かわいい弟【3】
そうしていると、気候は涼しくなったとは言えないのに、カレンダーは十月になった。日曜日なのでお昼まで眠って、着替えるのも面倒だなと思いつつ、一応ルームウェアから白と紺のボーダーTシャツと黒のパンツに着替えて一階に降りる。
いい匂いがする、と思ったらちょうどおかあさんが昼食にグラタンを焼いていた。おとうさんのすがたがなく、リビングで本を読んでいた尚里に訊いてみると、仕事に行ったそうだ。おかあさんもそうだけど、何しろ図書館だから日曜日に出勤のときもある。
あたしは尚里の隣に腰をかがめ、「小説?」と本を覗きこむ。
「うん。おとうさんが図書館から借りてきてくれた」
「はは。あたしは漫画ばっかだから、おとうさんおもしろくなさそうだもんなあ」
「おねえちゃんも読んでみればいいのに」
「眠くなる自信がある」とあたしは背を伸ばし、キッチンに行ってオーブンの中のまろやかな匂いがするグラタンを覗く。ふたつしかグラタン皿は並んでいなくて、「誰か食べないの?」と訊いてみると、「おかあさんとチカくんのぶんはあとで焼くの」とおかあさんはグラタンソースを煮込んだらしいお鍋を洗っている。
「何でチカ?」
「チカくんのおかあさんに、チカくんの昼食頼まれてるの。お昼頃、旦那さんと出かけてるからって」
「ふうん。チカが食べにくるの?」
「ミキちゃん、持っていってあげてよ。お隣だし」
「えーっ」
「いいじゃないの、毎朝お世話になってるんだから」
むうっとふくれていると、「僕が持っていってもいいよ」とリビングから声がした。振り返ると、膝で本を閉じた尚里がこちらを見ている。
「チカくんは、ミキちゃんが持ってきたほうが嬉しいと思うよ」
「何でよ。じゃあ、ナオと一緒に持っていく」
「チカくん、がっかりするじゃない」
「別にしないよ。ナオも来たほうがチカは嬉しいでしょ」
おかあさんは肩をすくめてそれ以上言わず、お鍋に向き直った。あたしは尚里のそばに戻って、「一緒に行こうね」と言う。尚里はこくんとして、あたしはその頭をぽんぽんとしてあげると、ソファに座ってグラタンが焼き上がるのを待った。
そんなわけで、先に仕上がったマカロニグラタン二皿をあたしと尚里が食べて、そのあいだに残りの二皿を焼いた。あたしたちが食べ終わる頃には、焼き上がった誓のぶんは粗熱も取れていて、ラップをするとお皿を巾着に入れる。「いってらっしゃい」とおかあさんに送り出されて、あたしと尚里はお隣を訪ねた。
「チカいるのかな。デートとかないのか、あいつ」
「チカちゃん、彼女いるの?」
「どうなのかな。いないと思うけど」
そんなことを話しながらチャイムを鳴らすと、誓は家にいて、玄関から顔を出した。「レポートいそがしいんだけど」と言われ、「昼飯持ってきたうちらに何様だ」と返すと、誓は昼食の用意を知らなかったらしく、面食らっていた。けれど、そういうことなら「ありがたく」とあたしと尚里を家に招きいれる。
あたしと尚里は、誓の家に上がって、案内されなくてもリビングに入って座卓についた。キッチンに行っていた誓は、あたしたちに麦茶を出してくれる。
「レポートいそがしいってさ、チカ、休みなのにデートのひとつにも行ってないの?」
巾着から取り出したグラタンに、スプーンをさしこんでいた誓にそんなことを言うと、誓はあたしをじろりと見る。
「同じ言葉を、そのままミキに言いたい」
「あたしはいいの。チカならいるでしょ」
「………、まあ、大学にそれっぽいのはいるな」
「それっぽいって彼女?」
「つきあってはないけど、微妙というか」
「つきあえばいいじゃん」
「向こうが押してきてるだけだし」
「贅沢言ってると、遊ぶ間もなく就職してるよ」
「ミキはどうなんだよ」
「んー、あたしから声かけようというのは特にいない。告られたりしたら考えるけど、あたしは告られるなんてないからなあ」
「合コンとか行ったりしないのか」
「チカってそういうの行くの?」
「サークル入ってると、頭数になるときはあるな」
「ふうん。意外。あたしは合コンは興味ないかな」
そんなことを話していると、ふと尚里が静かなのに気づいて、隣を見た。尚里はわずかに睫毛を陰らせ、うつむきがちに麦茶を飲んでいた。「ナオ」と声をかけると尚里ははっと顔を上げ、あやふやに咲うと「僕にはよく分からない話だね」と小さな声で言う。
「あ、そうだよね。ごめんね」
「ううん」
「ナオはモテそうだよな。クラスとかに好きな子いないのか」
「い、いないよ」
尚里はびっくりしたみたいに誓に首を振って、「そっか」と誓がグラタンを頬張ると、息をついてまたうつむく。何だか落ちこんでいるように見えて、置いてきぼりにするつもりのなかったあたしは、ばつが悪くなる。確かに、中学生に合コンだの何だのという話はついていけないか。
昔の尚里は、あたしと誓が会話していて、内容がよく分からなると、「どういう意味?」とついてこようとしていた。最近はあまり割りこまず、どこか、誓に対して懐く感じが薄れてきた気がする。あたしには変わんないんだけどなあ、と尚里の頭を撫でると、尚里はあたしを見てちょっとだけ咲った。
グラタンを食べ終えた誓は、「おばさんによろしく」と洗ったお皿を巾着にしまってあたしに渡した。このあともレポートをするそうで、あたしもけっこう課題が溜まってるよなあ、と思い出す。ここで誓をつついているよりおとなしく課題やるか、と決めると、あたしは「また明日ね」と言って、尚里と誓の家をあとにした。
家に帰って玄関で靴を脱いでいると、「おねえちゃん」と尚里に呼ばれた。振り返って、「なあに」と覗きこむと、尚里はあたしの手を取って、ぎゅっと握ってきた。あたしはさっきの沈んだ尚里を思い返し、「寂しくさせちゃったね」と尚里を軽くハグして頭を撫でてあげた。
尚里はあたしの服をつかみ、しがみついてくる。中学二年生の男の子にしては、尚里は本当に素直に甘えてくれる。それがあたしは嬉しいし、かわいい。
「少し課題やるけど、キリがついたら、一緒にこないだ録画した映画観ようね」
なるべく優しい声で言うと、尚里はこくりとしてから、そっと軆を離した。あたしを映す瞳がちょっと濡れていて、よほど寂しかったのかと咲ってしまう。「あたしの一番は、ナオだから大丈夫だよ」と言うと、尚里はあたしをじっと見つめてから、やっと嬉しそうに微笑んでうなずいた。
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