げると、家族でわんわん泣いて、日が暮れていた。「みっともないところを見せてごめんね」とかあさんは里菜に謝って、「君のご両親にもお礼を言いたい」ととうさんが申し出た。俺と里菜は顔を見合わせてから、ふたりで相談して決めた通り、俺の両親が俺のことを分かってくれたら、里菜のことも俺の両親に相談することにしていたと話した。
 俺の両親はもちろん面食らっていたものの、里菜のために警察や役所に力を尽くしてくれた。里菜の軆にある体罰の痕が一番の証拠になって、里菜は母親から離れて、そう遠くない母方の叔母の家で暮らしていくことになった。転校はしたくない、と里菜は言っていたから、遠方に引き取られることにならなくて、俺たちはほっとした。
 そんなふうにばたばたと冬を過ごして、やがて、こんなふうに穏やかな春がやってきた。
 俺たちが何とか救われる軌道に乗って、祝福してくれたのは糸山だった。「おめでとう」という言葉で、俺はやっと糸山の声を初めて聞いた。「俺たちにはちょっとくらいしゃべれよっ」と俺が言って、「私たちは糸山くんの声聞きたい」と里菜も言ったので、糸山は最初はとまどっていたものの、俺と里菜と三人でいるときは、少しずつながらしゃべるようになっている。
「誰も、僕の声なんか聞いてくれないから」
 春休みに入る前のある日、帰宅中のゴミ捨て場の前で、糸山はそう言ってやっぱり隠し持っていたナイフを手にした。
「物を切ったり、自分を切ったり、……そんな声しか出せなくなってた」
 糸山はそう言うと、ゴミ箱の中にナイフを投げた。乾いた音がして、ゴミの中にナイフが沈んでいったのが分かった。
「もういらない。僕の声は、早原と里菜が聞いてくれる」
 俺は糸山の肩をたたき、里菜も微笑んで、三人で並んでそこから歩き出した。すっかり日が長くなって、気候も優しくて、まだまだ青空が遠くまで広がっていた。
 声が出せなかった。だって誰にも届かないから。手を伸ばしても、握り返してくれる手がなかった。地べたに倒れて、もはや地面を引っかくこともできなくなっていた。
 でも今は話せる。手も届く。心を表して、爪痕をつけることができる。
 その痕にこめるのは、抵抗だったり。悲鳴だったり。闘争だったりする。
 泣けないくらいに麻痺していた俺も、もう感情を押し殺さなくていい。傷ついても、立ち上がって歩いていける。その先に、俺の爪痕を受け止めてくれる人たちがいるのを知った。
 生きていける。生きていきたい。
 俺もまた、大事な人たちの爪痕を受け止める存在でいたいのだ。どんな感情も受け入れて、里菜に教えてもらえたように、「それでもお前が大好きだよ」と──俺もそんなふうに言える奴になりたいと、そう思うのだ。

 FIN

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