Honey Marry-4

おねえちゃんが好き【1】

「尚里、今日、俺んち寄れる?」
 帰りのホームルームが終わって終礼したあとは、いつも同じクラスの親友の蒼樹あおきと教室を出る。
 おとなしい優等生の見本みたいな僕が、長髪を染めてピアスもする派手な蒼樹と歩いていると、無理やり誘われているイジメにも見えるらしい。たまに先生に心配されるときがあるけど、内気な僕には蒼樹は何でも話せる大切な親友だ。
 今日も放課後に一緒に廊下を歩いていると、蒼樹は僕を見下ろしてそう言った。
「寄れるよ。遅くはなれないけど」
「数学で宿題になったとこが分かんねえ」
「ん。教えられると思う」
「サンキュ。悪いな、しょっちゅう」
「ううん。僕も、蒼樹の部屋に行ったらいろいろ話せるから」
「そっか」と蒼樹は笑んでから、頬にかかった前髪をかきあげる。しっかりした眉、切れ長の目、ちょっとすねたような口元、綺麗に削れた頬から顎の線、軆つきも僕と違ってすでに男らしく、不良とか劣等生とか言われつつ、蒼樹はモテる。
 おねえちゃんや誓にいちゃんは僕はモテるだろうと言うけれど、実際はそんなことはない。むしろ、女々しいとかなよなよしているとか言われるくらいだ。中学生にもなると、中性的なんて人気になる要素ではない。「尚里は惚れられるというか、ファンって感じの女子はいるよなあ」と蒼樹は言うけれど、まあ、しつこい女の子がいても困るだけだから僕はそのくらいでいい。
 上履きをスニーカーに履き替えて、靴箱を抜けると、やっと涼しくなってきた空の下に出る。
 中間考査が終わったばかりの十月の下旬、そろそろほとんどの生徒が冬服に衣替えした。下校にざわめく中で、僕も蒼樹も黒の学ランを着ている。
 通学路沿いの桜並木は落葉し、街路樹の銀杏と混ざって落ち葉がひるがえっていく。それでも、まだときおり陽射しが暖かい日もあって、今年は暖冬かなあと思ったりする。
 蒼樹の家は、僕が暮らす一軒家の住宅街の手前にあるマンションで、帰宅の通り道だ。家族であるご両親と高校生のおにいさんは、あんまり家にいなくても、「それぐらい普通だろ」と蒼樹は気にしない。
 蒼樹の部屋はおにいさんと共有で、けれどつくえやベッドはひとつしかない。おにいさんは、夜ここの床で寝るくらいしかしなくて、実質蒼樹の部屋なのだそうだ。「何か寂しいね」と言うと、「兄弟って本来そんなもんだよ」と蒼樹は笑いを噛む。
「尚里はどうだよ。姉貴と」
 床にじかに座り、数学のノートを開く蒼樹がにやりと訊いてきて、同じく腰を下ろした僕は、少し頬を染めて首をかしげる。
「別に、……何もない、かな」
「姉貴の幼なじみの野郎は、大丈夫なのか」
「……ん。でも、やっぱりチカちゃんは、おねえちゃんが好きだと思う」
「彼女作らないのは、おおかたそうだろうしなー」
「早く、誰かとつきあったらいいのに。おねえちゃんがチカちゃんを意識したら、勝てないよ」
 そう言った僕は、ため息をついて数学の教科書を取り出すと、宿題になった問いがあるページを開く。
 ずいぶん子供の頃から、僕はおねえちゃんのことが女の人として好きだ。おねえちゃんが僕をそんなふうに見ていないのは分かっている。それでも、僕はどうしてもおねえちゃんが好き。
 僕をかわいがって、甘やかして、大事にしてくれるおねえちゃん。どんな女の子にも心が揺らいだことはない。どんな女の子より、おねえちゃんがかわいいと思う。
 飛び抜けて美人とかではないけれど、くせっ毛のダークブラウンの髪も、化粧をしていなくても整った弧の眉も、くっきりした目尻で猫のような瞳も、愛嬌があってかわいい。肌もなめらかだし、ほっそりしているし、鎖骨とか手首とかの骨も綺麗だし。だから、僕と同じぐらいおねえちゃんの近くにいる幼なじみの誓にいちゃんは、その魅力を知っていて、秘かにおねえちゃんを想っている。
 おねえちゃんとの距離は、ほとんど同じなのに、弟である僕はどうしても届かなくて、誓にいちゃんは手を伸ばせばきっとすぐ捕まえられる。その差が悔しくて、嫉妬して、無意識に僕は昔より誓にいちゃんとは距離を置いてしまっている。
 誓にいちゃんは、それをさほど気にしていないみたいだけど、おねえちゃんは心配している。「チカと何かあった?」と訊かれて、僕は黙って首を振って、いつもおねえちゃんにしがみつく。すると、おねえちゃんの匂いがする。そして強く思うのだ、絶対におねえちゃんをチカちゃんに渡したくない。
