嫌いだって言ったら
とりあえず夢月の消沈は気にならなくなった俺は、夜、咲世に通話を持ちかけた。しばらく反応がなかったものの、ふと『悪い、シャワー浴びてた。』というメッセが届く。『通話したいです。』となぜか敬語を送信すると、既読ののち通話着信がついた。俺は応答をタップし、息を吸ってスマホを耳に当てる。
「咲世えええ……」
ついで開口からみじめな涙声を出した俺に、向こう側の咲世は小さく吐息をついた。
『何だよ。また花村姉弟か』
「しゃぶられたー」
『は?』
「夢月にちんこしゃぶられたよー……」
『………、待て、まず何でそうなる』
俺はベッドの上で膝を抱え、嗚咽をもらしかけながら、杏梨経由で家に来た夢月に寝こみを襲われたことを話した。『お前の妹まで絡んできたのかよ』と咲世は疲れてきた声で言った。
「俺、もうやだ……すげえ勃ったし、我慢汁濃いし、気持ちよかったし」
『出したのか?』
「今日は出してないけど、次は逃げられない気がする」
『次があるの前提かよ』
「だって、夢月が俺をあきらめないんだよ。何で? 俺のどこがいいんだよ。桃寧ひとりでいいよ」
『モテ期ですね』
「そんなんいらないし。桃寧にモテたらそれでいいんだ。俺のこと好きとか言われても困る」
『好きって言われたのか』
「言われた」
『泥沼だな……』
俺は膝に顔を埋め、「俺の貞操が」とつぶやく。「女子か」と咲世は俺の言葉を一蹴したものの、「あー……」とか言いながら彼なりに必死に続ける言葉を考えている。
『お前は、それでも弟のこと嫌いになってないのか』
「え。嫌いではない、けど」
『何で?』
「何でって、そりゃ、妹みたいなもんではあるし、かわいいだろ」
『バカなのか?』
「………、え、俺おかしい?」
『おかしいな』
「そうなのか?」
『俺なら、そんな野郎は殴ってるぜ』
「いや、女の子──ではないけど、何というか、まだ子供だし」
『状況的には、いつもお前のほうが子供だろ』
「う……」
『彼女との時間を邪魔するわ、こっちはホモでもないのに迫ってくるわ、挙句に本気で寝込みをしゃぶってくるとか、俺なら殺したくなってると思う』
容赦ない咲世の意見に、「お前、わりと物騒だな」と俺は若干ヒイた声になったが、『お前が悠長すぎるんだよ』と咲世はざっくり斬ってくる。
「つっても、夢月に悪気はなさそうだし……」
『お前にはそうかもしれねえけど、花村に対して悪意がひどいだろ』
「そ、そう……か、な。……そうかも」
『お前は誰の味方だ?』
「桃寧」
『じゃあ、もう弟のことは拒絶しろ。嫌いだって言っちまえ』
「嫌い……って、でも俺、前に『邪魔』って言っちまったことあって」
『いいじゃん』
「罪悪感が……」
『んなこと言ってるから、あれこれつけこまれるんだろうが。危機感持てよ、マジでやられるぞ』
ごくん、と生唾を飲みこむ。確かに、夢月は本気で俺と最後までやる気があるみたいだった。童貞まで夢月に奪われてしまったら、俺は生きていけるか分からない。
『もし弟にはっきり言えねえっつーなら』
「う、うん」
『花村に相談するしかないな』
「はっ?」
『弟のことで困ってるって、花村に打ち明けろ』
「桃寧に話すってことか? 夢月にされたことを?」
『ああ』
「いやいやいや、キスされたんだぞ。触られて、しゃぶられて、俺は勃起したんだぞ」
『恥は捨てろ。お前がぼさっとしてるなら、花村に危機感を持ってもらうしかない』
「桃寧が傷つくよ。今まで彼氏が夢月に寝取られてたとか、それも話すことになるし」
『傷つけるしかないだろ。お前自身が傷つきたくないなら。誰かが傷ついて、その怒りで本気で弟を止めないともう話にならねえ』
「えと、傷つきたくないというか……」
俺が口ごもりながら否定しようとすると、『傷つきたくないんだろ』と咲世は鋭く食いこむ。
『弟を拒否る罪悪感とかに勝てないんだろ』
「……だって、あいつ泣きそうな目とかするし。ほんとに、あの目をお前は知らないだろ!? 破壊力すげえんだぞ」
『そう言ってまた弟をかばう』
「いや、事実ですよ」
『じゃ、もう弟とつきあったらどうだよ? そっちのほうが、楽なんじゃね。今までの彼氏みたいに、好きな奴できたって花村のこと振っちまえ』
「何でそうなるんだよっ。俺ホモじゃないもん。そもそも夢月のこと好きなんかじゃ──」
『でもお前、弟の気持ちを気にしてばっかじゃん。花村の気持ちはあんまり考えてないのに』
「そ、そんなこと──」
俺は口をつぐみ、そうなのだろうかと視線を落とす。桃寧の気持ち。夢月の気持ち。確かに、ここのところ夢月のことばかり気にして、桃寧のことを考えることが減っている気がする。けして桃寧への愛情が薄れたわけでなく、たぶん彼女への安心感からだと思う。が、だからといって危うい夢月のことばかりあれこれ悩んでいると、桃寧を不安にさせるだろう。
「じゃあ、夢月にもう一度、『邪魔』とか言えばいいのか?」
『それが早い解決だな』
「『嫌いだ』って……」
『本当に嫌いになる必要はねえよ。嘘でいいんだ。ただ、そんな嘘をついて突き放されるぐらいのことを、弟はお前にやってるからな?』
「そう、だな……」
『はっきり言っちまえ。お前、自分は花村から心変わりしないとも豪語してただろ。それを守れよ』
「……ん」
『花村にとっても、お前の気持ちが動かないことが一番の幸せだと思うぜ。ふらふら弟のこと考えたりすんな』
膝を抱えこんでしばし黙ってしまったものの、「分かった」とゆっくり吐き出した。我ながら、消え入りそうな声だったけども。夢月のことを考えない。拒む。嘘でもいい、「嫌いだ」と投げつける。そうしたら──
あいつ、またあの顔しないかな。
そんなことをちらりと考えてしまっても、振りはらった。「ありがと、ちょっとすっきりした」と咲世に礼を言うと、『頑張れよ』と励ましてもらえた。それから俺は咲世との通話を切り、スマホをまくらもとに投げてシーツに横たわった。
夢月のことは嫌いじゃない。邪魔だと思うより、桃寧とまとめてそばにいてやろうと思った。しかし、やはりそれではダメなのだ。俺の身が危険な以上に、桃寧が幸せにならない。だったらダメだ。俺は夢月を受け入れてはいけない。
いつのまにか、そう思うと胸がぐっと息苦しさを覚えてしまうようになった。俺は自分でも知らないうちに、夢月の存在を受け入れてしまっていたらしい。あの家に行くと、もちろん夢月がいて、「おにいちゃん」と俺に懐いてくることに慣れていた。そして、それを壊すのはどこか怖いような、変な愛着も湧いてしまっていた。
壊さなくてはいけない。俺と夢月はかけはなれていなくてはならない。俺はあくまで、桃寧の彼氏だ。桃寧の隣にいるべきだ。だから、いつからか縺れていた俺と夢月の関係は、ここでばっさり、清算してしまうべきなのだ。
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