さいれんと・さいれん-21

愛しく想うのは

 どうにか動いた脚で階段を降りながら、夢月にも鍵締めておくの頼めないなら一階で桃寧待ってるしかないじゃん、とため息をついた。こういうとき、俺の家みたいにオートロックだと助かるのだが。かといって、俺が鍵もかけずに出ていったせいでこの家に何かあったら、いよいよ申し訳が立たなくなる。
 しょうがないか、と一階に着くと階段の明かりを消し、ふと見たリビングのドアのガラスに光が映っているのに気づいた。誰かいるのか。まさか桃寧たちの親、と蒼白になりかけたが、どのみち黙って家を出ていけないのは同じだ。
 落ち着け俺、と深呼吸してリビングのドアを開けると、クーラーがきいたそこにいたのは、予想を裏切って莉波さんだった。
「あ……ど、どうも」
 ソファから振り返ってきた莉波さんに、ぎこちなく挨拶なんかしてしまう。莉波さんは初対面のときの笑顔はなく、そっけなく前に向き直ってから「どうも」と返してきた。
「来てたんです、ね」
「まあね」
 昨夜、莉波さんが桃寧にしようとしたことがよぎった。責めたほうがいいのか。しかし、俺には桃寧の彼氏の顔をする資格なんてない。あるいは、俺が消えて莉波さんが大切にしたほうが、桃寧は幸せになのではとまで考える。だが、一応彼氏である俺がつきあいを勧めるのは、桃寧を傷つけるだろう。今はまだ、と判断すると、「あの」と俺は臆しながら莉波さんの背中に声をかけた。
「俺もう帰るんで、鍵を代わりにかけておいてもらえますか」
「………」
「鍵ほったらかして帰るのは、やっぱ危な──」
「モモは」
 莉波さんは硬い声で俺の言葉をさえぎる。
「中学時代から、君が好きだったらしいね」
「はっ? あ、……いや、そうらしいですね」
「そんな奴がいるなら、初めから君を遠ざけておけばよかった」
「……え」
「君なんかより、俺のほうが一番近くで、ずっと長く、モモを見てきたんだ」
「……あ、」
「モモのことが子供の頃から好きだった。きっと最後は俺を選んでくれると信じてきた。なのに、君を想うばかりに、俺をあんなに拒否するなんて」
 莉波さんの声音が苦々しく陰る。俺は足元に視線を下げた。俺は桃寧の彼氏で、莉波さんには嫉妬の対象なのだ。牽制したくて、そんなことを言うのだろうが──
「莉波さん、は……夢月と、……つきあっているのでは」
「はあ?」
 心底忌ま忌ましそうな睥睨に畏縮すると、「ユメがそう言ったのか」と莉波さんはこまねく。
「言ってはないですけど、……こないだ」
 莉波さんは眉を寄せたあと、「ああ」とソファにもたれて吐き捨てるように言った。
「あんなの、ただのモモの代わりだ」
「えっ……」
「いや、はけ口だな。ユメはバカだから利用しやすいんだよ」
 顔を上げる。その言い方にはいらっとした。そんな、唾棄するみたいに言うことはないではないか。俺のそんな想いを感じ取ったのか、莉波さんは急に嗤笑をもらすとこちらを再びかえりみた。その面持ちはひどくいびつに意地悪そうで、刺さってくる悪意にたじろぎそうになる。
「俺が『モモと彼氏を別れさせろ』って言ったら、ユメは必ず言うことを聞くんだ」
「え」
「俺の言うことを聞いていたら、俺が自分に振り向くかもなんて思ってるんだよ。浅はかだよな」
 え? 何。どういう意味だ。
 混乱に目を開く。とっさに理解が追いつかない。それは、つまり──
「君もユメにずいぶんきわどく迫られただろ。あれは全部、俺の命令でやってたんだ。本気でユメが君に惚れてるなんて思ったりしたか? あははっ、ユメはご褒美に俺に掘られることしか考えてないよ、残念ながらね」
