水燈の光

『彼の瞳は、私を見送ってくれる水燈の光だったのです。』
 雲雀ひばり伊臣いおみの残したノートは、そう締めくくられていた。
 私は、彼が永年孤独と共に過ごした部屋を見まわす。
 牢獄のような部屋だ。灰色のコンクリートの壁、硬いパイプベッド、自力で開けられないドア。
 やっと物を持つことを許された雲雀は、ペンとノートが欲しいと私に言った。そんな質素なものだけかと拍子抜けたが、まさかこんなものを残すとは──。
 この精神病棟の看護師になって、十年近く経つ。こちらの気まで狂うような激務の中で、雲雀伊臣は、長いあいだ私たちの悩みの種だった。
 彼がこの病棟に来たのは、彼が七十二、私が四十三のときだった。初めて会ったときは、特に病的だと感じるものもない、物腰柔らかな老人だと思った。
 ひとり暮らしをしていた雲雀は、隣人から苦情が来てここに来た。双極性障害を患っていた。特に躁状態が顕著で、赤ん坊のように泣き叫び、手あたり次第の物を投げ、医師や看護師、時には同じく入院する患者にも暴力を振るおうとした。
 私も何度罵られ、暴れる腕に殴られたか分からない。
 しかし、子供が好きな老人であった。近くに小学校があるため、この病院には子供たちがよくボランティアで遊びに来る。もちろん、雲雀のような患者もいるこの精神病棟には入れない。
 それでも、一般病棟の患者と子供たちが庭で遊ぶのを、せめて見てみたい──雲雀はそう言って聞かず、私たちに監視されながらも、子供たちを嬉しそうに見つめていた。
 雲雀は伴侶を持たず、天涯孤独の身だった。子供を見ているときの雲雀は、おとなしいと分かってきていて、その日は私しか付き添っていなかった。梅が芽吹き始めたものの、まだ寒い三月頃だったように思う。
「あの子、いつもひとりですねえ」
 庭に面した廊下で、突然、雲雀はそうしわがれた声で言った。
 はしゃぐ子供たちを一緒に見ていた私は、はたと彼を見た。髪も睫毛も抜け落ち、染みが浮いた頬も垂れ、肌や唇の血色も良くない。
「あの子、ですか」
「あの、樹の下でひとりぼっちの子ですよ」
 薬のせいか、いつもかすかに震えている手を持ち上げ、雲雀はまだ咲かない桜の樹の下を指差した。
 確かに、その根元では、まだ小学校低学年くらいの少年が膝を抱えていた。
「よく来る子なんですけどねえ。せっかく来てるのに、ちっとも楽しくなさそうに、いつもああしてるんですよ」
「内気な子なんですかね」
「そうなんですかねえ」
 それから、雲雀はよくその少年の話をするようになった。「私でよかったら、話相手になるのにねえ」と雲雀は言ったものの、おとといの夜、あまりにも暴れるので拘束具をつけた患者を、あんな幼い子に会わせるわけにもいかない。
 それでも、その少年も雲雀の気配は感じ取ったらしい。桜が咲いて進級しても、その少年は変わらずボランティアに参加して病院にやってきた。
 桜の花びらが、はらはらと芝生に舞い降りていた。その花びらが軆にくっつきでもしたのか、めずらしくその少年が顔を上げた。そして目が合ったのか、雲雀は笑って手を振った。
 それが自分に向けられていることに少年も気づくと、彼はとまどった様子でも、小さく頭を下げた。
「──看護師さん、いつも、すみませんね」
 雲雀がめずらしく食事を食べ切った梅雨の夜だった。食器を片づけにきた私に、雲雀はそう言った。私は笑って突然どうしたのか問おうとし、目を開いた。
 雲雀は右手で目を覆い、肩を震わせていた。
「本当に、すみません」
「雲雀さん──」
「私は子など持たなくてよかった。本当によかった」
 鎮静剤が必要な嗚咽ではなかった。しかし根深い、心の底からあふれている涙なのは、仕事柄感じ取れた。
 私は食器をいったん置いて、同僚が来るまで雲雀の肩を抱いてさすっていた。雲雀は何度も、謝罪の言葉を繰り返した。
 その数日後のことだった。その少年の写真が、親の虐待で死亡した子としてニュースで流れた。
 それから、雲雀の病状が目に見えて変わった。あんなにひどかった躁状態がほとんど現れなくなった。医師も私たちも驚きつつも、部屋に物ひとつ置くことすら許さなかった束縛を、老衰も近い年齢を考えて緩めていった。むしろなるべく希望を受け入れるよう努め、正直雲雀の担当になると面倒そうだった者も、いつしか彼に笑顔で接するようになった。
 そして、八十歳になろうとする冬である昨日、雲雀伊臣は看取る家族もなく、私たちだけに看取られて静かに永眠した。
 雲雀の部屋の片づけを任された私は、まくらの下からこのノートを発見した。何か欲しいものはないですかと問われて、レコードや絶版の本を欲しがる患者も多い中、雲雀は「ペンとノートをください」と言った。
 私はそのノートをめくって、勝手に読むのは良くないと分かっていても、あまり綺麗とは言えないその文字をたどってみた。
 そして目を開いた。
『ずっと、得体の知れない暗闇が私の頭を支配していました。
 そのせいで、先生を始めとした皆さんにご迷惑をかけてきました。
 最後の少しは、御恩をお返しできたでしょうか。
 天国で、あの少年と話せるでしょうか。
 おじいさんも、幼い頃、お父さんとお母さんに愛されずに育ったんだよと。』
 それ以降、雲雀が幼少期から少年期にかけ、親から受けた虐待が生々しく綴られていた。片づけに手間を取っていると思われているのか、誰も来ないのをいいことに、私はノートのページをどんどんめくっていた。
『あの子の訃報を知る少し前のことでした。
 気を利かせた看護師さんが、「少しだけですよ」と彼を窓辺まで呼んでくれました。
 彼は何も言わず、ただガラス越しに私を見上げてきました。
 その瞳を見た瞬間、私は押し殺してきた記憶を思い出したのです。』
 ノートを最後まで読み終え、ぼんやりとしていた私は、はっとして時計を見た。さすがに同僚が来てもおかしくない。
 私はこのノートをさらしていいものか悩みながらも、さっぱりとさせた空き部屋を急ぎ足であとにした。
『暗闇の正体は、幼い頃に覚えていた「殺されるかもしれない」という恐怖でした。
 私は必死に抵抗しているつもりだったのでしょう。
 しかし、冒頭に書いたとおり、それは人様にご迷惑をかけただけでした。
 ただ、そのまま殺されるように死ぬことだけは、免れたのです。
 それは、あの少年のおかげです。
 私の目を見てくれた、私と同じ目を持つ、こんな年寄りより先に逝ってしまった幼子。
 私は安らかに死を待つことができます。
 彼の瞳は、私を見送ってくれる水燈の光だったのです。』

 FIN

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