誘惑お断り
次の日の朝は桃寧は友人と登校して、俺は咲世と満員電車に乗りこんだ。
昨日予感した通り、雨が降っていた。桃寧とつきあいはじめた日も雨だったなあ、とかぼうっと考える。
夢月に揺らいでいるわけではなくても、まだ狼狽はしている。電車ではカーブのたび俺がすぐよろけそうになるので、咲世が支えてくれて、そのたび俺は「ごめん」と小さく謝った。
「何かあった?」
高校最寄りで電車を吐き出されると、傘をさして並木道を歩く。濡れた葉桜の緑が、サイケデリックなほど鮮やかだった。
周りが挨拶でにぎわう中、相変わらずあんまり言葉を発さない俺に、咲世が問うてきた。落下する銀色の雫越しに、咲世を見る。
「ん、まあ……」
「花村か?」
湿った匂いのアスファルトを踏むスニーカーに視線を下げた。咲世なら、話してしまっても大丈夫だろうか。桃寧が彼氏に振られてきた理由。聞かされたら、突拍子もないだろうが──
「咲世」
「ん」
「今日の放課後って空いてる?」
「あー、まあ」
「じゃあ、俺んち来てくれないかな。あんまり、人に聞かれたくない話っていうか」
咲世は俺を見つめて何か言おうとしたが、留めて、「了解」と言ってくれた。俺はぎこちなく咲うことしかできなかった。
まもなく学校に到着して、明かりが灯った教室にはすでに桃寧のすがたがあった。俺の登校に気づくと、微笑んで手を振ってくれる。俺は何とかそれに咲い返しはしたものの、席に着くと昨日の夢月の舌遣いとか手つきを無性に思い出して、ひとり死にたくなった。
一日を上の空で過ごし、下校は桃寧と一緒だった。「昨日はごめん」と改めて言った俺に、「家族が大事なのは分かるよ」と桃寧は笑みを作ってくれる。桃寧のほうは、家族を大事に想っているのが分かる。両親の代わりに家事全般を担っているし、夢月と確執めいたものがあるなんて微塵も感じない。だとしたら、夢月が一方的に桃寧を敵視しているのだろうか。
今日は咲世と約束があるからと言うと、「そうなの?」とちょっとだけ拗ねてしまう彼女がかわいかった。「また家には行くよ」と別れ道の角で俺が言うと、桃寧はこくんとして「また明日ね」と住宅街のほうへと歩き出す。俺はその背中を見送り、自宅のマンションに帰った。
家にはかあさんしかいなかった。とうさんは仕事だろうが、杏梨は部活なのか何なのか分からない。制服を着替えて、ベッドでごろごろしながらどう咲世に話そうかと考えていると、チャイムが鳴った。ぱっと身を起こした俺は、部屋を出て画面に咲世がいるのを確認すると、インターホンの受話器を取る。
「咲世。今ロック開ける」
『よろしく』
暗証番号を入れ、遠隔操作で一階のエントランスへの扉を開く。まもなく今度は玄関のドアチャイムが聞こえて、待機していた俺はドアを開けた。そこにはTシャツとジーンズの私服になった咲世がいて、「お邪魔しまーす」と言いながら家に上がってくる。
かあさんが「あら、咲世くんいらっしゃい」と顔を出し、「お久しぶりです」と咲世は挨拶を返す。久しぶり。思えば、同じクラスで教室で会えるから、最近、お互いの家を行き来していなかった。
「何か飲み物持ってくるわ」と咲世を部屋にうながし、俺はキッチンで麦茶をグラスにそそいだ。両手にグラスを持って部屋に戻り、肘で把手をおろしてドアを開ける。咲世は本棚の前で漫画をめくっていて、「もうこれ最新刊出てたんだな」とか言う。
「読んでく?」
「ま、あとでな。何、聞かれたくない話って」
単刀直入か。俺は足でドアを閉め、グラスをつくえに置くと、「大変なことが分かりました」ともったいぶった口調で椅子を引き、腰かける。