 莉波さんとじっと見合う。次第に、息遣いがわなわなと震えてくる。
 これはすなわち、こいつが元凶だったということか? 桃寧が彼氏に振られるのも。夢月が俺に迫るのも。夢月が執拗に桃寧の彼氏を寝取ってきたのは、すべて、この男に振り向いてほしかったからだった──
 こめかみのあたりで火花が起きた。無意識に莉波さんに大股で近づき、荒々しくその胸倉をつかんでいた。莉波さんは冷めた眼つきで俺を見る。俺はその顔を殴りつけたい衝動は必死に抑えても、怒鳴ることは我慢できなかった。
「夢月がどんな気持ちで、桃寧を裏切ってると思ってんだよっ。その男が好きでもないのに、姉の恋人を誘惑までして、あいつはあんたに尽くしてるってことだろ!? なのに、それをっ──!」
 叫びながら耐えられなくなった。俺はこぶしを振り上げ、莉波さんを殴ろうとした。そのときだった。
「何してるのっ」
 ばたばたと足音が近づいて、はっとそちらを見ると夢月がリビングに飛びこんでくる。
「やめてよ、おにいちゃん!」
 莉波さんの胸倉をつかむ俺に、夢月は真っ先にそう言う。
「リナちゃんにひどいことしないでっ」
 ……くそ。やっぱり莉波さんかよ。俺じゃなくて、こんな奴を優先するのかよ。そう思うといらいらして、「うるさいっ」と俺は夢月に対しても大声をあげていた。
「お前だって、ほんとは分かってんだろ!? この野郎は、お前のことをなあっ──」
「分かってるよ!」
 夢月は引っぱたくような鋭い声で叫び返してくる。
「けど、僕はリナちゃんが好きだし、性欲処理でも抱いてもらえるのがすごく幸せで……っ」
 俺は夢月を茫然と見つめてしまう。夢月は俺の腕にしがみついて、こぶしを引き下ろした。性欲処理でも、なんて、そんな……
 夢月の言葉に、莉波さんはさもおかしそうに噴き出した。胸倉をつかむままの俺の手をはらって、ひとしきり笑っていた。夢月は感情を抑えた表情でうつむき、俺は怒った反動でかすかに息を切らしながら、莉波さんの狂ったような笑いに吐き気をもよおした。
「本っ当にバカだよなあ、ユメは」
 莉波さんはまだそんなことを言って、夢月は顔をあげると「うん」なんて言って痛々しく微笑んだ。俺は舌打ちしたいのをこらえ、もうこの場を去ってしまおうとした。
 そうだ。もういいではないか。夢月は何を言っても莉波さんが好きなのだろうし。莉波さんがいくら好きでも桃寧は振り向かないし。桃寧のことは、俺が幸せにして──俺は、桃寧のことだけ考えていればいい。夢月のことなんか、もう放っておけばいい。
 黙ってリビングを出ていこうとすると、「待てよ」とがしっと莉波さんに腕を取られた。顰め面で振り向くと、「あんたも夢月に興味あるんだろ?」と言われる。俺はおろおろとする夢月を瞥視したのち、「どうでもいい」と無機質に答えた。
「へえ? 今、夢月のために俺を殴ろうとしたくせに?」
「っ……」
「けっこう、夢月のこと『いいな』と思ってんだろ。分かってるよ。これまで、どんな男もそうだったんだから」
 俺は苦く莉波さんを見た。そんな俺に莉波さんはにっこりとしてみせてから、「なあ、ユメ」と目を細める。
「ここまできてる男なんか、簡単だろ?」
「えっ」
「そろそろ俺もこいつに限界だしな。目障りすぎる」
「……う、うん」
「今すぐこいつとやって、落としてこい」
 俺は渋面を浮かべ、莉波さんは余裕を見せて微笑み、夢月はうろたえて俺と莉波さんを見較べる。
「お前のために切れるぐらいだ。こいつも、本音ではどうせお前とやりたいんだよ。だから、とっととやらせて、桃寧のことも裏切らせるんだ」
「で、でも」
