さいれんと・さいれん-9

赤く光る警告

 中間考査が終わり、結果もどうにか赤点にはならず、六月になった。まだ梅雨入りはしていないのだけど、空気はむしむしして空色もよくない。
 その放課後も桃寧と下校して、夕飯を作ってもらうことになった。「何かしょっちゅう食べさせてもらっちゃって」と俺が謝ると、桃寧はつないだ手の指を絡めながら「水雫くんに食べてもらえるの嬉しいから」と微笑む。
 初めて食べたグラタンはあの失態だったけど、それから和食も洋食も中華もいろいろ作ってもらって、桃寧の料理をおいしく食べることはできている。「今日は肉じゃが作ろうかなー」なんて言う桃寧と、制服でスーパーに立ち寄るのも慣れてきた。そして今夜の食事の材料が入ったエコバッグは俺が持ち、くすんだ夕暮れの中で花村家に向かう。
「ただいま、夢月」
 家に上がってリビングに踏みこむと、例によってツーサイドアップの夢月がいて、ソファに腰かけてペディキュアを塗っていた。桃寧の声がかかると笑顔で振り返り、「おかえり、おねえちゃん」となめらかな声を弾ませる。
 それから俺を見て、「おにいちゃん、この色でいいと思う?」とミニスカートからすらりと脚を伸ばして見せる。俺はため息をついて、その爪先をよく見もせずに「いいんじゃね」と答えておく。そんな俺に夢月は頬をふくらませたあと、「褒めてくれたら足コキしてあげたのに」とかとんでもないことを言う。
「足……はしなくていいけど、褒めただろうが」
「『いいんじゃね』が? 『いいんじゃね』が褒め言葉だと思ってるの?」
「いや、……まあ、いいと思うよ」
「見てから言って! 僕、爪のかたちはすっごい綺麗なんだから」
「別にどこもかわいいんじゃねえの……」
 無意識にそうこぼし、はっとしたときには、夢月はきょとんと俺を見つめてきていた。それからにんまりすると、「おにいちゃんにかわいいって言われた!」と桃寧に目を向ける。「よかったねえ」と桃寧はにこにこして言うと、「夢月とゆっくりしてて」と俺の手にあるエコバックを奪ってキッチンに行ってしまった。
 俺は失言に体温は冷たいのに顔だけ赤くしつつ、ぎこちなく夢月の隣に腰を下ろす。スクールバッグは床に放った。
「ねえ、おにいちゃん、かわいいってほんと?」
 何も言わない。夢月はベビーピンクのマニキュアのボトルをきゅっと締めて座卓に置く。特有のシンナーっぽいにおいが残る。
「僕のこと、かわいいって思ってくれてるの?」
「……かっこよくはない」
「ふふっ、それは気にしなーい。嬉しいな。僕──」
 俺は深呼吸して、改まって夢月のほうを向いた。試験も終わったし、咲世に相談した通りのことを実行してもいいだろう。いつもそっぽなのに、急に顔を向けてきた俺に、夢月は大きな瞳をまばたかせる。
「おにいちゃ──」
「夢月」
 かぶせるように名前を呼ぶと、「うん」と夢月は笑みを作る。こういう笑顔はかわいいな、と頭のどこかが考える。
「その……何というか、相談がある」
「相談? なあに」
「俺、桃寧とつきあってるじゃん」
「そうだね」
「俺は桃寧の彼氏じゃん」
「うん」
「なのに、何でここに来ると、お前としゃべってばっかなのかとか思って」
「おにいちゃん、相槌ぐらいだけどね」
「俺は桃寧ともっと過ごしたい」
 きっぱり言った俺を、夢月はじっと見つめてくる。黒目がちの瞳がかすかに揺れ、夢月は首をかたむける。
「それは……僕が邪魔、ってこと?」
「邪魔というか……」
 俺はいったん目をそらし、はっきり言わなきゃいけないよな、と思い直すと夢月と見つめあった。
「いや、邪魔だと思う」
「っ……」
「察しろと思う。部屋に下がるとか、友達の家行っとくとか、気遣いはいろいろある──」
 最後まで、言えなかった。夢月がしがみつくように軆をぶつけてきたかと思うと、俺の唇を塞いだのだ。俺は目を開き、その柔らかくて温かい感触に思わずこわばる。ついで、その初めてのキスにわずかな塩味が滲んだ。
「そんなこと、言わないでよお……」
 夢月は唇に隙間を作って涙声でささやき、さらにキスしようとしてきた。慌てて顔をそむける。心臓がありえないぐらい暴走してくる。
 嘘だろ。キス。キスした。夢月と。男と。まだ、桃寧とだってしてないのに──
「おにいちゃん」
「おま、ふ、ふざけん、」
「おにいちゃん」
「絶対、桃寧に言うなよ? 言ったら、」
