romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

男の娘でした。-1

僕と彼女の物語

 店内の古時計が十五時半を知らせて、ぼーんと一回鳴った。
 そろそろ襲撃が来るぞと思った僕は、イヤホンをして再生させていた動画を止め、スマホを置いた。
 狭い店内には、所狭しと古き良き駄菓子が並んでいる。
 まだ五月なのに、すでにクーラーがないのがつらくて、せめてかたわらでまわっている扇風機の首を固定する。ささやかな涼風がくせっぽいショートカットを揺らし、僕はため息をついて会計台に伸びる。
 タンクトップからの白い細腕に頬を当て、古時計の秒針と扇風機の風音を聴く。平和だなあ、と我が家ながら思っていると、近所の小学校のチャイムが聞こえてきた。
 僕がふうっと息をついて身を起こすと、まもなく、店の前の通りが下校小学生で騒がしくなる。そして彼らは、いったん帰宅すると、本日ぶんのお小遣いを持って、「姫ーっ!」「来たぞーっ‼」とかわめきながら引き戸を勢いよく開けてくる。
「姫じゃない!」
 いらっしゃい、も言わずに、仏頂面で僕はいつもの言葉を返す。「姫じゃん!」と負けじと言い返す男の子、「姫かわいーっ」と黄色く騒ぐ女の子、ありがたいお客様なのだけど、「姫ではありません!」と僕は強調する。
 毎日のことだけど、子供ってマジで揶揄うことに飽きない。
「あのね、僕はおにいさんとか呼ばれたいわけですよ」
「姫って、昔は男子そーなめにしてたんでしょ? かじ先生が言ってた」
「また梶先生、余計なことを……」
「ねえねえ、そーなめって何?」
「総受けみたいな感じじゃない?」
「そ、そーうけ?」
「そこの腐女子の君! 変なこと言ってんじゃない」
「姫、アイスまだ始めないのー?」
「あー、まだだわ。いや、姫じゃないっつってんだろうがっ」
 僕がいくら怒っても、子供たちはわざとらしく「きゃー」とか怖がるふりをする程度で、まったくもってめげない。
 くっ、確かにかわいいけどね。僕はかわいいけどね。自他共に認める愛らしさだけどね。ちょっとぐらい、こう、二十二歳の大人としての威厳というか、そういうものを感じてもらえないかなああああ──
 とか僕が唸っていると、「はい姫、これちょーだい」と子供たちは本日のおやつを決めて、小銭を会計台に置いていく。
 そうしているうちに、また「ひーめっ」とか言いながらさらに現れる子がいて、僕は毎日この時間帯に、百回くらい「姫じゃない!」という台詞を口にしている気がする。
 平日、例の梶先生もいる小学校の放課後から十七時ぐらいまでが、一番繁盛する。お洒落の欠片もない、こんな昔ながらの駄菓子屋に繁盛する時間帯があるだけでも、ありがたいけれど。
 もちろん、この駄菓子屋の売り上げで家族六人は食っていけないので、おとうさんもおかあさんも外で働いている。並ぶ駄菓子のおろしなんかは、おじいちゃんとおばあちゃんがまだまだ元気にやっている。
 僕は自営業のこの駄菓子屋の店番で、今はほかに仕事はしていない。そして、妹の姫亜きあは女子高生で、だいたい繁盛が落ち着いた頃に帰宅してくる。
「ねー、姫はどう思う? ここは告白しちゃうべきだと思う? それとも、男の子に言わせるほうがいいかな」
 駄菓子屋に来るとはいえ、最近の小学生はませている。僕もませたガキではあったと思うけど。恋バナにもはや貫禄すら感じる子も中にはいて、今日はそんな女の子が、ほかに客もいなくなったので、いい感じの男子との仲についてずっと僕に語っていた。
「男に言わせるに一票」とか、僕もやや真剣になりつつ答えていると、「ただいまー」と声がして、裏手にまわる玄関でなく、店先からブレザーの制服を着た姫亜が現れた。
 僕と同じくせ毛をセミロングにして、顔立ちはころころの瞳のせいで童顔、背もそんなに高くなくて、あと、何というか、あんまり胸がない。美人というか、かわいいというか、武器は愛嬌って感じだ。
「おかえりー」
「誰? 姫の妹分?」
 女の子がそう言って、「普通にただの妹だよ」と僕が答えていると、姫亜はそのやりとりを見て深いため息をついた。
「おにいちゃん、また小学生に姫とか呼ばせて」
「いや、僕はそれは否定してるから」
「まあ、確かに姫だけどさ」
「姫じゃない」
「おにいちゃんが姫なのに、何で私は町娘なのかなあ。マジおかしいわ」
 そんなことを言いながら、姫亜は僕の後ろを通って家の中に入っていった。「確かに、かわいいんだけど、町娘かなって感じだよね」と女の子が言って、「僕の大事な妹に追い討ちかけないで」と僕は真顔で述べた。
 すると、女の子はふっと息をついて、「今日はこれもらっていく」と風船ガムを選ぶと、「もうちょっと、彼の様子見てみるわ」と残して去っていった。
 ほんと、何だあの貫禄。でも、置いていったのはもちろん一万円のピン札でなく、銀色の五十円玉一枚だけれど。
 そのまま客が途切れたので、僕はうーんと背伸びして、ようやくスマホを手にした。
 いつのまにか通知が届いている。姫亜が帰ってきたってことは十七時まわってんだよな、と古時計を一瞥したあと、もしかしてと画面を起こすと、来ていたのはメッセだ。通知バーに『森沢もりさわ伊鞠いまり』の名前があって、「わあい」とつぶやいた僕は、蕩けるような笑顔になってメッセを確認する。
『今日は定時で終わりました。
 夕食行きますか?』
 ああ、この事務的な文面さえも愛おしい。
 伊鞠はメッセが苦手で、返信したり、ましてやみずから送信したりすることがないのを知っているから。知るまでは「この淡白なメッセ何⁉ 嫌われてる⁉」とか悩んでいたけれど。
『ごはん行きたーい!
