うたたね-5

水香

 その日、弓弦は腰の疲労という情けない理由で床に伏せっていた。
 弓弦がいなければヒマな俺は、つい学校に行ってしまった。授業中も席に腰かけてぼんやりしている俺に、教師は訝しそうにし、同級生は怯えた。宇宙語の勉強に嫌気がさしたり、まずい給食は遠慮したり、たまにふらりと消えつつも、一応、六時間目まで教室にいた。
 ふたり揃っていないところ、しかもいかにも荒んだ弓弦でなく、一見かわいらしい俺であることに勇気が奮えたのか、生活指導の先公が放課後に呼び出しを食らわせてきた。無視して帰る予定は、わざわざ教室までお迎えされて狂った。俺は否応なしに、肥満の腕に生徒指導室へ引きずっていかれた。
 蝉が鳴いていた。汗が滲む季節だった。堅苦しい制服が気持ち悪く、すれ違う生徒もペットボトルをラッパ飲みしたり、下敷きをひるがえしたりしている。
 俺の腰のない柔らかな髪も、汗に濡れて額に貼りつく。鬱陶しくかきあげていると、引きこもった場所の生徒指導室に連れこまれた。狭い部屋を密室にされ、そこは息がつまりそうに蒸し暑くなった。
 いまさら何をどう言い始めるのかと思っていたら、ただの長くくだらない説教だった。アホらしさに聞き流していた俺は、頃合いを見計らってうなだれた。先公は俺の肩を叩き、「反省したな」と放免を言い渡す。廊下に出てドアを閉めてから、やってられねえな、と内心ひとりごちた。
 とっとと帰ろうとして、靴箱で立ち止まった。お迎えをされたおかげで、デイパックが教室に置きっぱなしだ。あれには借りている漫画とかも入っている。舌打ちした俺は、教室のある三階に足を向けた。
 暑さに第二ボタンまで外して、手のひらで自分をあおぐ。どこの窓も閉まっていて、風も抜けずにむっとしていた。普段は軽装で涼しい場所に入り浸っているだけに耐えがたい。
 デイパックを取ったら、冷房が効いた弓弦のいるモーテルに帰ろう。そういえば、腰は治ったのだろうか。一応心配していると、三階に着いていた。
 廊下を抜けて教室に到着したところで、間抜けにも気づいた。鍵だ。教室にも生意気に鍵がある。とっさに顰め面になり、蹴り開けてしまいたい衝動に駆られたが、ドアはアルミ製だ。八つ当たりしても、こちらの爪先が泣くのがオチだった。
 閉まってるよなあ、と浅はかな望みで手をかけて、息を飲んだ。ドアは動いた。開いている。ラッキー、と滑らせた三センチを広げようとしたとき、がたん、という不穏な音が教室に響いた。
 訝った俺は、ひょいと三センチの隙間から中を窺う。途端、表情が消えて硬直した。
 窓際の後ろの席に、何人かの生徒がいた。制服を着た男ふたりと、制服の女ひとり──男たちは、嫌がる女をつくえに抑えこんでいる。男が陰になっていても、女が男に抵抗しているのは明らかだ。口を抑えられているのか、女の低い唸り声がする。
 男のひとりが女の腕をひねりあげて完全に抑えこむと、もうひとりが紺色のプリーツスカートの中に手をさしこんだ。女が暴れた。つくえを流れた髪が、陸に上がった魚のように激しく跳ねた。
 抑えこむ男の手が、無闇に胸をまさぐっている。女の下着を放り投げた男は、スラックスのファスナーを下ろして軽く股間をこすった。抑えこむほうが女をつくえに突っ伏させる。手淫する男は女のスカートをたくしあげ、いきなり犯した。
 女がうめいた。自分の欲望のみむさぼる男の腰遣いはがさつだった。もうひとりが女の上半身の服を剥がし、ブラジャーのフックも外す。服は床のゴミになる。犯す男がうめいた。もういったらしい。男ふたりが目配せしあい、役目が入れ替わる。
 女は脚を広げられた。差しこんでいる夏の日影に、その真っ白な内腿を流れる粘液が艶めいた。白濁の精液と、何か、赤い──
 はっと覚醒した。現実に戻った。戻ったら、がつんと混乱が生じた。
 これは何だ。レイプという奴か。三人ともここの生徒みたいだ。男ふたりで女ひとりとは卑怯だ──というか、まわしだ。学校でやるかよ、と焦るあまり変なことを思う。
 正義感というより条件反射だった。ドアを開けようとした。そのとき、抑える男の手がすべりでもしたのか、女の声が教室を引き裂いた。
「やめてよっ」
 鋭い声だった。その声になぜか俺はびくんとこわばった。
「何でこんなのするの、離してっ」
 喉が冷たくなり、呼吸が苦しくなる。
「ひどいよ、やめて、ねえっ」
 こめかみがきしんだ。
『痛いよ』
 眼前がざらついてまごつく。
『やめて』
 振りはらおうとした。思い出してどうする。思い出してもしょうがない。思い出したくない!
『何で』
「離してよっ。ねえやめてっ、」
『何で、おとうさんは僕にこんなこと──
 瞬間、吐きそうなめまいを覚えた。後退って口を抑えた。頭ががんがんする。鳴り響く鈍痛が、気味が悪いくらいあの拳に似ている。
 右手にトイレがあるのを見つけ、そこに走った。学校のトイレ特有の悪臭がした。鏡が並んだ手洗い場に上体を折り、俺は一気に胃物を戻した。
 びちゃっと不愉快な音が散った。歪んだ臭いが顔面に当たった。喉をこじあけられた不快感に咳きこむ。口の中にこびりついた汚物も、唾に絡めて吐いた。
