Honey Marry-6

おねえちゃんが好き【3】

 修学旅行は十一月の半ばで、班を決めた日からあっという間に当日になった。六時に校門に集合だから、五時にはスマホのアラームが鳴るようにしていた。寝ぼけながらそれを止めると、ため息がもれる。
 ついに出発の日になってしまった。行きたくない。ふとんを出るのも億劫で、もそもそと体温の中にもぐってしまう。サボって蒼樹に単独行動をさせるのも気が引けるのだけど、蒼樹ならいざとなったら一匹狼でも大丈夫そうだな、とか思ってしまう。
 おねえちゃんと離れたくない。ただでさえ、おねえちゃんが大学生になってからは、一緒の時間も減っている。おねえちゃんと同い年ならよかったな、とか考える。そうしたら、修学旅行だって一緒だし、大学も一緒に通えていたし──チカちゃんはいいな、ともやもやする。僕の叶わない夢を、誓にいちゃんは全部通過して、おねえちゃんの隣にいる。
 おねえちゃんを離れることで、誓にいちゃんの存在だって心配だ。僕がいないときを狙って仲良くされたら、と思うと悔しくて泣きそうになる。思いわずらうほど、やだ、行きたくない、とふとんを握りしめる。
 おねえちゃんと離れたくない。おねえちゃんから目を離したくない。
 そう思って、軆をふとんの中に沈めたときだった。
「ナオ? そろそろ起きないと、遅れるよ」
 ふとんの中でぴくんと動いて、僕はのそっと顔だけ出した。まだ薄暗い部屋のドアを開けているのは、ルームウェアのおねえちゃんだった。「おねえちゃん」と小さな声で答えると、「入るよ?」とおねえちゃんが部屋に踏みこんでくる。
「起きてるなら、早くごはんとか食べにいかないと」
 おねえちゃんはそう言って僕を覗きこんできて、僕はカーテン越しの薄明かりの中のおねえちゃんの化粧をしていない素顔を見つめる。
「調子悪い?」
「……ううん」
「じゃあ、友達も待ってるでしょ」
「ん……」
 おねえちゃんはベッドサイドに腰かけて、僕の頭を撫でた。その感覚が懐かしくて泣きそうになり、僕は目を伏せる。
「ナオ」
「……ん」
「遅刻したら、先生もきっとうるさいよ」
 そんなの、言ってほしい言葉じゃない。僕はふとんを持ち上げて顔を隠す。
 いっそ、このまま修学旅行なんか行かずに済んで。おねえちゃんと部屋にふたりきりでいられたらいいのに。バカみたいにそんなことを考えてしまう。
「……あんまり、修学旅行、行きたくない?」
 ふと、おねえちゃんがそう言った。僕はびくんと肩を揺らしてしまう。「そっか」とおねえちゃんはそれで察したようで、ちょっと咲うと、「あたしもあんまり好きじゃなかったなあ」とつぶやく。
「……そうなの?」
「あたしは、家族といるのがけっこう好きだから。ナオに目が届かなくなるのも心配だったし」
「僕……?」
「うん。あたしがいない隙に、ナオに悪さする奴はいないかなって心配だった。ナオはかわいいからね」
「僕……も」
「ん?」
「僕も、僕がいないあいだにおねえちゃんに何かあったらって、……怖くて、行きたくない」
「大丈夫だよ。ちゃんとナオのこと待ってるから」
「いきなり、誰かを彼氏にしてたりしない?」
「そんなの、できるわけないじゃん」
「……でも」
「大丈夫だよ。彼氏はちゃんとナオに認めてもらってから作るし」
「ほんと?」
「代わりに、ナオの彼女もあたしが認めさせてよね。しっかりした子じゃないと許さないんだから」
「か、彼女なんて作らないよ」
「そう? それが一番嬉しいけどね、姉としては」
「僕も……おねえちゃんに彼氏ができたら、……寂しいな」
 おねえちゃんは咲って僕の額をさすると、「じゃあ、とうぶんはナオがあたしの彼氏だね」と額に額を当てた。心臓がどくんと跳ねて、頬が熱くなる。おねえちゃんの柔らかい匂いがする。軆の関節が蕩けそうに痺れる。
