うたたね-4

弓弦

 自分を咲わせたそいつに、俺は徐々に心を開いていく。奴は弓弦と名乗った。のちに俺の悪友となるあいつだったわけだ。ちなみにタメだった。
 弓弦といると、俺は普通のガキになれた。くだらないことに笑い転げ、かと思えば深刻な悩みを相談しあい、その悩みをコケにして開き直れる。弓弦に出逢っていなければ、俺はいまだに陰気野郎だっただろう。
 弓弦の家庭環境は複雑だった。父親が娘──弓弦の妹を殺して服役中なのは、本当だった。妹を生んで蒸発した母親にも、昔は暴力を振るわれていたそうだ。母親が自分を虐待したのは嫉妬かもしれないと、弓弦は言う。
「俺ってわりと美形じゃん。ガキの頃、親父に悪戯されてたんだよな。それが母親に見つかってさ。あんな男のどこがいいんだかね。父親とは深くなってないよ。それを抵抗したんで、ぶん殴るのに変わったんだ。金玉蹴ってやったんだぜ」
 父親は監獄、母親は蒸発、妹は死亡の弓弦は、親戚に引き取られて暮らしていた。そこは、かなり弓弦を憐れんだ。自分が傷ついているとは思わない弓弦は、そういう同情をひどく嫌っていた。
 とはいえ、本当に深い傷を負っているのは、弓弦のような人間だと俺は思う。自分の傷がくだらないと悟ってしまい、「私は傷ついている」なんて恥ずかしくて言えなくなる。
 傷が病気になるのは、「私は傷ついています」──その言葉が、他者にうぬぼれに聞こえると認めた瞬間だ。心の傷と被害妄想は紙一重だ。それを知った人間の傷口は、底無し沼ではなくなっても、深いどんづまりになる。
 弓弦は、小学生のときから、公園のベンチやコンビニの前で夜を明かしていた。やがて、俺もそれに合流する。家に帰りたくないのは同じだった。
 小学校卒業まで、弓弦とつるんで悪さをしまくった。学校をサボって漫画や食べ物を万引きし、歩道橋や高架下でそれをあさる。
 小学生ふたり組が幅をきかせ、その手の中坊にも目をつけられた。これも弓弦に助けられた。弓弦は身を守るために喧嘩を心得ていて、俺はそれを教えこまれた。攻撃はそこそこでも、防御にかけては俺も弓弦を実践を積んできたわけで、どさくさで逃亡するのが得意だった。そのうち、弓弦の要領の良さで、年上連中にも容認されるようになった。
 弓弦といれば、ずいぶん心が楽になった。しかし、親の虐待はなくなっていなかった。野宿しても、何日かすれば着替えなどで帰らざるを得なくなる。そこに父親がいると、もはや理由もなく殴られた。
 何をしていたか、どこにいたか、誰かといたのか。口汚く詰問されても、口は割らなかった。自己を持ちはじめた俺を、父親は手ひどく罵った。思い上がりだと、そんな身分かと、お前はどうせクズだと。
 そんなのは認めている。俺は自分がクズだと受け入れることで、自己肯定にひるがえったのだ。
 母親の軆にも、痣ができるようになっていた。俺の留守中、身代わりにされていたのだろう。母親は我が身で俺の苦しみを理解したりせず、生贄の裏切りを逆怨みした。
 食事はなかったし、服がぼろぼろになっても新しいものはない。冷蔵庫をあさろうとすれば、あんたにやるものはないと追いやられる。侮辱のトゲを投げつけ、顔も見たくない、帰ってくるなと吐きすてる。帰宅した俺が父親に殴られていると、自分に矛先が向かわずに安堵した目をしているくせに。
 俺は、そう心優しくなくなっていた。あんな両親につきあって、いちいち傷つくのが面倒になっていた。あの行為には、心を捧げ、つらいと感じる価値もないのではないか?
