さいれんと・さいれん-15

夏休み

 梅雨が明けて期末考査も終わると、すぐに夏休みが始まった。
 夢月をきっぱり拒絶する。覚悟はしたものの、まだ切っかけをつかめずにいた。俺がそんなことを言い出して、夢月が桃寧に泣きついたりしたら、桃寧にどう説明すればいいのだろう。
 やっぱり、夢月が彼氏を寝取ってきたことを話すことになってしまう。それは姉弟の仲を引っかきまわすし、俺が告げる権利はない気がする。ぐるぐる考え、夢月の前にしても緊張ばかりして何も言えなかった。
 そんな俺を覗きこみ、夢月は隙あらば触れてこようとして、せめてその手を逃げるようにはしていた。そんな生半可な状態なのに、俺は夏休み初日の午前中から桃寧に呼ばれ、花村家に向かっていた。
 まばゆく白光する太陽に、空は雲ひとつなく突き抜けて晴れわたっている。煮え湯の湯気みたいな空気はねっとり素肌にまとわりつき、汗がどんどん湧いて流れた。蝉の声が空中を反響し、アスファルトを破る生命力を持った道草の匂いが立ちのぼってくる。「暑っつい……」というひとりごとが無駄に増える。今日も熱中症でたくさんの人がぶっ倒れるのだろう。俺自身、花村家に着く頃には、喉の渇きと照らされた発熱でくらくらしていた。
 チャイムを鳴らすより、スマホに直接連絡をくれと言われていた。親があまりいない家なので、チャイムにはあまり応えることがないのだそうだ。俺は桃寧に通話をかけ、スマホを耳に当てた。すぐにコールが途切れて、『水雫くん』といつもの澄んだ声が耳に飛びこむ。
「あ、桃寧。今、家の前にいる」
『分かったっ。庭に入ってきてて。すぐ鍵開けるね』
「了解」
 通話を切ったスマホで確認すると、時刻は午前十時半をまわったところだった。この時間帯なら、夕飯だけでなく昼飯もご馳走になるのだろう。
 しかし、昼飯と夕飯のあいだはいったい何をすればいいのか。考えこみつつ、俺は門扉を抜けて庭に踏みこんだ。広い面積ではなくも、芝生が敷かれた庭の飛び石を追いかけて玄関にたどりつく。
 すると、ちょうど「水雫くん、おはよう」と桃寧がドアから顔を出した。
「おはよ。暑いな」
「暑いねー。早く冷たいお茶飲んで」
「ありがと。すっげー喉渇いた」
 そんなことを話しつつ、家に上がらせてもらう。ほぼ半日、どう夢月をかわすかも問題だ。そんなことも思いながら、天国みたいにクーラーが清涼に行き渡ったリビングに踏みこむと、そこにはめずらしく夢月のすがたがなかった。
「あれ、夢月は」
「まだ寝てるんじゃないかな。夏休みは、いつも昼過ぎまで寝てるようになるから」
「……そうなのか」
 この家に来て、夢月に出迎えられないのは初めてだった。変な感じだ。無論、都合のいい話だけれど。昼過ぎまで、桃寧とふたりでまったりできるということではないか。
 夏休み万歳、と思っていると、桃寧が麦茶をそそいだグラスを持ってきてくれた。「サンキュ」と俺は受け取り、からんと氷を響かせながら一気に飲み干す。そんな俺に桃寧は微笑んで、「水雫くんは」とこちらを見つめてくる。
「夏期講習とか塾とか、どんな感じ?」
「んー、塾はやっぱ行かされそうだ」
「そっか。私も昨日親と相談して、塾行こうかってなった」
「そうなのか。どこの塾行くの」
「市内の大手より、近所の少人数でやってるところがいいかなって。水雫くんも塾に通うなら、一緒に見学に行く?」
「いいのか」
「私もひとりで少人数の中に入るのは勇気いるから」
「分かった。俺も親に話してみる。俺もひとりだと不安だったし」
「倉持くんは?」
「あいつは夏休み前に市内の進学塾に行くとか話してたな」
「そっか。倉持くんは、頭いいもんね」
「桃寧もいいじゃん」
「そんなことないよ。試験前にすごく勉強するだけ」