 好き。おねえちゃんが好き。
 口からこぼれそうになってしまう。それを何とかこらえていると、おねえちゃんは軆を離して「あたしも寂しいの我慢するから」と僕のふとんをめくる。秋の朝の冷気がひやりと足元に触れる。
「ナオも我慢して、行っておいで。ナオが帰ってくる日は、彩季のとこに寄らずに帰っておくから」
「……分かった」
「よし、いい子。ほら、一階でおかあさんがごはん作ってるよ」
 僕はこくんとすると、ベッドを降りて立ち上がった。おねえちゃんは僕の手を取ると、一度軽く抱きしめてくれた。僕もおねえちゃんをぎゅっと抱きしめる。それから僕たちは軆を離し、「急いで」とおねえちゃんに言われて僕は部屋を出た。
 それから、ばたばたと顔を洗ったり朝食を取ったりして、僕は制服すがたになり、荷物でふくらんだトラベルバッグを肩にかけて玄関でスニーカーを履いた。
「忘れ物ない?」とおかあさんに心配されて、最低限、財布や生徒手帳、スマホがあるのを確かめる。「大丈夫」と言って家を出ようとしたとき、リビングのドアからおねえちゃんが顔を出して「いってらっしゃい」と言ってくれた。「いってきます」と僕はそれに応えると、二泊三日頑張ろう、と身を返してまだ空気も気温も蒼ざめている黎明の中に踏み出した。
「尚里。はよー」
 学校の前にはバスが何台か停まっていた。あれに乗るのかあ、と思いながら校門を抜けると、もうけっこう同級生がやってきていた。蒼樹のすがたを探そうとすると、肩をたたかれて蒼樹のほうが僕を見つけてくれた。
「遅かったじゃん」
「ん、起きるのがつらかった」
「はは。六時集合って鬼畜だよな」
「ほんと。まだ来てない人いるのかな」
「来なかったら置いていくとか先公言ってるけど、まあ十五分は待つんだよな」
 そんなことを話していると、先生がクラスごとに列を作らせて荷物を集め、運転手さんがそれをバスに積みこみはじめた。僕と蒼樹も列に並んで、荷物を先生に渡し、荷物を預けた生徒からバスに乗りこむ。蒼樹は僕に窓際を譲ってくれた。そうして、荷物と生徒がバスに収まると、市内の駅まで一時間くらい揺られる。
 新幹線に乗り換え、目的地に到着すると一日目は先生の引率で街を見てまわった。十七時過ぎにホテルにチェックインすると、班ごとに部屋の鍵をもらって荷物をおろしにいく。部屋にちゃんと生徒がたどりついたか、先生たちは十八時まで点呼にまわり、そのあいだ僕たちは部屋の中で自由時間だ。
 十八時からミーティングがあって、十九時から夕食、二十時から二十一時は大浴場を貸し切ってあるので、その時間内に自由に入浴する。二十二時までは再び自由時間で、敷いたふとんに転がってお菓子を食べながら、普段そんなに仲がいいわけではないのだけど同じ班になった三人と雑談する。
浅間あさまって美坂とよくしゃべってるけど、実際どうなんだ?」
 スナック菓子のふくろを開けつつ、やっぱそういう話題になるんだな、とか思っていると、質問された蒼樹は「幼稚園からの腐れ縁だな」とポテトチップスを食べながら答える。
「幼なじみ?」
「マンションが一緒なだけだし」
「でも、美坂は浅間には気い許してる感じあるよなー」
「どこがだよ。咬みついてきてばっかだぜ」
「というか、俺、長川の好きな奴がぜんぜん分からねえんだけど」
 突然話題を振られて、「えっ」と僕はスナック菓子を口に入れようとしていた手を止める。
「あ、それ、俺もだ」
「俺も俺も。いないってわけじゃないんだろうなあと感じるけど」
「え、……と。僕は──」
 どうしよう、と答えに迷っていると、「尚里の好きな奴はクラスにいないぜ」と蒼樹が言った。
「もっと年上のおねえさんだよ」
「はっ? マジで」
「意外すぎる」