 いつもの定食屋でおけ?』
 僕がそんな返信を送ると、まもなく既読がついてから『了解です。』とだけ来て、「うおおおお」と僕はひとりで悶えて盛り上がって、店番の席から立ち上がった。
「姫亜! 僕、今日の夕ごはんは伊鞠とだから」
 私服になってエプロンをまとって、髪もひとつに束ね、台所で夕食の準備を始めていた姫亜は、「えー?」と眉を寄せて振り返ってくる。
「早く言ってよ。もう六人ぶんで作りはじめちゃったよ」
「じゃあ、僕のぶんは明日の朝ごはんにするから取っといて」
「分かった。夕食できるまでは店番やっててね」
「あ、もう閉じるから」
「何で。一応、十九時まで営業──」
「どうせそんな来ないでしょ。いいでしょ、ねえ、いいよね?」
「おじいちゃんには、サボったの伝えるからね」
「いや、そこは十九時まで今日も凛々しく働いてたと言ってよ」
「………、ほんとそういうとこだし。お姫様というか」
「僕は姫じゃない」
「じゃあ、凛々しくあと三十分店番してください。三十分で支度するから」
「うー。伊鞠より早く着いておかないとかっこ悪いよお」
「おにいちゃん、かっこよくはないから気にしなくていいよ」
 しれっと残酷なことを吐いて、姫亜は夕飯を作りはじめ、もう僕の相手をしてくれなかった。
 僕は打って変わって半泣きになりながら、三十分ばかり店番が残っていると伊鞠にメッセで伝える。伊鞠の返事は、『分かりました。』のみで、ああもうやっぱりこういうときは、怒ってないかな、と不安になってしまう。
 スマホでSNSをチェックして、ついていたコメントに返信したりしていると、やがて煮魚とごはんとお味噌汁の香りがただよってきた。お腹すいたなあ、と胃袋をさすって何だか哀しくなっていると、「おにいちゃん、お待たせ」と背後から姫亜が現れる。
「遅いよっ」と僕はがばっと振り返り、立ち上がると、姫亜が何か言い返しているのも聞かずに、家の中に駆けこむ。そして、着替えもせずに財布とスマホと鍵だけ確認すると、玄関のほうから家を飛び出した。
 時刻は十八時をまわり、空も茜色を落として、濃紺へとうつろいはじめている。
 住宅街の歩道を、うちのお客様の多くが通う小学校とは逆方向に走る。坂道に出たら、ダッシュで駆け降りる。僕の家の駄菓子屋みたいに、ちらほらと住宅街の中にクリーニング屋があったり、個人病院があったり、本屋があったりする。
 コンビニはない。この通学路にコンビニができた日には、僕の店はつぶれるのだろうと思う。
 坂道をくだりきるとスーパーがあって、そのスーパーが大きな車道に面している。横断歩道を渡れば駅前で、やっとコンビニとか携帯ショップとかカフェとかがある。でも僕は、横断歩道は渡らず、スーパーの脇の小道に入る。
 その小道には飲み屋が一軒、ラウンジが一軒、そして定食屋が一軒ある。その中の定食屋で、僕はよく伊鞠と食事デートをする。
「おう、いらっしゃい」
 ちょうどお盆で料理を運んでいた大柄な大将が、勢いよく現れた僕に声をかけ、「伊鞠来てますよねっ」と僕は広くない店内を見まわす。
 常連客が騒ぐ中、右手のテーブル席の奥に紺のスーツの背中がある。「伊鞠、ごめん!」と叫びながら僕がそのテーブルに駆け寄ると、その人は読んでいたらしい文庫本をテーブルに置いて、こちらを振り返った。
 艶やかな黒髪ストレートはさっぱりショートカットにされ、切れ長の目も涼しい。通った鼻梁にちょっと澄ましたような口許。パンツスーツを着こなすすらりとスマートな軆つきで、ああ、今日もイケメンすぎる。
 こんな、そのへんの男よりかっこいい女の人が僕の恋人だなんて、本当に、生きがいとも思った「あれ」をやめてよかった。
いえる
 しゃがれたハスキーボイスではなく、心地よいアルトなのがまたいい。僕がへらっと咲って、「はあい」と返事をすると、伊鞠は怒ってはいないけど、にこりともせずに、「十八時半だけど」と言う。
「あ、うん。待たせちゃったよね」
「お店は十九時まででしょう?」
「え、ああ──でも、」
「ちゃんと最後まで店番してこないと、ダメじゃないの」
 あ、違う。伊鞠さん、もしかして、ちょっと怒ってるかもしれない。
「ご、ごめん、伊鞠。待たせすぎたのはほんと──」
「待つのは構わない。店番は癒の仕事なんだから」
 僕は、とりあえず伊鞠の正面に腰をおろすと、「怒っていらっしゃいますか」としゅんとする。
「怒ってはいないけど、十九時まで仕事なら、ちゃんと退勤まで働いてきてほしい」
「退勤っていうか……いや、そしたら伊鞠を待たせるのが三十分どころじゃなくなるし」
「私は三十分でも一時間でも、ちゃんと癒を待ってる。私のせいで仕事をおろそかにはしないで」
「……すみません」
 二十七歳、キャリアウーマンである伊鞠は、仕事に関してはことに厳しい。僕の生きがいは伊鞠になったのに、伊鞠の生きがいは僕とつきあっていたって仕事だ。
 うう、仕事と僕、どっちが大切なの? なんて男の僕が言いたくなるなんて。
「癒」
 首を垂れる僕に、伊鞠はわずかに口調をやらわげる。
「また、私との待ち合わせのために、勝手に店を閉めたの?」
「……そうしようとしたけど、姫亜が夕ごはん作ったあとなら店番変わるって。だから、三十分、ごはんができるの待ってて」
「そう。姫亜さん、今日は高校休みだったの?」
「いえ、登校してました……」
「そうだよね。だから、姫亜さんにはちゃんと謝って」
「……ごめん」
「私には謝らなくていい。私は癒に謝ってもらう憶えはない」
「待たせたのに。いつもだよ。僕のほうが遅い」
「十九時からずいぶん遅くなったら、心配するけれど。それでも、私は待たされて嫌な想いはしてない」
「平気なの?」
「平気という言い方は違う。これから癒と食事ができる楽しみのほうが大きいの」
 伊鞠を見た。伊鞠も僕を見つめる。彼女の面持ちは淡白なままだ。しかも、「まずは食べましょうか」なんて言ってメニューを手にする。
 僕はさっとその手をつかんで、身を乗り出すと、「僕とごはんできるの、楽しみなの?」といちいち確認する。伊鞠はまばたきに怪訝を混ぜる。
「嫌だったら断るでしょう」
「僕ばっかり、伊鞠に押しつけてここまで来てもらってない?」
「来るというか、会社から家までの区間だけど──でも、区間じゃなくても、癒が一緒に食事してくれるならどこにでも行く」
 あ──……っ。
 伊鞠の言葉が、どんなアルコールより全身に駆け巡る。彼女はぜんぜん笑顔じゃないから、甘い台詞のつもりはなくて、単に大まじめに答えているのだろうが。
 伊鞠はいつも仕事第一で、クールで、僕ばっかり熱をあげているような気がする。それでもやっぱり、僕は彼女に愛されているんだなあと実感すると、血管がじわっとほてって甘美に痺れる感覚が襲う。
「癒」
「うん」
「私のことは、待たせていいから」
「うん」
「せめて、着替えくらいしてきて」
「えっ? あ──」
「そんな薄着、男の視線が来るだけ」
「おと……いや、男からは──」
 何となく店内を見まわすと、夕食時でささやかににぎわう中から、確かに下心を感じる目がちらちらきている。それが男からなのは、僕は本能的に分かる。僕はタンクトップに短パンという白い肢体をさらす自分を見下ろし、咳払いした。
「まあ……視線来るけど、男からはいいでしょ」
「良くない」
「何でえ? だって、あっつい──」
「癒はかわいいの」
「そ、それは分かってる」
「分かってない、ぜんぜん。私とだけいるとき以外で、かわいかったらダメ」
 僕が長い睫毛をしばたくと、伊鞠はやっと目線をそらして顔をうつむけて表情を出し、「かわいいのは、私以外の人の前では禁止」と小さな声で言った。僕はきょとんとしたのち、照れている様子でメニューを持ち直す伊鞠に、どんどん頬を緩ませてしまう。
 やばい。これはやばい。かわいい。めちゃくちゃかっこいいくせに、めっちゃくちゃにかわいい!
 ──そう、この物語は、かわいい僕とかっこいい彼女、そんな僕たちが甘やかに愛を深めていく、ただそれだけのお話です。

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