 桃寧は俺の手からグラスを取り、「塾でいそがしくなるなら、そのぶん今日はゆっくり過ごそうね」とにっこりした。俺はうなずきながら、これはもしかして桃寧との仲を進展させるチャンスでは、と感じた。
 何せ、夢月がいないのだ。あと、俺もぼんやりしていない。つきあいはじめたのは春雨の頃で、いい加減キスくらい交わしてもいいはずだ。そう、夢月とばかりあれこれやっているのは、俺としては心外すぎる。よし、と心に決めながらソファに腰を下ろし、ひとまず軆を冷風で癒やした。
 桃寧は少し家事とかやるかなあ、と予想したものの、意外とすぐに俺の隣に来てソファに座った。いつも夢月が座る左側に桃寧がいる。何となく絡んだ視線にふたりで照れ咲いして、「変な感じだね」と桃寧は首をかしげた。春より伸びた桃寧の髪がふわりと揺れる。
「変な感じ」
「いつも夢月がいるから」
「ああ。そうだな、ふたりってあんまりないな」
「ごめんね、いつも。夢月の相手ばっかりで」
「いや、まあ──弟? 妹? なのかな、はは」
「私、家事とかでばたばたして、水雫くんとゆっくりできてないよね。せっかく家に来てもらってるのに」
「家事は、頑張ってるの見てるよ」
「ありがとう。私がいそがしいあいだ、水雫くんと話してくれてる夢月にも感謝してる」
 曖昧に咲った。あいつはお話だけじゃないんだけどな、と秘かに思っても黙っておく。
「水雫くんも、私とつきあってくれててありがとう」
「何だよ、急に」
「だって、こんなにちゃんとおつきあいが続くの、初めてなんだもん」
「……あ、」
「水雫くんは、今までの人みたいにほかの人がって言い出さないから、私、すごく嬉しいの」
「桃寧……」
「水雫くんもいつかそう言い出すんじゃないかって、正直思ってた。でも、告白してくれたときの約束のまま、私のこと大切にしてくれる。ほかの誰でもない水雫くんがそういうふうにいてくれて、幸せだよ。今までの人は──きっと、私が悪かったんだよね」
「いや、桃寧は」
「水雫くんを忘れたいだけでつきあってたから。それは、心変わりされるよね。私の気持ちだって、その人になかったんだもん」
「………、」
「中学の卒業式とかに水雫くんに告白してればよかったな。そしたら、私……」
 桃寧は何やら口ごもってうつむく。「桃寧?」とその顔を覗きこむと、桃寧はわずかに瞳を濡らして俺を見た。
「私……その、水雫くんに初めてをあげられない」
「……え、」
「それが、すごく悔しいな。もっと早く水雫くんとつきあってれば、ちゃんと、水雫くんが初めてだったのに」
「桃……寧」
「水雫くんも、初めてがよかったよね」
「……そうかもしれない、けど。だからって、桃寧と何にもしたくないとは思ってないよ」
「ほんと?」
「うん」
「……じゃあ、」
 俺をじっと見つめてくる桃寧の髪に、そっと触れてみた。優しいシトラスが柔らかく香る。そして、桃寧のまっすぐな瞳を俺も見つめ返す。
 あ、何か、今かもしれない。何となくそう感じ、俺は桃寧の唇に唇を重ねようとした。
 そのときだった。
「ここに見てる人がいますよ」
 突如そんな声が割って入り、ばくんと大きく心臓が跳ね上がった。唇は触れ合う寸前で止まった。
 くそっ、夢月か。とっさにそう思って、俺はリビングのドアを振り返った。
 しかし、そこにいたのは見たことのないすらりと背の高い男だった。大学生くらいだろうか。栗色の髪を長髪気味にして、切れ長の瞳や微笑む口元はどこか妖しい色気がある。肌はさらりと白く、軆つきも筋肉質というよりしなやかだ。何か女装似合いそう、と完全に夢月に毒されたことを思った。
 いや、そんなことより誰だろう。桃寧にも夢月にも兄貴がいるという話は聞いていないが──「もうっ、リナちゃん、今のタイミングひどいよっ」と桃寧が真っ赤になりながら声を上げた。

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