 弓弦と歩道橋で車の流れを望み、その疑問を告白してみると、「今頃気づいたんかい」と突っこまれた。俺ははたかれた頭をさすり、「そうだよなあ」と独白した。その息は真っ白で、この冬が明ければ、俺も弓弦も中学生になっているのをしめしていた。
 遊惰にふけっていると、冬が明けて春が来た。俺も弓弦も小学校を卒業し、中学に入学した。俺の両親も学ランはよこした。下手な問題で家庭に光を持ちこまれたくなかったのだろう。中学時代の三年間、結局俺は制服を半年も着なかったけど。
 俺と弓弦は入学早々学校をサボり、そのへんをふらついていた。一般人は躊躇う街にも踏みこみ、そこの空気になじんだりしていた。そんな俺と弓弦は、自覚では“くだらない悪ガキ”だった。周りにとっては、“手のつけられない不良”らしかった。
 小学校時代に不良共には容認されてシメもなかったし、先公には要注意とされ、一般生徒には畏怖された。昔、俺を“変な奴”だと疎外し、陰で嗤った奴にも怯えられるのは妙なものだった。
 廊下を歩いていて、道を開けられたりする。弓弦はそれを眺め、「あいつらのが恐ろしいよなあ」とつぶやく。
「おとなしく席に着いてお勉強って。先公に仮面被るし。負け犬殺人をやるのは、俺たちよっかあいつらだぜ」
「そっちのが生きやすいんだろ」
「楽しくないじゃん」
「いいんじゃないの、あいつらは」
「禁欲的だねえ。俺は楽しくなきゃ人生やってらんないや」
「はは。俺も」
 かくして、俺たちはその日も楽しく早退した。実際のところ、俺たちはそんなにすごいことをやっていたわけではない。不良になろうと燃えていた小学生時代に較べればおとなしいもので、よくぼおっとくだらない話をした。学校に閉塞する奴らの恐ろしさだの、道ゆく人の観察だの、千切れ雲の形容を言い合うこともあった。
 そうした振る舞いはさしおき、弓弦のすさんだ顔立ちの良さは完成度を高めていた。反して俺の顔はかわいくて、環境も手伝って華奢だったし、痣がなければ白皙だった。生まれつき色素の薄いくせ毛もしている。愛らしい美少年、とは弓弦の弁だ。まあ、不細工に較べればマシだと開き直っている。
 俺は中学に入っても、恋愛方面には疎かった。そのしばらくのあいだに、弓弦は開花した。中学生になった直後、十三にもならないうちに弓弦は童貞を喪失した。
 初夏の涼しい夜だった。深夜のコンビニの前でそれを告白された俺は、素直にぽかんとした。ホットドッグをかじる弓弦は、俺のうぶな反応ににやにやした。
「ショック?」
「えっ」
「お前、そういうのにぶそうだよな」
 俺は、頬を熱くしてハンバーガーに食らいついた。
 図星だった。俺は女や性へ欲望を巡らす余裕がまだない。
「好きな奴、作りゃいいのに」
「弓弦は、その女、好きなわけ」
「収穫だよ。その人、ヒモつきだし。俺の先生になりたかったんだと」
「いいのかよ、それで」
「俺はいいと思った」
「ふうん」
 すげない俺の反応に、弓弦は失笑した。「何だよ」と睨むと、背後のコンビニの明かりの中で弓弦は笑いを噛む。
「俺のダチだなあ、と」
「何で」
「こういうとき、どんなだったか聞きたがらないか」
「聞いてどうするんだよ」
「ズリネタにでもするんですかね」
「いらねえよ、そんなの」
 弓弦は笑い、「結構結構」とホットドッグを食べた。俺はピクルスに顔を顰める。
 女。俺は恋愛に乗り気になれかった。あんな家庭を見つめつづけて、どうやって愛だの何だのを信じればいいのだろう。
「弓弦は、好きな女っていんの」
「ん。いないよ」
「作りたい?」
「まあな。お前は」
「自信ないかも」
「お前に惚れる女はいると思うけどな。弓弦様のダチだぜ」
 俺は笑ったあと、弓弦を盗み見る。弓弦は顔もいいし、気風もいい。こいつにだって、惚れる女は大勢いそうだ。口にすると、「そんなん分かってるよ」と弓弦は悪戯に昂ぶった台詞を吐いた。
