さいれんと・さいれん-5

幸せな日々

 そんな感じで、俺と桃寧のつきあいは、思ったより周りにも受け入れられ、順調に始まった。
 俺は咲世と、桃寧は例の友人と過ごすときもあるけれど、ときどき一緒に登校したり、弁当を一緒に食ったりする。特に放課後は並んで帰ることが多かった。もともと下校は桃寧はひとりだと言っていたから、一緒に帰りたかった。咲世には謝り倒してばかりだが、「俺も勉強してかなきゃいけねえし」と嘘か誠か分からないことを彼は言って、気を軽くしてくれる。
 そして、ゴールデンウィークを待たない日曜日に、初めてデートをすることになった。土曜日の夜、桃寧の私服が見れる、とベッドをごろごろして、まくらをぼふぼふ殴っていたら、隣の部屋が壁を蹴ってきた。
 本当に、あの妹はかわいくない。が、よく考えたら俺も私服でデートに臨むんだよなと気づいて、仕方ないので杏梨に服を見立ててもらうことにした。
「は? 兄貴に彼女?」
 杏梨はそう言って最初は信じていなかったが、俺のメッセアプリの連絡先に「ももね」という女の子の名前が登録されているのを見て、胡散臭そうながら「まあここんとこ浮かれすぎだよな……」と俺のクローゼットを開いた。
 そしてあれこれあさって、「どれもセンスないなあ」と繰り返していたが、最終的に無難なインディゴのジーンズと黒のTシャツ、上に軽く羽織る赤のチェックのシャツまで発掘してくれた。
 借りを作るのは怖いので百円を渡すと、「彼女とのデートの用意に百円かよ」と言われ、千円なのかと思ったが、何とか五百円で許してもらえた。
 翌日の日曜日の十一時、いつも下校で別れる角で桃寧と待ち合わせた。春雨前線も過ぎ去って、暑いくらいの陽気で晴れている。デートで女の子を待たせるわけにはいかないので、俺は十時過ぎにはもうそこに立っていて、そわそわしつついつものゲームをしていた。
「水雫くん!」と不意に名前を呼ばれてはたと顔を上げると、白いワンピースに桃色のレースカーディガンを羽織ったまばゆい桃寧が駆け寄ってきている。
「早い。もう来てたんだ」
「あ、うん。桃寧も──」
 ポケットにしまう前にスマホで時刻を確かめると、十時半をまわったところだ。
「早いな」
「十一時まで待てなくって」
「そっか。あ、私服初めてだな」
「そうだね。変じゃないかな」
「いや、えと、かわいいよ」
 俺の言葉はバカみたいに何の捻りもなかったのに、桃寧は嬉しそうににっこりする。
「水雫くんもかっこいい」
「そう、かな。俺分かんなくて、妹に服決めてもらった」
「妹さんいるの?」
「うん。生意気であんまりかわいくないけど」
「あはは。私の弟はかわいいんだけどねー」
 桃寧の弟なら、確かに美少年だろうなあと思う。というか、桃寧とひとつ屋根に暮らしているとか、くっそうらやましいなそいつ。シスコンだったら敵になるかもしれない。
「今日はどこに行くの?」
「あ、市内の展望台行こうかなって。高いところ大丈夫?」
「うん。そうだね、今日よく晴れてるから景色よさそう」
「一階までにいろいろ、ファミレスもファーストフードも入ってるし。甘いのがいいならカフェもあるみたい」
「カフェ行きたいな。水雫くんとゆっくり話したい」
「ん、分かった。じゃあ、行こうか」
 俺に手を取られて、桃寧はそれを握り返すと並んで歩いてくれる。暖かい風に、桃寧の白いスカートがひらりと揺れる。私服も美少女だなあ、と見蕩れそうになっていると、桃寧は俺を見上げて微笑してくれる。俺は改めて桃寧で彼女である幸せを噛みしめて、歩調を気にしながら駅まで歩いた。
 昼間の電車は空いていて、そんなにしょっちゅう来るわけでもない市内の駅で降りる。すると駅構内はかなりの人混みで、はぐれないように桃寧は俺の手を強く握った。「展望台の前に昼飯食う?」と十二時が近いので訊いてみると、桃寧ははにかんでうなずき、「朝ごはん、どきどきして食べれなかった」と言った。実は俺もそうだったので、ひとまず駅ナカの食堂街に出た。
 ランチタイムのいい匂いがあちこちからただよっている。ハンバーグや丼物屋、和食や洋食、いろいろ迷って、オムライスの店に入った。俺はシンプルなチキンライスのオムライスにしたけど、桃寧はホワイトソースのきのこオムライスにしていた。
 さいわい俺は、今まで何かに深く金をつぎこむことがなかったので、財布にも口座にもゆとりがある。ちゃんとおごれるぞ、と内心で計算しながら、「おいしい」と蕩けそうな口調で言う桃寧をかわいいなあなんて思い、俺もバターの香りがするふんわりしたたまごと、鶏肉の混じった鮮やかなオレンジのチキンライスを頬張った。