「何だよ」
「桃寧が彼氏に何度も振られる理由が分かった」
「は?」
「桃寧、いつも彼氏に振られてたじゃん」
「まあな……。え、お前も心変わりしたのか?」
「してない。ただ、心変わりの相手は誰なのかは分かった」
「……誰だよ」
「弟」
「は?」
「桃寧の弟。ほら、男の娘だっけ? 女装してる奴」
咲世は俺を見つめ、ぱたん、と開いていた漫画を閉じると、俺と向かい合ってベッドサイドに腰かけた。
「よく分からん」
「夢月が桃寧の彼氏を片っ端から誘惑してたんだよ。俺も言われたし、絶対に落とすとか。こわっ」
「冗談だろ」
「マジだって。俺、押し倒されてキスまでされたし……ファーストキスだったんだぞ……!? 桃寧ともしてなかった」
「してなかったのかよ。つきあってどんだけだよ」
「っせえな。してねえわ。したかったけど、ふたりきりになるのを家ではいつも夢月に邪魔されてたわけだし」
「何で弟が姉貴の彼氏を片っ端から誘惑とかするわけ」
「知らん。夢月は桃寧のこと異常に好きなんだと思ってたけど、違うのかもしれない」
咲世は次第に渋面になり、一度空中を見てから「まあ、弟に心変わりしたなんて、元彼の奴らも確かに言わないだろうな」とつぶやく。
「花村はそれ知ってんのか」
「知らないと思う」
「っそ。弟って……分かんねえなあ。男同士なら、そんな簡単に間違い起きないだろ」
「いや、あいつの色気すげえぞ!?」
「弟擁護かよ」
「そうじゃないけど。ほんと、あれ中学生だよな? キスとかいろいろうますぎるんだけど」
「まさかお前また勃ったのか」
「うっ……」
咲世はため息をついた。「だってさ」と俺はうめくように言う。
「ちんこ揉んでくるんだよ。その手つきも何かうまいし。あれは生理現象だったんだ」
「お前、普通に男もいけるんじゃね」
「いけねえよ! そりゃ、夢月が野郎にしか見えなかったらこんなことなかったと思う。ほんっと、美少女なんだよ」
「美少女ねえ」
「美少女に迫られたらどきどきするだろ」
「俺はいとこ以外を意識したことってないんで」
「先輩とやってたんだろ。お前もいとこ以外に勃ったんだろ」
じと目で責めるように言うと、これには咲世も言い返さずに、「で」と話題の軌道を戻す。
「お前は弟に流されそうになってんのか? 花村と別れたいとか考えはじめてるわけ?」
「考えてねえよ。ただ、……ただ、桃寧に申し訳ないのに、説明して謝れないのが苦しい」
「元彼のことも含めて、全部ほんとのこと話しちまえば」
「泥沼じゃねえか。あの姉弟、けっこうふたりの時間も多そうなのに、気まずくさせられないよ」
「えぐいことされてんのに、変なとこで気が優しいなあ」
俺は唸ったあと、落ち着きたくてつくえに置いていたグラスを手に取り、冷たい麦茶を飲みこんだ。「俺も」と言われて、咲世にもグラスを渡す。
「夢月にさ、言ったんだよ。もっと桃寧と過ごしたいから、邪魔しないでくれって」
「ああ、こないだ言ってた奴」
「そう。そしたら泣き出すしさ。それで、流れでキスとかもされたんだよな」
「流れ」
「夢月って、実際桃寧をどう思ってんだろ。彼氏を奪って泣かせるってことは、やっぱ嫌いなのか?」
「どうだろうな。それこそ、自分以外の男が寄りつくのが許せないっていうのもありうるし」
「なるほど。そっちかな? 軆張ってまでシスコンかよ。気持ち悪いんだけど」
吐き捨てる俺を眺めて咲世は麦茶をすすり、しばし考えたのち、「まあ」とゆっくり口を開く。