 夢月は俺に抱きつくと、そのままぐらりと体重をかけて押し倒してきた。動揺して視線が狼狽える俺を、夢月は涙が名残る潤む瞳で見下ろしてくる。夢月の髪の毛先が俺の頬をくすぐり、あの甘い香りが鼻腔を撫でた。反射的にこの香りで勃起してしまったことを思い出し、頭の中が蒼白になる。
「夢月、退けっ……」
 焦りながら言いかけた俺に、夢月はもう一度口づけて、今度は舌をさしこんできた。熱くて柔らかなものが俺の舌を優しく愛撫し、絡みついてくる。
 やばい。マジでやばい。ここからちょっと距離はあるけど、桃寧はキッチンにいる。同じ空間にいるのだ。なのに──夢月の口の中は飴玉を転がしていたみたいに甘くて、それは意識を蕩かすように痺れさせる。
 夢月は名残惜しそうに一度唇はちぎったものの、今度は俺の首筋をすうっと舌先でたどったかと思うと、食むように耳をしゃぶってきた。神経を溶かすみたいな変な感覚がせりあげる中、くちゅくちゅと濡れた音が鼓膜に時間に流れこむ。そうしながら、熱い吐息と共に夢月はささやいてくる。
「ねえ、おにいちゃん」
 甘やかで艶やかな声。何で。何で何で何で。こんな、女の格好しただけの男に、俺は──
「硬くなってるよね?」
「……っ、てめ、」
「怖い顔しないで。大丈夫だから」
「何が、」
「おにいちゃんだけじゃない」
「は……?」
 夢月は俺の耳の穴に舌をさしこむ。脊髄が切なく震え、いっそう自分が反応してしまうのが分かる。
「みんなこうだったんだから」
 夢月のほうに目だけ向けた。妖艶に濡れた黒い瞳とかちりと出逢い、息遣いがわななく。
「分かるでしょ?」
「……おま、え」
「おねえちゃん、いつも彼氏に振られちゃうよね」
「───」
「ほかに好きな人ができた、って……」
 夢月の手が、夏服で薄手になったスラックス越しに、俺のものに触れた。腰をよじって逃げたくても、ゆるゆる動く夢月の手のせいで、動かしただけでかえって刺激になってしまいそうだ。
「おねえちゃんの彼氏は、みーんな、僕を好きになっちゃうんだよ……?」
 そう言うと夢月は大きく口を開け、俺の耳を口にふくんで裏を舌でなぞった。俺は声が出ないように思わず自分の手で口を抑える。舌も噛む。
 何? 何だって? 桃寧の彼氏は、みんな──
「おにいちゃんも、僕にどきどきしてるでしょ? こんなに興奮しちゃってるんだもんね」
 俺は目をつぶり、鎮まれと何度も念じた。けれど、そんなもので男の勃起が落ち着かないのは、夢月も男だからきっと知っている。
「どうしてほしい? 舐めてほしい?」
 俺は完全にパニックになっていて、夢月を泣きそうな目で見てしまう。そんな俺の目に夢月は悠然と微笑み、「かわいい」とささやく。
 夢月の手のひらが俺のかたちをこすって、どんどん敏感になっていく。ああ、もうダメだ。いく。いってしまう。彼女の「弟」の手で出してしまう──。
 そう思ったときだった。
「あれ、夢月? 水雫くん?」
 桃寧の声が心臓にそのまま突き刺さり、痛いぐらいに心拍が急停止した。と同時に、ぱっと夢月は起き上がって、口を抑える俺の手に手を押しつけてぐっと塞ぐ。
「あ、おにいちゃん今トイレ行ってるから」
 いや、確かに俺はソファに押し倒され、桃寧がこちらにさほど近づいていないなら、起き上がった夢月の影になるかもしれないが。
「そっか。気づかなかった」
 ばれてない?
「おねえちゃん、お料理のときは周り見えなくなるもんねー」
 ばれてないのか?
「だって、おいしいもの作りたいんだもん」
 無意識に神に祈る。
「ふふ、おねえちゃんのごはんはいつもおいしいよ」
 気づくな。
「そう? ありがと、夢月」
 気づかないでくれ。
「えへへ、おしゃべりおしまいっ。食べたいから早く作ってよー」
 ……ごめん。
「はいはい。水雫くんと仲良くね」
 ごめん、桃寧──
「はあい。おにいちゃんと待ってる!」
 料理をする物音が戻ってくる。頭も視界も、酸欠でくらついていた。心臓がやっとまたどくんどくんと動きはじめる。
 茫然としている俺の口を塞ぐ手を放した夢月は、俺を見下ろすと艶然と微笑した。そして、軆を傾けてくると俺の耳元で妖しくささやく。
「おねえちゃんの本命なら、絶対に僕は、おにいちゃんを落とすからね」
 頭の中に静電気が走った。ひらひらとまわる、赤いサイレンのイメージがよぎる。うるさく音は出ないのだけど、それは確かに真っ赤に光って俺に警告していた。
 この弟、確実にやばい。

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