「でも? でも何だ? お前がここで役に立たないと、俺は本当にモモとつきあえなくなるんだぞ」
 胃がきりきりするほどの嫌悪が湧く。何なんだよ、この男。ここまで自己中心に考えられるって──
「お前がこの男を落として、いつも通り、こいつからモモには別れを切り出してもらう。こいつにそこまでさせられなかったら、お前のことは二度と抱かないからな」
 夢月は狼狽に囚われてたたずんでいた。けれど、ゆっくりと俺を見上げた。黒い瞳が涙でゆらゆら揺れている。俺がそれを唇を噛みながら見つめ返すと、夢月はいったん首を垂らし、今にも壊れそうな笑顔を向けてきた。
「おにいちゃん……お願い、今から僕の部屋に──」
 最後まで、言わせなかった。俺は夢月の腕をぐいと引っ張って、そのまま抱きしめていた。あの甘い匂い。腕の中で夢月は怯えて震えていた。「大丈夫」と俺はその耳元でささやいて頭を撫でる。
「大丈夫だから」
「……おにい、ちゃん」
「俺はお前をこいつみたいにあつかったりしない」
 夢月がとまどった顔で俺を見上げてくる。俺のその瞳に微笑んでみせてから、「ただし」と言い添える。
「俺としたいっていうなら、もうほかの男とはするなよ? そいつともだ。できるか?」
 俺の微笑を映した夢月の瞳が、じわりと濡れる。そしてそのまま、ぽろぽろと涙が落ちはじめた。「おにいちゃん」と呼ばれ、「うん」と答えると、夢月はぶつかるように俺に抱きついてきて、わっと泣き出した。
「おにいちゃん。おにいちゃんが好き。僕、おにいちゃんが好きだよ」
「うん」
「ほんとは、どんどんおにいちゃんのことが好きになってたんだ」
「うん」
「リナちゃんとしてるとこ見られて恥ずかしかった。だから避けた。おにいちゃんには、僕のいやらしいとこ見られたくなかった」
「……うん」
「でもリナちゃんが怒るのが怖くて、あの日、杏梨に頼んで家まで行った。今度こそ、おにいちゃんを落とさなきゃって思ってた。でもね、会いたかっただけなんだ。おにいちゃんに触りたかった。杏梨は『うちの兄貴でいいなら応援する』って僕の気持ちを認めてくれた」
「……そっか」
「あの夜、おにいちゃんが僕を抱きしめてくれて嬉しかった。『寂しかった』って言ってくれて嬉しかった。おにいちゃんに抱かれたいと思った。初めて、リナちゃん以外の人にそう思ったんだ。おにいちゃんにならめちゃくちゃにされていいと思った」
 激しく嗚咽をもらす夢月の背中をさする。俺のTシャツが夢月の涙でぬかるんでいく。
「おにいちゃんが好きだよ。初めは、相手にしてくれないムカつく奴と思ってたけど、僕を見てくれないくらいおねえちゃんを想ってるから、僕もそんなふうにおにいちゃんに想われたいって、」
「想ってるよ」
 突然はさまれた俺の言葉に、夢月は緘唇し、「でも」と声を迷わせた。
「おねえちゃんのこと……」
「……はは。たぶん、だいぶ前から、俺は夢月のことばっかり考えてるから」
「え……っ」
「俺も夢月が好きだ。だから、いいんだよ。夢月、桃寧のことが好きだって言ってたもんな。ほんとにそうなんだろ。大好きな姉貴なのに、裏切って苦しかったよな。俺はお前にそんなことさせない。俺のことだけ見てくれたらいい。女の格好だって、誘惑のためにやってるならやめてもいいんだ。かわいいからその格好は俺も好きだけど、夢月はしたくない格好だったらしなくていい」
「おにいちゃん……」
「夢月はどんなでもかわいい。夢月のことが、俺はすごくかわいいんだ」
 夢月は俺の胸でぼろぼろ泣いていた。背中にまわした手で、俺のTシャツを握りしめる。だが、大きな舌打ちが聞こえたかと思うと、「ユメ!」と莉波さんがいらだった声を出した。夢月の軆がびくんとすくむ。
