さいれんと・さいれん-18

ほんとのこと

 塾の合間にホームセンターのフードコートで咲世に会ったとき、俺はこってりしかられてしまった。
 まだ夢月を拒絶していないこと。むしろ夢月のほうに避けられていること。そしてそれにとまどい、夢月と莉波さんはつきあっているのかと悩んでいること。「お前の恋人は誰だ」と強く言われ、「桃寧です」とかぼそく答えると、「じゃあ、もう何もかんも気にすんな」とたたき切られた。俺は「はい……」としか答えられず、それ以上はその話題は出せなかった。
 咲世がノートを買いにいっているあいだ、俺はいつものペットショップに行って子犬たちを眺めた。その中に、拗ねてしまったようなビーグルがいた。目がころんと大きくてかなりかわいいのに、覗きこんでもあまりこちらを見ようとせず、愛嬌がない。
 たぶん、そのかわいさゆえに飼ってくれそうな視線を何度ももらうのに、結局連れていってもらえず、心が少し折れてしまったのだろう。そんなんじゃますます家族が見つからないぞ、と念を送っても、ガラスに近づいてこないどころか、一瞥もよこさない。むしろ、隣のショウケースにいるテディカットのプードルが俺の気を引こうとガラスにくっついて、じっとこちらを見ている。
 それでも俺は、そのビーグルに見入って、「ほんとお前、ここ好きだな」と咲世にぽんと頭をはたかれるまでずっと見ていた。「かわいい」と俺はビーグルをしめしたが、「俺は猫一択」と咲世は答える。俺たちは永遠にそこだけは相容れないようだ。「じゃあな」と俺が声をかけても、ビーグルは丸くなって居眠りを決めこんでいる。
 俺が連れて帰れることになったら懐いてくれるかな、とまたどうせ親に却下されるのに淡く夢を見つつ、俺は咲世に首根っこを引っ張られたので、一緒にペットショップを離れた。
 今の俺たちみたいだ、と思った。夢月は俺のほうをぜんぜん見てくれない。そして、こちらを気にしてくれる桃寧に俺は注意がいかない。夢月のことばかり考えてしまう。こちらを見てもらえなくても、かわいいなあなんてそのすがたを見てぼんやり思う。
 カレンダーは八月に突入していた。連日の凄まじい猛暑で、俺の頭は完全にゆでられてしまっているのかもしれない。
 咲世と別れて夕方に帰宅した俺は、歩いてきただけで汗だくになった軆にシャワーを浴びたくなりながら、玄関に見慣れない靴が一足あるのに気づいた。
 また杏梨の友達でも来てんのか、と思いつつ「ただいまー」とスニーカーから足を引き抜く。家に上がろうとした瞬間、「おにいちゃんっ」と呼ばれてはたと顔を上げた。
 今の声──。そう思ったら、廊下の先のリビングからツーサイドアップの美少女が顔を出していた。
「え……」
 やばい。暑くて幻覚見てるかも。
 そう思ったのに、その美少女は小走りに玄関にやってきて、「おかえりなさい」とアイドルみたいな笑顔を向けてきた。白のトップスと水色のミニスカート、長い脚にはピンクのボーダーのニーハイ。俺がしきりにまばたきをしていると、あの黒い瞳が首をかたむけて覗きこんでくる。
「おにいちゃん? どうしたの?」
「え、あ……」
「僕に見蕩れてるの?」
 夢月、だった。幻覚じゃない。目の前で夢月が微笑んでいる。
 何……だよ。家ではあれだけ俺とは気まずそうにしていたくせに。それが悪い夢だったみたいに、以前のように屈託なく俺を見つめてくる。子供がクレヨンを落書き帳にぶつけるように、頭の中がぐちゃぐちゃになりはじめる。
 何で。どうして。そんなにころころ態度を変えるのは何なんだよ。そんなに俺を翻弄したいのか。それとも……
