逃げ出すように
そのあと、ようやく我に返った俺は、「親が何か大変って言ってきたから帰る!」とか何とか言って、スクールバッグをつかみ、桃寧の声も聞かずに花村家を飛び出した。
家までの夜道を息を切らして走りながら、心臓が痛いぐらいに鼓動が速かった。唇を手の甲でこすり、渦巻くような頭の中をどうしても整理できない。夢月の笑みが焦げるほどまでに焼きついて、振り落としたいのに、その艶めかしさに脳裏をかきむしられた。
そう、桃寧はいつも、告白されて彼氏ができても、必ず振られてしまう。ほかに好きな子ができたと言われて。それは、うちの高校の最大の謎だった。そして、当の好きな子ができたと言った元彼は、絶対に目移りした相手のことを口外しなかった。当然、そんな野郎を問いつめた奴だっているのだ。でも、元彼の誰ひとりとして、どんな人に心が動いたのかは口を割らなかった。
夢月だった。桃寧の「弟」だった。あいつがあんなふうに誘惑して、どんな彼氏も陥落してしまったわけだ。性別も吹っ飛んでしまうぐらいに。
何で。どうして夢月はそんなこと。掠奪を繰り返して何になる? 夢月は桃寧のことを慕っているのではないのか? 姉の幸せを願っているのではないのか? 真逆ではないか。桃寧を哀しませて何が楽しい? 彼氏に裏切られて、桃寧がどれだけ泣いてきたか──
そこで、あの台詞が頭を通り過ぎる。おねえちゃんを泣かせていいのは、僕だけ……
異常な執着なのだ、と思った。泣くほど桃寧に想われるのは自分だけだ、という意味だと。違った? そのままの意味? 桃寧を不幸に陥れるのは、ほかの誰でもなく自分だと? ではいったい、夢月は桃寧に対して、何をそんなに憎悪なのか敵愾心なのかを燃やしているのだろう。
気づくとマンションの前に着いていた。立ち止まり、息を弾ませながら、何となく背後を振り返る。暗い通りには誰もいない。
脈打つ胸のあたりをさすって、腕をだらりと垂らした。空を仰いでも、月も星も見つからない。湿気た匂いが風に混ざっていた。雨が近いのかもしれない、とうっすら考える。
大息して体勢を整えると、暗証番号を入力してエントランスを抜けた。エレベーターで三階へ、308号室のドアをカードキーで開けると、ただいまも言わずに部屋に直行する。
奥の明かりのほうから夕食の匂いがしていても、今夜はいらないとかあさんにメッセしてしまったから、俺のぶんはないだろう。ああ、くそ、腹減ったな。しかし、あのまま冷静に桃寧に笑顔を向け、味わいながら夕飯を食うなんて無理だった。俺が耐えがたいとか夢月が言い知れないとかより、桃寧に対して残酷すぎる。
電気をつけて荷物を投げると、ベッドに飛びこんで仰向けで天井を睨みつけた。
雑巾バケツをかぶったぐらい、最悪の気分だった。本当に、俺はどうしてしまったのだ。俺が好きなのは桃寧なのに。それは間違いない。あんな野郎、なぜ多少乱暴にでも押し返して、拒まなかったのだろう。
桃寧という存在がいるとか、その桃寧の弟だとか、そんなことをさしひいたって、夢月は男なんだぞ。なのに、勃起するなんてどうかしている。走ってきてそれはおさまったものの、男に濃厚なキスをされ、しかもその手で硬くなって、いきそうになって涙目になった。
死にたい。本格的に死にたい。
夢月は確かにかわいい。めちゃくちゃかわいい。愛する桃寧の弟だ、ぶっちゃけその美貌は好みのタイプでもある。
だが、男だ。同性だ。男の娘だか何だか知らないが、俺には夢月は男だ。愛らしさのあまり境界線を見失い、判断が浮わついていることもない。当然俺にホモの気もない。なのに、夢月に強引な力をぶつけられない。官能的なキスで脳髄が蕩けてしまう。股間を囚われると、その刺激に逆らうことができない。
だいたい、夢月はどこで、あんなにいやらしいキスや手つきを覚えたのだ。中二だよな。俺は高二で、キスの仕方もよく分かっていないのだが。やはり、桃寧の元彼どもに教わったのだろうか。いや、「教える」なんて玄人の男は、そもそも中二のガキの誘惑なんて相手にしない気がする。AVとか言ってたな、と思い出し、そういうもので勉強したのだろうかと考える。
とにかく、だ。絶対に落とすとか言われたものの、俺は落ちるわけにはいかない。俺が好きなのは桃寧だ。その気持ちだけは、誓って握りしめておかないと。
本命なら絶対に落とす。その言葉が、姉の彼氏を何度も誘惑してきた、でもそれらはすべて徒労だった、桃寧が昔から想ってきた俺を落として初めて姉が心から打ちのめされるのなら、俺こそを落とす──そういう意味だったのなら、背筋が氷点下に急降下するようにぞくりとする。
夢月は桃寧に行き過ぎた感情があると思っていた。違うのか。むしろ憎いのだろうか。ふたりのあいだに、何があったというのだろう。
桃寧を幸せにしたい。今までの彼氏のように裏切ったりしたくない。だから、いくら夢月が桃寧の幸せを許さないつもりでも、俺は揺さぶられるものか。
これからは夢月に対して、厳戒態勢だ。俺は桃寧を不幸にはしない。絶対にひとりにしない。俺が愛しているのはあの女の子だけなのだ。
夜遅くに、桃寧から『ご両親、大丈夫?』というひかえめなメッセが届いて、俺は彼女と少しだけ通話した。「ちょっと怪我してたけど大したことなかったよ」と嘘をつくしかなかったので、せめて文字でなく声で桃寧を安心させたかった。『そっか』とそれでも桃寧の声はどこか陰っているから、やはりあのとき押し倒されていた俺に気づいていたのだろうかと胸騒ぎが起こる。
「結局、今夜まだ何にも食ってないや」なんて俺が苦笑すると、『そうなの?』と桃寧の声音が少し驚いて、『何か食べなきゃダメだよ』と言ってくれる。「うん」と俺は答えて、「また今度、肉じゃが作って。食べたかったから」と言った。
すると『任せて』と少しだけ桃寧の声がやわらぎ、『また家に来てくれる?』と問うてくる。それは、と思ったものの、怪しまれないためには平然とするしかない。「行くよ」と俺が言うと桃寧はほっとした声で『よかった』と言い、それから俺たちはおやすみを言い交わして通話を切った。
俺も夢月もきっと何も疑っていない桃寧がいじらしくて、何だか泣きそうになった。
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