「ったく……しょうがないな。さっきのは撤回だ。その男とはそれ以上関わるな」
 莉波さんの要求は支離滅裂で、ただのわがままにさえ聞こえてくるが、夢月はこの男に支配されてきたせいか、はっきり怯えている。
「お前はこれからも、モモについてくる虫をはらうんだ。モモが俺に振り向くまでだ。いいか、それまでお前は、俺の言うことだけを聞いてろ」
 夢月の肩は畏怖におののいていて、俺はいっそうその華奢な軆を抱きしめた。俺にそうされて、夢月の軆は徐々におさまっていった。それから、「おにいちゃん、ちょっとだけ、ごめん」と言ってしがみついていた腕をほどく。そのまま解放してやると、夢月はびくびくしながも莉波さんを見つめた。
「リナちゃん、ごめん……なさい。僕、この人が好き……。この人に、抱いてほしいって思う」
 莉波さんは険悪に目を眇める。
「どういう意味だ」
「リナちゃんに、……抱かれなくても、もういい。リナちゃんがどうでもよくなるくらい、僕、おにいちゃんが──」
「モモに話していいんだな?」
「えっ」
「今までの彼氏は、お前が股を開いて寝取ってたって、モモに言うぞ」
 こいつゲスか。毒々しく思っている隣で、夢月は一瞬うつむいたものの、「いいよ」ときっぱり莉波さんの目を見て言った。
「その代わり、おねえちゃんの彼氏を僕のものにするのは、水雫おにいちゃんが最後だから」
 莉波さんは睨めつけるように夢月を見て、心底気に喰わない面持ちを見せたが、「役立たずが」と吐くとリビングを出ていった。乱暴に玄関のドアが開け閉めされる音が響き、俺と夢月はぽつんとリビングに取り残される。
 夢月は哀しそうに睫毛を伏せ、「よかったのか」と俺は恐る恐る声をかけた。
「あいつのこと、好きなんだろ?」
 夢月は俺を見上げた。見つめあって、不意に微笑をこぼした夢月は「まだそんなこと言うの」と言った。
 そんなこと、なのだろうか。信じられないほどつらい想いをしても、夢月は莉波さんに尽くしていたのに──
 そんな思考を奪うように、夢月は俺の首に腕をまわして背伸びすると、唇にキスをしてきた。至近距離で再び瞳が触れ合う。
「おにいちゃんこそ、ほんとに僕のこと好きなの?」
「えっ……ま、まあ。そう、だと思う」
「おねえちゃんのことは?」
「………、さっき」
「さっき」
「桃寧としようとして……何か、ダメだったんだ」
「え、勃たなかったの?」
「違うわ。何というか、その、お前のことを思い出しちまって」
「え……」
「そのまま、お前を重ねそうだったから、できなかった」
 夢月は俺をじっと見つめて、何だか嬉しそうに咲うと、俺の胸に頬を寄せた。
「夢月は……俺のことなんか、ほんとに」
「だって、初めて僕に落ちないんだもん。いつのまにか、意地でも振り向かせるって、本気で落としにかかってた」
 夢月らしい理由に、俺は何とも言えない苦笑いをしてしまった。そしてその細い軆を抱き寄せ、髪を撫でる。フローラルの香りが指先に伝う。夢月はうっとりした声でささやいた。
「おにいちゃん、大好き」
「俺も、夢月のこと好きだよ」
「……えへへ。嬉しい」
 夢月は幸せそうに咲って俺に抱きつき、俺も夢月の軆を腕になじませるようにきつく抱いた。
 わけが分からない奴だと最初は思っていた。でも今は、夢月の心が俺の心に流れこんでくるように感じ取れる。やっと俺のことを見てくれた。だから、もう一生かけて大切にしよう。
 夢月。お前は狂おしいほどにかわいい、俺だけの男の娘。

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