「何それ、カテキョとか?」
「ん、うん。まあ」
「うおーっ、男子の夢じゃん!」
「美人? いくつ?」
「か……かわいい、人かな。十九の大学生」
「うわー、何か長川見る目変わるぜ」
「泣く女子も多いだろうな……」
 ごまかせたのかな、と蒼樹をちらりとすると、蒼樹は小さくうなずいた。
 ほっとしながら、少しだけ嬉しくなる。僕は誰かに「好きな人」の話をしたことがなかった。もちろん、好きな人がおねえちゃんだなんて話したら、この三人はドン引きするだろう。それでも、かわいくて、年上の、大学生の女の人ということだけ切り取って話したら、羨む恋をしているように言ってもらえる。
 その夜、僕はやっぱり眠ることができなくて、みんな寝てしまった頃、ふとんを抜け出して窓際の椅子に座ってカーテンをめくり、ネオンを眺めていた。
 おねえちゃんは起きているだろうか。まだ彩季さんのところだろうか。電車の中なら、無事夜道を帰宅できるといいけれど。
 そっと額に触れてみて、朝、おねえちゃんがそこに額を重ねてくれたのを思い出す。嬉しかった。どきどきした。でも、おねえちゃんにとっては、修学旅行に行きたくないなんてわがままを言う僕を、なだめる手段だったのだろう。
 分かっているけれど、おねえちゃんが僕で何も感じないのが悔しい。たとえば、誓にいちゃんでどきどきすることはあるのだろうか。姉弟よりは、幼なじみのほうがまだ意識の範囲内だろう。
 朝、満員電車でおねえちゃんは誓にいちゃんに守ってもらっているらしい。そういうとき、おねえちゃんは誓にいちゃんを意識しないのだろうか。僕はおねえちゃんがそばに来て、いい匂いがして、柔らかな体温を感じるとすごくどきどきするのに──
「尚里」
 こつん、と後頭部を小突かれてはっと振り返ると、スウェットすがたの蒼樹が、いつのまにか背後に立っていた。「起こしたかな」と言うと、「最初から起きてたよ」と蒼樹はテーブルを挟んでもうひとつある椅子に腰かける。
「姉貴のことでも考えてた?」
「……うん。あ、さっきはごまかしてくれてありがと」
「いないって言っても、逆に面倒そうだったしな」
「うん。何か嬉しかった。好きな人がいるって言えたのは」
「そうか。あの話だけ聞いてると、かわいい女子大生のカテキョってレベル高いな」
「かわいい女子大生はほんとだもん」
「姉貴に告ればいいのになあ」
「えっ。そ、それは、……ダメだよ」
「黙ってて気づいてもらえそうなのかよ」
「それはない、けど」
「幼なじみの野郎も油断ならねえしさ。俺は尚里を応援したいと思ってるよ」
「蒼樹……」
「好きならいいじゃん。姉貴だなんて気にすんなよ」
 僕は弱く咲って、細い息をついてうつむいた。確かに、きっとこのままではおねえちゃんは誓にいちゃんに奪われるのが時間の問題だ。僕が動かないと、おねえちゃんが振り向いてくれることはない。
 おねえちゃんには、僕はただの弟だ。とうぶんは彼氏だね、なんて言ってもらったけど、「とうぶん」には限りがある。僕はずっとおねえちゃんの彼氏でいたい。恋人ができるまでの仮の恋人なんて嫌だ。そんなのじゃ、僕は我慢できない。
「おねえちゃんは」
「ん」
「……今、僕のこと思い出したりするのかな」
 睫毛で視界が霞んで、ネオンがきらきら窓を泳ぐ。「どうだろうなあ」と蒼樹は静かに言って、僕は寒気に椅子に膝を引き上げて抱えこんだ。
 おねえちゃんに触れられて灯る発熱が欲しい。そしたらあったかいのに。心臓が急速に息をして、軆も満たされるのに。
 そんなことを思いながら、僕は背もたれに寄りかかり、空に朝の光が射す頃までそこでぼんやりと過ごしていた。

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