 ランチタイムで店内は混んでいたので、食べ終わったらすぐに出ることにした。「私、はらうよ」と言った桃寧に「ありがとう」とは言っておいておごった俺、頑張った。
 駅を出て、春の陽射しがぽかぽかしているにぎやかな街中を歩いていく。最上階が展望台になっているビルまで、若干迷いそうになったが何とかたどりついた。親子連れもカップルも友人一行も、いろんな人が回転ドアに吸いこまれていく。
 ビルに入るだけならもちろん金はいらないが、最上階の展望台では料金が必要だ。ちゃんとチェックしていた俺は「金いるのかよ」と慌てることはなく、大人チケットを二枚買って、桃寧とふかふかしたグレーの絨毯の展望台に踏みこんだ。
「わあ、すごい遠くまで見える」
 金がいるなら、無駄に混んでもいないだろうという予想も当たっていた。みんな静かに、景色を眺めたり写真を撮ったり、記念みやげの売店を見たりしている。全方位が見まわせるように室内がぐるりとガラス張りになったそこで、桃寧はそう言いながらガラスに近づく。
「私たちの高校見えるかな?」
「見えるかも。方向どっちだろ」
 そんなことを話しながら、ガラス沿いに歩いて景色を眺め、望遠鏡を見つけるとそれで俺たちの高校を発見したりした。景色を観るだけなのに、桃寧と一緒だとすごく楽しい。「夜景も綺麗だろうなあ」と桃寧はつぶやいて、「もっと大人になったら、今度は夜景観に来よう」と俺が言うと、桃寧は俺を見上げて幸せそうにうなずいた。
 展望台を満喫すると、エスカレーターでゆっくり下の階に降りていって、たまにフロアに留まってショップを見たりした。「ペットショップはないのかなー」と桃寧が言って、「それは、いつものホームセンターでもいいし」と返すと、「水雫くんがわんちゃん見てるの見てたい」と彼女はにこにこした。何かそれも照れるけど、と決まり悪く感じつつ、ケーキがショウケースに並んだカフェを見つけた。俺たちはそこに入り、まったりと紅茶を飲みながらいろんなことを話した。
 中学時代のこと。宮内先生のこと。高校に入学して、お互いがお互いのすがたを見つけて、胸が高鳴ったこと。一年生では違うクラスでがっかりしたこと。二年生の始業式の日、偶然俺と話せて、一気に想いがよみがえったこと。俺も桃寧と同じクラスになれてすごく嬉しかったこと。今、こうして恋人同士になれたのが、夢みたいに幸せなこと──
 いつのまにか、桃寧のことなら視線をおどおどさせることなく、まっすぐ見つめられるようになっている。それは、家族の三人と親友の咲世にしかできなかったことだ。桃寧の存在が、優しく俺の中に溶けこんでいっている。自分の癖は承知しているぶん、無意識に桃寧を特別な子だと受け入れている自分にほっとした。
 たっぷりカフェで話しこんだあと、またぼちぼちエスカレーターで地上に向かい、外に出ると夕暮れが始まっていた。今日一日晴れていたせいか、鮮明な茜色がぱあっと広がり、沈んでいく太陽の名残がきらきら金色に輝いていた。「すごく綺麗」と桃寧が言って、「うん」と俺も空を見た。
「水雫くん」
「ん?」
「今日もね、うちのおとうさんとおかあさん、休日出勤で」
「あ、そうなのか」
「だから、よかったら夕ごはんはうちで食べていかない?」
 桃寧を見た。桃寧は恥ずかしそうに睫毛を伏せていたけど、ちろっと俺を見上げて小さく咲う。
 それは、その、つまり──。考えると一気に心臓が破裂して、ばくばくと鼓動が駆け出しはじめる。
 いやいやいや。つきあいはじめて二週間ぐらいなんだが。いいのか。それはいいのか。って、いきなりそれはないか。キスくらいか? キスでも俺にはハードル高いぞ。いろいろ食って歯磨きの効果もなくなってるし。それでもいいのか。
「……嫌、かな」
 桃寧が少しだけ寂しそうに首をかしげたので、俺はもはや無意識に首を横に振っていた。
「桃寧がいいなら、うん、俺はぜんぜん」
「ほんと? じゃあ、水雫くんが食べたいもの作るね」
 そういえば、桃寧には家事スキルもあったっけ。
「じゃあ、えと、お邪魔しようかな」
 俺がそう言うと、桃寧はぱっと笑顔を咲かせて、「じゃあ、早く帰ろっ」と夕映えの中で俺の手を引っ張ってくる。
 ああもう、かわいいなあ。
 いったい今日何度目か分からないことを思って、俺は桃寧の隣に追いつく。「何食べたい?」なんて訊いてくる愛おしい彼女の質問に、何がいいかなあなんて贅沢な悩みにふけり、俺はすでに聞いていたはずの「そいつ」の存在はさっぱり忘れていた。

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