結ばれたい相手【3】
「──で、あたしのとこに来たってわけね」
三月の終わり、あたしは彩季の部屋を訪ねて、「尚里に結婚できるとか吹きこんだらしいね」といきなり仏頂面で喧嘩を売った。ドアを開けた彩季は楽しげに笑って、「話は聞くから入んな」とあたしを部屋に招く。あたしはため息混じりに部屋に上がると、誓のことも、尚里のことも、ひと通り彩季に話した。「誓への答えも、尚里への答えも、何が一番いいのか分かんない」とベッドに顔を伏せると、ベッドサイドの彩季はうなずいてそう言った。
「でも、あたしが答え出してやることじゃないよね。美希音の気持ちでしょ」
「つか、あんた誓の気持ち知ってたじゃん」
「うん」
「尚里も知ってたの?」
「うん」
「知ってたの!?」
「いや、普通友達と過ごしてる姉のところに、弟はまとわりついてこないでしょ」
「まとわりつく言うな」
「よっぽど美希音が好きなんだなあと」
「……あたし、そんな鈍いかな。チカにも言われたな。鈍い?」
「鈍い」
あたしはシーツに突っ伏して撃沈した。別に自分は鋭いと思っていたわけではなくも、男の子についてこんなに弱いとは。
「誓くんを振るのは、固まってきてる感じだね」
「だね。何て言えばいいのやら」
「素直に『つきあえない』でいいじゃない」
「いいの、それ。いろいろもらったけどいいの? 膝掛けぬくぬくだけどいいの?」
「受け取らないより一応喜ばせたんだからいいんじゃない」
「そんなもんなのか」
「どうしても誓くんを傷つけたくないなら、それはなるべく早く答えを伝えることだと思うよ。何だかんだで、引き伸ばしてることが一番むごいから」
「……ん」
「断ったら、誓くんだって次の女を考えられるわけだし。美希音が保留してるあいだ、誓くんはほかの女も見れないわけよ。応える気はないのにそれは酷だよ」
「じゃあ、まあ──誓は振る。努力する。尚里は? あんた結婚できるとか吹っかけたらしいけど、それほんとにいいのか」
「漫画の禁断系のオチは、だいたい『実は血がつながってなかった』からの結婚式」
「漫画の知識かよ」
「漫画ナメるなよ」
あたしは例の彩季の漫画コレクションの本棚を一瞥して、「それでも」とベッドに寄りかかる。
「おとうさんとおかあさんの気持ちとかさ……実際、考えるんだよ」
「それはあとから考えるとして、」
「あとから考えて、猛反対されてどのみち別れることになったら、家庭崩壊なんだよ」
「んー、でも、美希音のおじさんとおばさん知ってるけど、猛反対する?」
「少なくとも喜ばないよ」
「そうかなあ。まあ、じゃあ弟も振りな」
「さらっと言うな!?」
「障害が怖いなら、初めからやらなきゃいいよ。弟に応えるより、家族が大事だからって」
「ナオ泣くよ」
「弟が泣くより、親に反対されるほうが、美希音は怖いんでしょ」
あたしは眉を寄せて彩季を見た。彩季は飄々とペットボトルの紅茶を飲む。
「リスクに耐えられないっつって、弟も振っちゃいなさい」
「……そしたら、ナオはよその女を連れてくるでしょ」
「いずれはね」
「それは嫌だもん」
「弟との関係のリスクに耐えなかったんだから、それは耐えなさい」
「嫌だよ。そんなん、あたしだってナオに告られて嬉しいんだよ? 変だけど、頭おかしいかもしれなくても、嬉しいもん」
「別におかしくないよ」
「なのに、心ならずも振って、そしたらナオが女連れてきて、そしたらあたし泣くわけで、あーっ、何かもうわけ分かんないっ」
「嬉しいなら、その気持ちに素直になればいいだけじゃない。そしたら、少なくとも弟は美希音を離れないし、きっとすごく喜ぶよ」
あたしは彩季を見つめた。彩季はペットボトルをベッドスタンドに置くと、「はっきりしていいし、はっきりしなきゃいけないんだよ」と言った。
はっきり。はっきり、する。それは、あの子にも言われた。蒼樹くん。
そういえば、すっかり忘れていたけれど、尚里を狙っているという女の子はどうなったのだろう。あたしが尚里を振ったら、尚里はすぐにでもその子のところに行けるのではないの?