 そんなふうに、弓弦は性経験を広げていった。深めていった、ではない。弓弦は特定の相手を作らず、いろんな人間と寝た。男とも寝ると聞かされたときには、煙草を吸っていた俺は咳きこんでしまった。その反応をからからと笑う弓弦を睨みもせず、俺は眉を寄せる。
「男って、マジ」
「マジだよ」
「お前、男だろ」
「男が男と寝て悪いか」
「悪かないけど」
 いささか建前を吐いて、運動場を展望した。学校の屋上だった。空は梅雨入り前の晴天だ。
「やだねえ。お前、そっちに偏見あんの」
「つうか、お前、女とも寝なかったか」
「寝るね」
「どっちかにしろよ」
「俺はどっちでもいいんだよ」
「………、両刀」
「そお」
「知らなかった」
「俺も知らなかった」
「何なんだよ。よくさらっとやれたな」
「なあ。俺もビビっちゃったよ」
「何で」
 弓弦は俺を一瞥し、軆を返した。金網に背をあて、煙草をふかす。
「俺、親父に悪戯されてたって話しただろ」
「あ──」
「虐待とも呼べないぐらいの、ちょこっとした奴だったけどさ。この軆で男が勃起したら、怖いかなって」
 眇目をした俺は、「怖くなかったわけ」と訊く。弓弦はうなずいた。
「取り越し苦労でした」
 俺も軆を返し、金網にもたれた。煙草の匂いが散った。暖められていく大気の中で、通り抜ける風は冷たい。
「俺がどっちとも寝るのって、惹かれるものに域はないとか、美しい考え持ってんじゃないよ。いろんな奴と接したいんだ」
 弓弦の横顔を見る。弓弦の端正な顔立ちは、影が射すとぞっとしそうに秀麗だ。弓弦は煙草をはじき、コンクリートに爪先でにじった。
「何かあったのか」
 弓弦は俺を向いた。俺は無表情でいる。弓弦は仏頂面になり、ため息をついた。
「別に。自己嫌悪になってんの」
「自己嫌悪」
「何だろ、俺はそばにいてくれる誰かを見つけたくていろんな奴と関係してる。でも、こんなやり方は失敗が増えるだけ虚しくなるよな。何してんだろって」
「お前に言い寄る奴、いるんじゃないの」
「相手に想われたって、俺には違うんだよ」
「俺は、いると思うけどな」
「え」
「お前のそばにいる奴」
「………、そうかな」
「俺のダチだろ」
 俺たちは顔を合わせた。先に弓弦が笑い出し、俺も笑って、ついでとどこおった空気も分散する。
「だいたいさ、十二で見通し暗くさせてどうすんだよ」
「はは。そだな」
「そのうち逢えるよ」
「うん」
「お前ならね」
「そうしときますか」
 普段の調子に戻った弓弦に、俺の照れ臭さも報われた。煙草に口をつける俺を、弓弦は見つめてくる。「何?」と目をやると、「とりあえずお前はいるよな」と弓弦はにっとした。
 そうやってのんきにやっていると、初夏が過ぎてじめじめした梅雨が来た。
 俺はほとんど家に帰らなくなっていた。遊びにいく店でつぶれたり、天気がよければ弓弦と野宿したり、弓弦にお小遣いを恵むおねえさんの部屋に弓弦と泊めてもらったり。ちっとも帰らなかったわけではなくても、一週間に一度、帰るか帰らないかだった。
 俺の軆からは痣が減りはじめ、弓弦は俺を雪の美少年とか呼んだ。
 実際、俺はふらつく界隈やぼおっとする店で、よく声をかけられた。曖昧に咲って、かわしていた。孤独に固執していたわけではない。恋愛してもよかった。ただ、まず軆を開く恋愛がどうしても怖かった。
 触れられただけで震駭を起こしていた時期もあるのだ。俺の傷口は、すっかり軆で始める恋愛を拒絶していた。そのへんは弓弦も察していたようで、サシで話すときには童貞とからかっても、俺がナンパされたりするとかばってくれた。
 そんなふうに身体的にも恋愛に支障があり、俺の恋愛への希望はますます遠のいた。先に恋人ができるのは弓弦だろうと勝手に予想していた。
 見事に外れた。梅雨が明けて夏が始まった直後、俺は水香に出逢う。

第五章へ

error: