そばにいたい【2】
──学期末テストもバレンタインも終わって、学校は三月の頭まで卒業式の準備に追われる。それが過ぎて三年生を見送ると、あとは春休みを待つばかりになった。風はひんやりしていても、日中は陽射しが緩やかになってきた。
二年生も終わりだなあ、とか思いながらその日帰宅すると、玄関に見慣れない靴があった。女の人の靴だ。誰か来てるのかな、と思いながら「ただいま」と声をかけると、「帰ってきたじゃん」とか聞き慣れない声がして、すぐにリビングのドアからおねえちゃんが顔を出した。
「ナオ。おかえり」
「ん。誰か来てるの?」
「あたしの友達」
「友達」
めずらしいな、と僕がしばたくと、「久しぶり、弟くん」とおねえちゃんの後ろからボブカットの女の人が現れた。その顔を見て、「あ、」と僕も気がつく。
「彩季さん、ですよね」
「そう。久しぶりだねー」
「はい。お久しぶりです」
僕は荷物をおろして頭を下げる。「堅くならなくていいよー」と彩季さんは笑って、「あんたは少し遠慮しろ」とおねえちゃんが息をつく。
「いいじゃん。弟くん、ほんと久々。あたしとミキが高校生のとき以来だよね」
「はい」
「昔はよく来てたから、美希音の家は落ち着くわ」
「実家にも帰れよ」
「お正月に帰ったからいいの。今日は美希音の弟くんも見たかったし」
「ったく。ごめんね、ナオ。帰ってきたのに騒々しくて」
「ううん。彩季さん、ゆっくりしていってください」
「ありがと。改めて会うと、さすが美希音をブラコンにするだけの美少年だね」
ブラコン。その言葉にまばたきをしていると、「ナオの前で変な言葉使わないでよ」とおねえちゃんは眉を寄せ、彩季さんをリビングに押し返す。そして、「またあとでね」と僕に微笑んでおねえちゃんもリビングに行ってしまった。
僕はそれを見送り、ちょっとびっくりした、とスニーカーを脱いで家に上がる。荷物を持ち上げて二階に上がると、自分の部屋に入って息をつく。
彩季さんがここに来るのは、本当に久しぶりだ。おねえちゃんとは中学時代からの友達だから、実家は近所で、昔はしょっちゅう遊びに来ていた。セーラー服だったあの頃より、ずいぶん大人っぽくなっていた。今はひとり暮らしをしているのだっけ。
荷物をつくえのそばに下ろすと、ブラコンかあ、とベッドサイドに腰かける。
おねえちゃんが中学生のとき、僕は小学校中学年くらいだったから、まだまだおねえちゃんに甘えていた。おねえちゃんも疎まずかわいがってくれていて、彩季さんと勉強するのに僕もそばにいさせてくれたりした。今思うと、さすがにずうずうしかったなと恥ずかしい。
でも、「尚里くんはおねえちゃん大好きだよねー」と彩季さんも何だかんだ僕をかわいがってくれたものだ。おねえちゃんにしがみついて離れない僕を、邪慳にする目でも見なかった。だから、僕も彩季さんのことはわりあい好きだと思う。
とはいえ、今もまたあの頃のようにおねえちゃんと彩季さんの中に混ざるのは恥ずかしい。彩季さんなら、おねえちゃんとふたりきりでも、嫉妬なんてない。宿題でもしておこうかな、と教科書とノートをつくえに引っ張り出し、その前に制服を私服に着替えようとしたときだった。
チャイムが鳴って、誰か来た、と金ボタンを外す手を止めた。おねえちゃんも聞こえただろうけど、彩季さんがいるから僕が出たほうがいいかなと部屋を出た。階段を降りていくと、「ナオ」とちょうどおねえちゃんもリビングから顔を出す。
「誰か来た」
「うん。チカ」
「……チカ、ちゃん」
ちく、と心に針が刺さる。誓にいちゃん。おねえちゃんにそのつもりがないと分かった今でも、まだしっかり振られたわけではない誓にいちゃんは、僕には気がかりな存在だ。何であきらめないんだろう、と胸がつい陰ってしまう。
「呼んでた、の?」
「ううん。たぶん回覧板か何かでしょ」
「……そっか」
一応ほっとしていると、「すぐ戻ってくるから」とおねえちゃんはリビングの彩季さんに言って、階段の途中の僕のことも見上げてくる。
「ナオも制服着替えておいで。大丈夫だから」
大丈夫。……そうだ。おねえちゃんも、気持ちについて答えていない誓にいちゃんが今は苦手なのだ。何にもないよね、と玄関を出ていったおねえちゃんを見て、二階の部屋に戻ろうとしたときだった。
