そばにいたい【1】
右肩の重いかばんをどさっと床におろすと、左腕で大切に抱えてきたチョコをつくえの真ん中に置いた。透明フィルムの中で、チョコは赤い箱に綺麗に敷き詰められ、口は赤いリボンできゅっと絞ってある。
食べていいのかな。夜に残しておこうかな。おねえちゃんにもらったマフラーを外しながら、そわそわして、おいしそうなココアパウダーをかぶったチョコを見つめる。
おねえちゃんからのバレンタインチョコ。今年は僕だけに手作りのチョコ。寒さも忘れて指先が発熱している。嬉しい、とどうしても笑みがこぼれてしまう。
バレンタインは毎年もらってきたけど、自分はきっと、誓にいちゃんに渡すついでだろうと思ってきた。でも、おねえちゃんはちゃんと僕にも渡したいと思ってくれていた。それが分かっただけでも幸せだ。
しかも、誓にいちゃんのことは断り、つきあわないようなことも言っていた。そしたらおねえちゃんはまた僕のだ、とほっとして、ひとまず僕は制服を着替えることにする。
学校ではひとつもチョコをもらわなかった。もともともらうような男ではないけど、ゆいいつ気がかりだったのは美坂さんだ。クリスマスにクッキーを渡してくるのだから、バレンタインのチョコは用意してきそうだと思っていた。そうしたら案の定、蒼樹と話していた昼休み、「長川くん」と呼ばれて、美坂さんに綺麗に包装された小箱をさしだされた。
僕は面食らってから、また蒼樹の前でそういうの、と親友の気持ちのほうが心配になった。「これ」と美坂さんは頬を染めながら僕を見上げる。
「チョコレートなんだけど」
「……はあ」
「も、もらってくれたら──」
僕はうつむいて、つくえの陰で見えない膝の上で手を握った。つくえに腰かける蒼樹は、そんな僕を見つめてくる。
おねえちゃんは、誓にいちゃんにはっきりしてくれない。それが僕はもどかしい。このあいだ、蒼樹にそんな相談をした。そう、だからせめて、僕のほうははっきりしたい。それがおねえちゃんに関係なくても、僕は僕の好きな人だけを見つめる。
「……ごめん」
「えっ」
「美坂さんには、言わなきゃいけなかったんだけど。僕、好きな人がいるんだ」
「……好きな、人」
「だから、応えられないのにいろいろもらうわけにはいかない」
「………、でも、これだけは、」
「いらない。ごめん」
「もらったあと捨ててもいいよ。だから一応──」
僕は首を横に振った。美坂さんが立ち尽くしていると、蒼樹がひょいと小箱を奪って「捨てるなら俺が食っとくわ」とそれをポケットに突っ込んだ。
「あ、蒼樹に渡したいんじゃないのに、」
「どうせ受け取らないよ、尚里は。こいつには好きな奴がいるとは忠告しといただろ」
「………っ」
「ま、お前の性格なら引き下がらなかったよな」
「そん、な……こと、」
「自分がかわいいのはよく知ってるもんなー」
「何かそれっ──」
「でも、尚里はかわいいだけで惚れてくれる男じゃないぜ」
美坂さんは蒼樹を見つめてから、僕に視線を戻した。「クラスの人?」と訊かれて首を振り、「年上だから」とだけ言った。
「そう、なんだ……。つきあってるの?」
「ううん。でも、その人以外、考えたくない」
「……すごく、好きなんだね」
「うん。すごく好き」
「そっかあ……じゃあ、あきらめるしかないね。ごめんね、何か」
「僕こそ、きちんと言えなくて」
「いいの、言いづらいよね。連絡先とかも、迷惑だったらブロックしていいよ。あ、蒼樹、あんたにも一応義理チョコがあるよ」
「今年は、この本命を供養しとくわ」
「何よ、供養って。それはそれであげるから。用意したのももらってもらわないと余る」
「はいはい。じゃあ今くれ」
美坂さんはむくれた顔をしてから、いったん席に蒼樹のぶんのチョコを取りに行く。「よく言ったな」と蒼樹が抑えた声で言ってくれて、僕は蒼樹を見上げてうなずいた。
「ごめんね、美坂さんは蒼樹の好きな人なのに」
「はは。俺もずっと言ったことないから、尚里に近いのかもな」
「蒼樹と美坂さん、いいと思うよ」
「どうなんですかねー」
蒼樹が肩をすくめていると、美坂さんが戻ってきてチョコをさしだした。明らかにひと口チョコのお徳用を小分けしただけのふくろで、何だか笑ってしまう。「落差がすごいな」と蒼樹もげらげら笑って、「義理だからいいでしょ」と美坂さんはそっぽを向いていた。
そんな感じで、学校ではチョコを回避してきた。ほかに渡そうとする人もいなくて、蒼樹のほうがよっぽどもらっていた。だから、帰宅してこうしておねえちゃんにチョコをもらえて、感動もひとしおだ。好きな人からのバレンタインチョコほど、男にとって嬉しいお菓子はない。
ひとつ食べよう、とやっぱり我慢できずにリボンをほどくと、ひとつずつピックが刺してあるのでつまんで、頬張ってみた。柔らかいのに、濃厚に甘くて、毎年食べている味だ。昔はクリームっぽかったりもしたりしたけれど、ここ数年はすごくおいしい。しかも、今年これを味わえるのは僕だけなのだ。そう思うと、チョコを蕩かす頬がほころんでしまう。
そして、おねえちゃんが誓にいちゃんとつきあわない方向で考えていることも知れた。だからといって僕とつきあってもらえるわけではなくても、誓にいちゃんがライバルから外れるのは嬉しい。
誓にいちゃんは、一番のライバルだと思ってきた。僕よりおねえちゃんに近い男がいるとしたら、誓にいちゃんだった。でも、もう幼なじみ以上におねえちゃんに近づかれることはない。
もちろん、これからまた別の男が現れることがあるかもしれないのは分かっていても、ひとまずほっとする。チョコおいしかったって言おう、と僕は一気に食べないようにふくろの口をリボンで結い直すと、急いでおねえちゃんがいる一階に降りていった。
【第十七章へ】