 息が荒くなっている。目は視覚が途切れ、息遣いが耳鳴りになる。唇を舐めた。
 何となく、正面の鏡を向いた。情けない顔があった。泣きそうな瞳を、口が嗤っている。
 脚の力が抜けそうになり、タイルに手をついた。首を垂れる。鈍痛の名残がうなじでじんじんしている。
 冷笑がもれた。ださい。ひどすぎる。何だよ、これ。俺はまだあの記憶を逃げ切れていないのか。
 忘れたと思っていた。ぜんぜんダメだ。錯覚にマジになって、ゲロ吐いて。最悪だ。何にも変わっていない。胸に棲みつくものに、俺はいまだに聖域を踏み荒らされている。
 睫毛を伏せた。みじめだった。立ち直れたと思っていたぶん、みじめだった。弱すぎる自分がやりきれなかった。まぶたが水分でふくらむのが感じられ、手の甲でこする。
 だいぶ、そこでそうしていた。ゲロが臭い立ちはじめていた。片づけないと、とは思っても、何でどうすればいいのか分からない。放っていっちまおうか、と投げやりになろうとしたとき、ぱた、と背後で足音がした。
 はっと振り返る。そこには、いつのまにか制服すがたのすらりとした女生徒が立っていた。
 彼女は心持ち吊った目で、面食らう俺を睨みつけている。丁寧ではなくても、魅力的な顔立ちだった。ストレートのセミロングが肩に届いている。その艶やかな髪が魚のように跳ねていたのを思い出し、彼女がさっき犯されていた女だと悟った。
 口元をぬぐう。私情で逃げたのが引け目になり、うつむいた。拍子、左頬に破裂音が飛んだ。引っぱたかれたと理解するのに、三秒かかった。
「な、」
「止められないなら、黙ってとっととどっか行けよ」
 瑞々しい唇の汚い言葉に口ごもった。殴られた頬に触った。発熱していた。怪力、と思った。
「何でこんなとこで、めそめそ泣いてんだよ」
 彼女の強い瞳に負けてうなだれた。小さく謝っていた。
 いろいろ、情けなかった。記憶に喪心したのも、暴かれた弱さも、彼女を放ったのも。
 お前はろくなものになれない。蘇生した父親の台詞が俺の精神にとどめを刺した。肩が震え、そのまま涙をこぼした。彼女が息をつめたのが聞こえたが、構わなかった。
 彼女の踏み出した足が覗けた。「ごめん」と聞こえた。
「八つ当たりだった。関係ないんだもんね」
 目を上げた。彼女がすぐそばにいた。思わず後退った。人の気配が怖かった。
 弓弦に会ったほうがよさそうだ。あいつに揶揄われて、こんなのは笑い飛ばさなけばならない。しかし、心が這いつくばって足を動かす気力もない。
 立ち尽くす俺を見兼ね、彼女はトイレの奥のほうに行った。俺はかろうじて首を曲げた。彼女はモップを持ってくる。「これで掃除するの」と彼女は言った。
「どうせ、あんたは知らないでしょ。掃除なんてしないもんね」
「………、俺を知ってるのか」
「同じクラスなんだけど」
 そういえば、彼女は俺が忘れ物を取りにいった教室にいたのだった。
「そうじゃなくても、知らない人、いないよ」
 俺はこの学校では、“手のつけられない不良”でもあった。知られているとなると、やっと恥ずかしくなってきた。
 唇を噛んで顔を上げる。彼女は手洗い場にモップをはめ、俺のゲロを片している。
「俺がやるよ」
「いいの。泣いとけば」
「泣いてねえよ」
 彼女は俺をかえりみて、ちょっと咲った。美人だ、と思った。美少女ではなく、美人だ。
 彼女は、モップと水道を駆使して要領よく俺のゲロを片づけていく。手洗い場が綺麗になると、彼女は「よし」とつぶやいて、洗った掃除用具をしまった。俺は涙やゲロをぬぐった手を素早く水道で洗った。
 スラックスで手を拭いていると、彼女が帰ってくる。俺たちは視線を合わせた。
 考えれば、女とふたりきりなんて生まれて初めてだ。意識すると、変にどぎまぎしてきた。俺は視線を下げて、「忘れ物が」とぼそりとする。彼女が首をかしげると、髪が肩を波打つ。
「教室に、忘れ物があって」
「忘れ物」
「取りにいったんだ」
「ふうん」
「行っていい?」
「あたしに断ることでもないんじゃない?」と彼女は肩をすくめた。まあ、そうか。俺はトイレを出る。彼女はついてきた。「何?」と訊くと、「一生トイレにいろっていうの」と切り返される。口が達者な奴みたいだ。
 教室に行った。誰もいなくて、鍵はかかっていなかった。「あたしが日直だったの」と彼女は指に絡めた鍵を見せる。「っそ」と俺は隅にやられる自分の席に行き、フックにかけていたデイパックを取る。
 彼女は教壇の隣のつくえに腰かけ、かすかに睫毛を伏せていた。外は明るく、陽射しが教室に満ちている。その白光で、俺は彼女の紺のスカートに血がついているのに気づいた。
 肩紐を右肩にかけ、俺は彼女のかたわらに行った。彼女は上目をした。少し弱い瞳をしていた。よく分からなかった。口が自然と発していた。
「このあと、ヒマ?」
 そうして、俺と彼女は始まった。彼女は水香という名前だった。彼女は俺にとって、永遠にたったひとりの女になっていく。

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