「尚里くん」と不意に名前を呼ばれ、足を止めて振り返ると、リビングから彩季さんが手招きしていた。僕はしばたいてから、「何ですか?」と駆け寄る。彩季さんは僕を見てから、「突然言うけど」と落ち着いた声で前置きした。
「尚里くんは、昔から美希音のこと大好きじゃん」
「えっ、あ……まあ」
「美希音も尚里くんのこと大事に想ってるし」
「そう、でしょうか」
「でもさ、このままだと誓くんに取られちゃうよ?」
「えっ」
「尚里くんの『好き』は、そういう『好き』でしょう?」
「え、……ど、どうして、」
「これでも、昔から見てましたから」
僕は頬を染めてうつむいてしまう。気づかれてしまうものなのだろうか。誓にいちゃんにもお正月に気取られそうになった。
「でも、肝心の美希音が分かってないからね。今のとこ、ちゃんと『好きだ』って伝えてる誓くんがリードしてるのは事実なわけ」
「おねえちゃん、つきあうつもりはないって」
「美希音につもりがなくて、誓くんはそれであきらめるかな?」
「え……」
「あれは、美希音に彼氏できたとかいう衝撃与えないと厳しいよ」
「……でも、僕、弟だし」
「義理でしょ? 血のつながりがないなら、結婚できるよ」
「……結婚できる、とは知ってます」
「じゃあ、自信持ちなよ。尚里くんが自信持ったら、強いのは尚里くんだから」
「……応援、してくれるんですね」
「正直誓くんを推してきたけど、美希音は『でもナオが』って言ってばっかなんだもん。どう見ても本命がそっちなら、親友だしね、それを応援するよ」
僕は視線を下げて、この感情を蔑まれずに認めてもらえたのが嬉しくて、泣きそうなったのを抑えてこくんとした。そのときがちゃっと玄関が開いて、「あっ」とおねえちゃんの声がして僕は顔を上げる。
「ちょっと彩季、ナオ泣かしてんじゃないよ」
「えー。仲良く相談してたんだよねー」
「ナオとあんたが何を相談よ」
手に回覧板を持ったおねえちゃんはこちらに来て、僕を覗きこんでくる。
「大丈夫? 意地悪された?」
「……ううん。励ましてもらった」
「励ます」
「ほら、あたしも尚里くんと仲良しよ」
「あんたには、ナオやらないしっ」
そう言っておねえちゃんは僕の腕を引っ張り、「はいはい」と彩季さんは肩をすくめてリビングに入っていった。「もう」とおねえちゃんはふくれてから、「何か言われたならごめんね」と僕の頭を撫でてくれる。僕は首を横に振り、「大丈夫」と言ってから「チカちゃん帰った?」と念のため訊いておく。
「うん。彩季来てるからって言ったし」
「そっか」
「あ、チカに何か用事あった?」
「ううん。おねえちゃんが、つらくないかなって」
「あたし」
「その、……気まずいとか。あるのかなって」
「あー、まあ。彩季ともそれ話してるんだけど、断るってむずかしいよね……」
「じゃ、じゃあ、つきあうの?」
「……つきあいたくて、つきあうっていうのはないだろうけど」
「じゃあ、つきあわなくていいよ。嫌なのにつきあうなんてダメだよ」
おねえちゃんは僕を見て、柔和に微笑むと「よく考えて決める」と僕の肩をとんとした。よく考えて、決める。よく考えて、どうしても断る言葉が見つからなかったら? そうしたら、もしかしておねえちゃんは誓にいちゃんとつきあうの? まだその可能性があるの? それはないって安心したのに、それは早かったの?
訊きたいのに、声にならない。「着替えておいで」とおねえちゃんは僕を階段のほうへとうながし、自分はリビングに入っていった。
心臓が、不穏な黒雲を吐き出す。おねえちゃん。嫌だよ。誓にいちゃんを好きになってつきあうのも嫌だけど、好きでもないのに流されてつきあうのはもっと嫌だ。
自信。僕が自信を持ったら、誓にいちゃんより強い。もうそろそろ、僕の「好き」をおねえちゃんに伝えなくてはならないのだろうか。弟だからと踏みとどまっていたけど、そんなのは乗り越えて、おねえちゃんをつかまえにいかないといけない。誓にいちゃんに、おねえちゃんを渡したくないのなら。
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