どうしよう。やっぱり、尚里がほかの女の取られるところだけは、想像だけで脳裏が傷ついて息ができなくなる。
「ナオの……」
「うん」
「ナオの、そばにいたい」
「うん」
「ほかの女に渡したくない。と、思う」
「うん」
「これは、あたしもナオが好きってことなの……かな」
彩季はあたしの頭をぽんぽんとした。あたしは視線を落とし、尚里が好き、と何度か胸のうちで繰り返してみた。
あたしは尚里が好き。誰にも取られたくないのはあたしのほう。あたしだけのかわいい男の子。遠くにいかないで。昔からそうであったように、ずっと先までそばにいてほしい。だって、尚里がいない人生なんて、あたしは考えられないんだ。
『春は痴漢が多いから駅に迎えに来い。』
わりと乗客の多い帰りの電車で、誓にメッセージを送った。しばらく反応がなく、スマホ見るかなあと暗くなった電車の窓にもたれる。時刻は二十一時をまわっていても、いつもほどの深夜帰宅ではない。でもメッセージに気づいたら何か来るだろうとSNSを見たりしていると、ぽんと誓からのポップアップが出た。
『何時くらいに着く?』
やはり、きちんと来るか。普段から心配してくれてたしな、と『二十一時半くらい』と返すと、『了解』と返事が来た。ため息をつきそうになったものの、人前なので慌ててこらえる。
いよいよこのときが来た。痴漢なんてもちろん建前だ。誓のことを振る。申し訳なさが半端なくて、最寄りが近づくほど鼓動が硬くなって緊張する。
振ったら、幼なじみでもいられなくなるのだろうか。それは嫌なのだけど、きっとわがままなのだろう。振られてお友達って酷だもんな、と告ったことがなくて振られたこともないから想像だけど、そう思う。
ただでさえ、去年の暮れに告白された返事をここまで引き延ばしたのだ。せめてちゃんと答えよう、と気持ちを引き締めたところで、二十一時半、最寄りに到着してあたしは前を向いて電車を降りた。
「やっと痴漢のことを心配するようになったか」
例によって、この駅ではどっと人が降りて、それに紛れて改札を抜ける。待っている誓のすがたを見つけると、普通にしなきゃ、と意識して駆け寄る。
誓はそう言ってあたしの頭を小突き、「春だからね」と声が上擦らないようにして返す。「春じゃなくても心配しろ」と誓は歩き出すのをうながし、あたしは何か言おうとして、やめて、誓の隣に並ぶ。
「彩季ちゃんのとこでも行ってたのか」
「うん。まあ」
「ほんと、昔から仲いいよなあ」
「チカは友達いないよね」
「いや、サークルとかに普通にいるし。大学での友達ばっかだから、春休みで会ってないだけだよ」
「中学とか高校の友達は切れたの?」
「切れたってわけではないんだろうけど、それぞれ今の環境で友達ができてるからなー」
「ふうん」
「そう言うミキは、彩季ちゃん以外に友達いるのか」
「そういや、あたしも大学の友達は大学だけだな」
「そんなもんだろ」
「うん」
やがて住宅街の中に入っていくと、アスファルトを進む足音が聞き分けられるようになる。あと数日で四月だけど、夜の空気はまだ冷える。
何となく沈黙で、言わなきゃ、と焦るのだけど、どう切り出せばいいのか分からない。待つと言っている誓から触れてくることは恐らくないだろう。躊躇しているうちに家も近づいてくるから、せっかく呼び出した意味もなくなってしまう。
言わないと。これ以上引き延ばせない。正直に伝えて、お互いすっきりするんだ。たとえそれで幼なじみでいられなくなっても、受け取らない想いを預かっているのはもうつらい。
【第二十二章へ】