 僕の気持ちを知っているのは、ゆいいつ、親友の蒼樹だけだ。蒼樹とは去年、今の中学で知り合った。一年生のときも同じクラスだったのだけど、一学期の林間学校で内気な僕とおもしろくなさそうな蒼樹は余り者の班で一緒になって、自然の家では同じグループで山を登ったりカレーを作ったりしていたら、仲良くなった。そのあとの夏休みもよく会って、宿題を協力して進めた。
 おねえちゃんへの気持ちを話したきっかけは、蒼樹が僕の両親の仲を褒めて、再婚であることを話したときだった。おねえちゃんとは血がつながってないと言って、つい、「それでも好きになっちゃいけないのかな」と言ってしまった。
 蒼樹は僕を見つめて、「義理だったら、姉弟は結婚できるだろ」と言った。それを知らなかった僕は「そうなの?」と驚いてしまって、そんな僕に蒼樹は笑って、「いけないことでも悪いことでもないんだぜ」と言ってくれた。
 僕が解説して宿題を片づけた蒼樹は、帰る前にカフェオレを作ってくれた。甘い香りを嗅いで、温かい飲み物がおいしくなってきたな、と思う。蒼樹はコーヒーを飲みながらスマホをいじって、「つばめから何か来てる」とつぶやく。
美坂みさかさん?」
「ああ。尚里と宿題するって言っといたから、『長川ながかわくんの答え丸写しするなよ』だそうで」
「蒼樹には、美坂さんが幼なじみなんだよね」
「ここの一階下に住んでるだけだぜ。かわいくねえし」
「美坂さんは、まじめな感じ」
「だから、俺にああだこうだうるせえよ。ほっとけっての」
「蒼樹が好きだから言うんじゃないの?」
「気に食わないだけだろ」
 蒼樹は舌打ちしてベッドにスマホを放る。それでも、投げやりな蒼樹が美坂さんのことを拒否はせず、連絡が来たら返すのは、蒼樹は美坂さんが気になってるからなのかなあと考える。何となく、あえて訊こうとは思わないけれど。
「じゃあ、また明日学校で」
 十七時になる前に、僕は蒼樹の家をあとにした。すうっと通り抜ける風が冷たく、空は緩やかに夕暮れを落とそうとしていた。マンションを出て、おねえちゃんは今日も友達のところで遅いのかなあ、と伸びる影に視線を落としながら、家路をたどる。
 現在大学生のおねえちゃんは、中学生のときから彩季さんという同級生と仲がいい。彩季さんは今、大学の近くでひとり暮らしをしているそうで、おねえちゃんはいつもそこで長く過ごして、夜遅く帰ってくる。
 住宅街の暗い夜道が心配だし、もしかして僕の気持ちに気づいて避けてるのかな、なんて被害妄想もしてしまうし、僕は毎晩おねえちゃんが帰宅するまで眠れない。
 おねえちゃんがようやく帰宅すると、僕は部屋から顔を出してみる。おねえちゃんは僕に気づくと微笑み、「ただいま」と頭を撫でてくれる。頭を撫でるなんて、たとえば親にされたら恥ずかしいけど、おねえちゃんにされるのなら嬉しい。ただ触れてもらえるだけで嬉しい。
 おねえちゃんが無事帰ってきて、変わりなく優しく接してくれて、僕はやっと安心して眠ることができる。
「ただいま」
 家に着いてそう声をかけると、「おかえりー」と声がして僕はぱっと顔を上げた。それがおかあさんの声でなく、おねえちゃんの声だったからだ。
 僕は急いで、スニーカーを脱いでリビングを覗く。
「ナオ。おかえり」
 リビングのソファにおねえちゃんがいて、僕は思わず笑顔になりそうなのを何とかこらえ、「おねえちゃん」とそのかたわらに駆け寄る。
「いつ帰ってきたの」
「んー、さっき。彩季が今夜は彼氏と長電話するそうで」
「遠距離の?」
「そう。さすがに、その空間を邪魔しようとは思わないわ」
「そっか。じゃあ、今日は一緒に夕ごはん食べれるの?」
「うん。今日寒いからおでんらしいよ」
 嬉しい。おねえちゃんとごはんを食べるのは好きだ。おねえちゃんは僕を眺めて、「学ランのナオいいなあ」と言う。
「そ、そうかな」
「うん。でもナオはブレザーも似合いそうだよね。高校はブレザー着てほしいな」
「もう進学する高校のこと考えてたほうがいいのかな」
「中三になる前には、進路調査あると思うよ」
「そっか。高校生とか、実感湧かない」
「ナオは賢いから、志望の高校行けるよ。あたしも一緒に考えてあげるし」
「ほんと?」
「もちろん。どうしても決まらなかったら、あたしが卒業した高校行っとけばいいよ。ブレザーだし」
 僕はこくんとして、早く高校生になって、大学生になって、大人になりたいと思った。誓にいちゃんがおねえちゃんを捕まえないうちに、僕がおねえちゃんに追いつきたい。「着替えておいで」とおねえちゃんに言われた僕は、うなずいてひとまず自分の部屋に向かった。

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