「花村と弟を泥沼にしたくないなら、お前が弟の誘惑に勝ち続けるしかないな」
「え、つら……」
「つらくないだろ。花村からぶれなきゃいいんだ」
「……俺は桃寧と穏やかにつきあいたいのに。何だよあの弟。だいたい、今までの元彼のことはどうしたんだよ」
「話聞いた感じ、花村から掠奪完了した時点で捨ててそうだな」
「最低じゃねえか」
「そんな最低な奴に流されなきゃいいだけだろ。簡単じゃん」
俺は麦茶を飲む。香ばしさがほのかに香る。そうだなあ、とグラスを握った。
何にせよ、夢月がゲスなことに違いはない。そんな奴の誘惑なんか、よく考えなくてもお断りだ。ただ毅然とすればいい。それは分かっているけれど──どうしても、あの黒い瞳にロックされると軆が言うことを聞かなくなる。
そのもやもやをうまく説明できず、「頑張るけど」と言うほかなくなると、咲世はさっきの漫画の最新刊を読んで、夕飯の時間だと帰っていった。俺も今日は夕飯にありつきたかったので、部屋を出てダイニングに向かう。キッチンではかあさんが料理をしていて、いつのまにか家にいる杏梨はリビングでスマホをいじっていた。味噌汁の柔らかな匂いを嗅ぎ取りながら、俺はダイニングを通り過ぎてリビングに踏みこむ。
「なあ、杏梨」
カウチに座っていた杏梨は、反射的にスマホの画面を落としてから、「何だよ」と俺をじろりとしてきた。相変わらず、かわいげの欠片もない。
「お前って、そういや中学生じゃん」
「そういやも何もないだろ」
「もしかして、花村夢月って知ってる?」
杏梨は不審そうに眉を寄せ、「何で兄貴があいつのこと知ってんの」と警戒した声で言う。
「やっぱ知ってんのか。中学でも有名そうだもんな……」
「有名っていうか、同じクラスだし」
「は?」
「一年でも二年でも同じクラスだから、わりと友達」
「はっ? マジかよ。うわ、じゃあやっぱあいつ、セーラー服着てんの?」
「何言ってんだよ」
「いや、あいつ男の娘ってやつだろ」
「………、普通に学ラン着てる」
「え、マジで」
「男の娘って……何でそんなプライベート知ってんだよ。気持ち悪いな」
「い、いやっ。あいつの姉貴が俺の彼女なんだよ」
「何、その嘘」
「ほんとだよ。姉貴、花村桃寧っていって──つか、夢月に確かめていいぞ」
杏梨は俺をまじまじとしてから、「マジで確認するからな」と言ってスマホに向き直ってしまった。
確認。俺に絶大に信用がないらしい。
まあ嘘は言ってないからいいか、と俺はダイニングに引き返すと、四人がけのテーブルの自分の席に腰を下ろす。
夢月は学校では女装をしていないのか。特に性同一性障害ではないらしいし、セーラー服はさすがに許してもらえないのかもしれない。
というか、夢月と杏梨が友達とか来やがった。あんまり家でうつつを抜かしていると、杏梨から俺の動顛状態が夢月に筒抜けになる恐れがある。夢月が見ていないところでも、俺はあくまで桃寧しか眼中にない彼氏でいないといけない。
そうだ。流されるものか。惑わされるものか。咲世の言った通りだ。俺が夢月に──いや、自分に勝ち続けるしかない。つきあう前から宣誓していたではないか。俺は絶対に桃寧から心変わりしたりしない。だから、夢月の色香に飲みこまれ、裏切られる痛みを再び桃寧に課すわけにはいかない。
俺は桃寧を幸せにしてみせる。絶対に。いくら超絶かわいくても、何でも夢月の思い通りにさせるかってものだ。
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