うたたね-1

序章

 俺は悪夢を見ていた。あれはひどい夢だった。
 何年も何年もうなされ、やっと今、あの悪夢を解放されている。目を覚まし、暖かく柔らかい光を瞳に受けている。
 絶えなかった生傷は、軆にはなくなっても、心に根深く植わっていた。俺の精神は亀裂だらけで、血も流れずに膿んで腫れ上がり、些細なものがかするたび、化膿は痛覚に電流を走らせていた。
 今の俺に、それはない。順応したのではない。きちんと膿を出して、血を滲ませた。そして、できたかさぶたを経て、俺は癒えてきている。
 オカマを使って得た生活費を、ジーンズのポケットにねじこんだ。ベッドに横たわる客は、「まだ残ってる」と言う。俺は「あっそ」と薄い後頭部に口づけると、ポルノポスターが一面貼ってある悪趣味な部屋をあとにした。
 一階に出ると、十二月十一日のブロックカレンダーを置いたフロントに顔なじみの奴がいた。客が残っている旨を伝え、ほかにフロントに用事がありそうな人影はないのをいいことに、くだらない雑談をする。
「そういえば、弓弦が来てたぜ」
「マジ。どうだった?」
「相変わらず」
「ひとりで」
「ここは何するところだよ」
「はは。今日はどっち」
「女。っとに、よくやるよな」
 俺は曖昧に咲った。よくやる。傍目にはそうだ。まあ、弓弦もそう取られておくことを望んでいるのだが。
 ロビーで延々と口紅を塗り直していた女に、ほつれた布切れみたいな男が近寄り、ふたりは連れ立ってフロントにやってきた。俺はフロントに目配せだけしておくと、モーテルをあとにした。
 月も星も淡い夜空には、十二月の凍りついた白い息も霞ませる、きらびやかなイルミネーションの色彩が踊っている。このモーテル街は私娼窟の一部で、うろついているのは娼婦や男娼、玄人の客ばかりだ。
 路地裏や十字路でこの通りから左右に散ると、繁華街に出る。煙草や香水が入り混じるその人混みに、俺も紛れこんでいく。
 俺はこの街の男娼だ。店には縛られていないが、後ろ盾はある──なければ堂々と商売はできない。
 男娼とはいえ、俺は売り専で恋愛対象は女だ。だが、すれ違うどの女にも見向きしない。俺にとって、女は水香みかひとりで、たぶん一生そうだ。
 俺は彼女とのあいだに、ほどきようのない結びつきも持っている。そのために、俺はこの仕事をやっているのだ。
 現在の生活を思う。いいと思う。うまくいっている。
 幸せな一般人が見れば、破天荒で最低な生活だろうが、俺は救われている。最愛の人も、大切な存在も、悪友みたいな親友もいる。幸せな一般人では持つヒマもない、必要な存在に満ち足りている。お互いに必要とする存在があれば、どうにかなることも俺は知っている。
 俺は誰にも必要とされなかった。必要としてくれるはずの人間に、粗末にあつかわれてきた。
 ずっと分からなかった。自分がここにいていいのか。消えてしまったほうがいいのではないか。不安だった。
 長いこと暗い地底で眠っていた俺は、やっと地上に這い上がってきている。十年以上かけ、ようやくひび割れた心をなめらかにやわらげてきている。
 夢を見ていた。あれは悪夢だった。恐怖と不安と疼痛を煮つめて食わせる夢魔は、もう死んだ。悪夢ははじけて消えたのだ。
 そして俺は、こうして、こころよい光に包まれている。

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