Honey Marry-9

離したくない【3】

「──やっと誓くんも思い切ったね」
 その日の夜、例によってあたしは彩季の部屋に寄り道して、夕食のピザを食べながら誓に告白されたと打ち明けた。「美希音が恋バナ始めた!」と彩季はげらげら笑って、あたしはそれに怒りながらも、クリスマスにはデートもすることを話す。彩季はうなずいて、蕩けたチーズがついた指を舐めてそうつぶやいた。
「彩季、チカの気持ち知ってたの?」
 やっと、という言葉が引っかかって訊いてみると、「うん」と彩季はあっさり肯定する。
「相談されてたとか」
「いや、別に。見てりゃ分かる」
「見てて分かったの!?」
「分かってなかった美希音のがすごい」
「何だよ……みんな恋愛脳かよ」
「クリスマスイヴにデートかあ。リア充じゃん」
「……あ、ほんとだ」
「いいなあ。あたしはクリスマス一緒に過ごせたことないしな」
「過ごしたいの?」
「そりゃ、過ごしていい加減に処女をいただいてほしいわ」
「………、クリスマスにデートって、やっぱ致さなきゃいけないの?」
「致すって」
「あたし、泊まるのなしって言ったんだけど」
「公園でやるの?」
 しれっと言った彩季に、あたしはぞわっと寒気を覚える。
「ふざけんなっ。しねえよっ。無理だわ、チカとそんな……いやいやいや」
「クリスマスのイヴにデートって、つまりそういうことまでOKしたようなもんでしょ」
「何、その都市伝説。映画観て、ごはん食べて、せいぜい手をつないで帰宅でしょ」
「美希音ってバカなの?」
「つきあってないんだよ、絶対。クリスマスの時点では。せめてつきあってからにしろよ」
「誓くん、生殺しだなあ」
「チカってそんな……肉食じゃないでしょ。大丈夫でしょ」
「草食は、いきなりクリスマスデートから狙ってこないと思うけど」
「えーっ……そんな、え、どうすればいいの。無理なら、やっぱ断ったほうがいいかな?」
「十九の娘が処女喪失のチャンスに狼狽えるな」
「どこがチャンスだよっ。普通に危機だわ。うわー。うわー。やだー」
「それって誓くんが嫌なの? 男が嫌なの?」
「えっ……わ、分かんないけど、早いじゃん。もっと段階踏もうよ」
「子供みたいなこと言うなあ」
 彩季はあきれながらタピオカミルクティーを飲む。あたしは残っているピザを食べるのも忘れ、混乱して頭を抱えてしまう。
 何なんだ、常識。そうなのか、一般。クリスマスイヴのデートをOKしたら、そんな意味になってしまうなんて。生理のときみたいうんうん唸っているうち、「あ、生理って言えばいいんだ」とひらめくと、彩季に鮮やかに後頭部をはたかれた。
 クリスマスイヴ。どうしよう。どうしたらいいの。さくっと誓に処女を捧げるっていうの。こんなにいきなり? あたしのほうは誓に恋愛感情なんてまだないのに? そんなの誓だって嬉しくないんじゃないの?
 ぐるぐる悩んで、本気で誓にデートの断りを入れることも考えたけれど、本人の笑顔を前にすると結局言えなかった。このまま、あたしは流されてしまうのか。別に、誓が気持ち悪いとか。拒絶反応があるとか。生理的に受けつけないとか。そういうのはないけれども。いずれ考えることなら、できるかもしれないけど。クリスマスにデートしたというだけで今すぐそういう仲になるなんて、何だか怖い。
 いっそぶっちゃけて、そういうことはありませんよねとか訊いてみようか。幼なじみだし。いや、でも「あるだろ」と当然のように答えられたら、「ですよね」としか言えない。
 どうしよう。めちゃくちゃ恥ずかしいけどコンドームとか買っておいたほうがいいのか。でももし誓に意外とその気がなくて、あたしだけそんなのを持っていて、ポケットからぽろっと落ちたりしたら死亡だ。
 どうすればいいの、とどんどん近づいてくるクリスマスに日曜日の昼からカビを生やすきのこのように憂鬱を放っていると、「おねえちゃん」と服を引っ張られて、あたしはリビングのソファで抱えていた膝から顔を上げた。
「ナオ……」
 あたしを心配そうに覗きこんできているのは尚里だった。尚里の顔を見ていると、何だか泣けてきそうなほどほっとしたから、あたしは尚里の手をつかんだ。尚里は不思議そうにしたものの、優しく手を握り返してくれる。温かい。
「どこか具合悪いの? 大丈夫?」
「……ナオだったらなあ」
「えっ」
「ナオだったら、こんなに悩まなくても、安心なのに」
「な、何?」
「ナオ、あたしね、クリスマスイヴはチカとデートするの」
「えっ──」
「でも、何か、怖くて。クリスマスにデートってさ……何というか、あるじゃん。いろいろ。そういうの、あたし、まだやだよ」
「チカちゃんと、デート……するの?」
「うん。どうしよ。って、ナオに言っても仕方ないけどさ。ごめんね。今だけ、ちょっとナオに甘えたい」
「……い、嫌だったら、断らないの?」
「チカ、嬉しそうだからなあ。何か、断るのもしんどい」
 尚里はうつむき、ただつないだ手に力をこめた。あたしは尚里の胸に、ぽす、と頭を預けてため息をついた。尚里の服はあたしの服と同じ柔軟剤の匂いがする。尚里がぎこちなく頭を撫でてくれて、「ありがと」とあたしはちょっと咲った顔を見せてあげられた。尚里は何も言わずにあたしを見つめていたけど、不意に眉を寄せて陰った表情になる。
「ナオ?」
 あたしが首をかたむけて覗きこむと、尚里はきゅっと目をつぶって手を離し、その手で目をこすった。あたしは驚いて目を開き、尚里の腕に手をかける。でも尚里は一歩引いて、「きらい」と不意につぶやいた。
「え?」
「嫌い。……みんな、嫌い」
 突然の言葉に動揺すると、尚里は震える声で続けた。
「おねえちゃん、僕が一番だって言ったのに」
 あたしが茫然としたうちに、尚里は身を返してばたばたと二階に上がっていった。昼食の匂いがただよってくるキッチンから「どうしたのー?」とおかあさんの声がする。けど、あたしは何も答えられなかった。
 嫌いって。尚里があたしのこと嫌いって言った。
 何で。いや、何でも何も。中学生の男の子にする話ではなかった。 クリスマスにそうなるかもしれないあたしと誓が、きっと気持ち悪くなったのだ。そうだ。まだ幼い尚里に愚痴るような話ではなかった。
 何やってんだろ、とまた膝を抱え、そこに顔を埋めてしまう。尚里。ただでさえクリスマスのあたしの留守を今知って、ショックだったろうに。ぜんぜん気遣ってあげられなかった。最低だ、とあたしは目を閉じて、こぼれそうな涙を唇を噛んでこらえた。

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