 手を伸ばし、夢月の頬に触れてみた。夢月はわずかに動揺をちらつかせ、一瞬、おとなしい伏し目になる。
 ……ああ、やっぱこいつ、何か隠してる。前みたいな態度なのも、どうせ演技だ。なぜかそんなことが分かって、俺は哀しくなってうつむいた。
「おにい、ちゃん──」
「杏梨と遊びに来たんだろ。俺のことは気にすんな」
「……あ、」
「ゆっくりしていけ」
 俺は夢月のすべすべの頬から手を引いて、すれちがおうとした。すると夢月が俺の手をぐいとつかんで、取りつくように引き止めてくる。
「おにいちゃん、」
「何だよ」
「その、僕、ごめんね」
「何が」
「家で、避けるみたいなことしてて」
「お前には避けられてたほうがいいし」
「き、気持ち悪かった……よね」
 夢月をかえりみた。夢月は俺の手を両手でつかみ、涙目になりながら顔を伏せている。俺は息をつき、「そんなことはないよ」と平静を装った。
「お前は、男のほうが好きなんだろ。だから俺にも懐いてきたんだろうしな。それは分かってる」
「僕……」
「彼氏がいたのはびっくりしたけど。俺もお前の『好き』なんて信じてなかったし──」
「り、リナちゃんは彼氏じゃないよっ」
 眉を寄せて、口をつぐむ。夢月は俺を見上げ、急にきつく抱きついてきた。どきんと鼓動が大きく高鳴る。俺の胸から顔を上げ、夢月はささやくように言葉を継いだ。
「僕が好きなのはおにいちゃんだよ」
「……いや、もうそれいい──」
「好きだよ。好き。大好き。おにいちゃんが彼氏ならよかったのに」
 夢月から目をそらしたまま、なぜこいつはそこまでそんな嘘に固執するのだろうといらだちを覚えた。あんなに愛し合う相手がいるくせに。夢月にとって、桃寧から彼氏を奪うのはそんなに重要なことなのか。
「おにいちゃん、今夜、僕ここに泊まっていい?」
「……え」
「今日はおにいちゃんといたい。一緒のベッドで寝たい」
「いや、それは」
「杏梨に泊めてってお願いしていい?」
「桃寧が心配するだろ」
「大丈夫だよ。おねえちゃんは大丈夫」
「でも」
「今夜だけでいいから、おにいちゃんと眠りたい」
 困惑して黙りこんでいると、「ね?」と夢月は俺を見つめてくる。潤んだ艶やかな瞳で。俺はそれを見つめ返し、今夜だけなら夢月を優先してもいいのかな、とちらっと考えた。そんな自分がすぐ嫌になり、ダメだと言おうとした。
 しかしその前に、「あたしは泊めていいよ」と声がした。振り返ると、杏梨がパックのレモンティーをストローで吸いながら俺たちを見ている。慌てて夢月と軆を離そうとしたが、夢月は俺の背中に腕をまわしてしがみつく。
「おいっ、夢月──」
「杏梨は知ってるからいいの」
「は?」
「杏梨はほんとのこと知ってるから」
「ほんとの……こと?」
「お願い、泊めてよ。今日は僕、家に帰れないから……」
 帰れない。帰らない、ではなく、帰れない。その含みに当惑しているうち、「とりあえず夢月が泊まるのは決まりな」と杏梨が答えを出してしまった。俺は抗議しようとしたものの、「やった」と笑みを噛む夢月に口ごもる。夢月は「じゃあ、あとでね」と俺の耳元に背伸びすると、巻きつけていた腕を放して杏梨に駆け寄った。
「ありがとね、杏梨」
「んーん」
 そんな会話を交わしながら、ふたりはリビングに行ってしまう。取り残された俺は、しばらく玄関に突っ立っていた。軆に移った、夢月のフローラルの香りを嗅ぎ取る。その甘やかな匂いに胸が苦しくなるくらい安堵感なんか覚えて、俺はそんな自分に怖いぐらい不安になった。

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