アイコトバ

 俺と実菜みなは、生まれたときから同じマンションに住む幼なじみで、幼稚園も小学校もそのあともずっと一緒だった。
 大学生になるとき、俺がひとり暮らしを始めるためにマンションを出ることになると、その話を聞いた実菜は涙目でじっと俺を見つめてきた。正直、二十年近いつきあいでいまさらかと迷っていたけど、俺は実菜とふたりきりになってから、子供の頃から好きだったと伝えた。
 涙目から一転、きょとんと俺を見つめた実菜に、俺は明日から入居する部屋の鍵を握らせた。
「いつでも、会いにきていいから」
「……こーちゃん」
「会いにきたければな。まあ、万が一に備えて持っておいてほしいし」
「会いにいってもいいの?」
「うん」
「ごはんとか作りにいくのもいいの?」
「はは、作ってくれるなら」
「私、こーちゃんの彼女になってもいいの?」
 俺は実菜を見た。栗色のボブカット。寂しがりでうさぎみたいな瞳。なめらかな頬やふっくらした唇。ボリュームはあんまりないけど、すらりとしたスタイル。
 俺は実菜の肩を抱き寄せると、「彼女になって」と優しく耳元でささやいた。途端、実菜は頬をじわりと染めて、「私もずっとこーちゃんが好きだったよ」と言った。
 俺は実菜を覗きこんで、そっと桃色の唇にキスをした。
 俺と実菜はようやく恋人同士になって、家族にも友達にも「やっとか!」と笑われつつ祝福された。大学の四年間、実菜はしょっちゅう俺の部屋に来て、ときには泊まっていったりもした。大学卒業が決まって、内定が取れた会社に勤めはじめると、自然と「一緒に暮らす?」と実菜に訊いていた。
 彼女はまばたきをして、「それってプロポーズ?」となぜかむくれる。
「え、まあ……似たようなもの、かも?」
「プロポーズはもっとロマンチックにしてほしかったなー」
「じゃあ、プロポーズはもっと収入安定してからさせてくれ」
「プロポーズじゃないの? どっち?」
「プロポーズ前提に同棲しないかという話です」
 実菜はロールキャベツを頬張り、もぐもぐとしつつ少し考え、「ここに暮らすの?」と訊いてくる。
「ふたりでワンルームは無理だろ。引っ越すよ」
「お金あるの?」
「大学のときのバイト代、何のために貯めてたと思ってんだ」
「……同棲かあ」
 ミニテーブルをはさんで正面にいる実菜をちらりとして、「気が進まなければ」と遠慮すると、「そうじゃなくて」と実菜は慌てたように言う。
「私、あんまり出せるお金ってないよ?」
「イラストレーターならそんなもんだろ」
「いいの? こーちゃんにばっかり負担かけちゃう」
「いいよ。俺、実菜が昔からお絵描き好きなのも、知ってるし。てか、俺の収入で生活するほうが、絵に集中できるだろ」
「……甘えてないかなあ」
「彼氏には甘えとけ」
 栗色の頭にぽすっと手を置くと、実菜は俺をじっと見たのち、「じゃあ、一緒に暮らそうか」と照れ咲いしつつ言った。俺はそれに咲い返すと、「一応、家族にも許可もらわないとな」と言って、コンソメ味のロールキャベツにかぶりついた。
 実菜と同棲を始めたのは、そんな会話から約三ヵ月後の九月末だった。その日の夜はふたりで、クリスマスでもないのになぜかケーキとチキンを買いこんで、お祝いした。
 そして、それから二年は平穏に過ごした。
 二十五歳になった冬の忘年会で、俺は春から面倒を見ていた部下の女の子に告白された。
 実菜以外の女の子に「好き」なんて言われたことなかった俺は、動揺してしまいつつ、彼女いるから、と言おうとした。でも、その前に、深淵みぶちというその子は「もし先輩に彼女さんがいるなら、今言ったことは忘れてください」とうつむいた。
 黒い艶やかな髪がさらりとこぼれ、震える長い睫毛を隠す。
 何でだろう。ここで彼女がいると言ったら、深淵を失ってしまうのだと思い、それは何だか嫌だった。気づくと俺は「彼女はいないけど」と口走っていて、深淵はこちらを見た。
「じゃあ、連絡先……交換してもらえますか」
 俺と深淵は、仕事用に交換していたメールでなく、トークアプリでつながって連絡を取り合うようになった。
「彼女はいない」と言っただけで、俺の気持ちは実菜から離れたわけではなかった。深淵とラリーのようなメッセ交換はしなかったし、けっこう既読スルーもした。
 それでも、深淵は俺に懲りることなくメッセをくれる。ただ、それを実菜に見られないように、俺は面倒で設定していなかったスマホの画面ロックはかけるようになった。
 深淵から『食事に行きませんか』と来ても、俺は『うん、今度行こうな』とはぐらかして、結局行くことはしない。もちろん俺から、いつが空いているかを伝えて誘うこともない。だから、俺と深淵はこれといった関係になることはなく、当たり障りないメル友みたいだった。
 職場で顔を合わせてはいても、そこで特別親しくすることもない。何か、別にそばに引き留めておく必要なんてなかったかも。こないだ彼女ができたとか軽く嘘をついて、もう離れてしまってもいいかもしれない。実菜に下手に勘繰られはじめるのも嫌だし──
 よし、とりあえず深淵を明日ランチに誘って、そこで適当に話して、あきらめてもらおう。
 そう決めて、俺は帰宅ラッシュに揉まれる電車で、深淵にメッセを送信した。
『嬉しいです。食事に誘うの迷惑なのかなって思ってました。』
 そんな深淵の返事に、ピュアな子だよなあ、なんてぼんやり思った。
 でも俺は、ちょっとわがままなところもあるくらいの実菜がやっぱり好きだ。実菜にプロポーズすることも、そろそろまじめに考えなくてはならない。
 どうこうなっていない今のうちに、深淵には俺にパートナーがいることは言っておかなくてはならないのだろう。
「こーちゃん、おかえり。ごはんもう少しでできるから、お風呂入ってて」
 俺が帰宅すると、実菜がそう言って出迎えてくれる。「手伝わなくていい?」と問うと、「こーちゃんは疲れてるでしょ」と実菜は笑って俺の背中を浴室へと押す。俺は素直にネクタイを緩めて、湯も沸いている風呂に入った。
 その後、ポークピカタとバターライス、ポタージュスープの夕食を食べて、作業する実菜の隣でテレビを眺めて、零時前に俺は先に寝室に入った。スマホの目覚ましを確認すると、すでにうとうとしていたのですぐに眠ってしまった。
「……違う、──これも」
 熟睡に落ちて、どれぐらい経っただろうか。
「何? 分かんない……」
 そんな小さなつぶやきが聞こえて、俺は眉を寄せて薄目を開いた。
「あと、試してない四桁は……」
 浅い視界の中にいたのは、ベッドサイドに腰かける実菜だった。どうした、と声をかけようとして、無造作に時間を確かめようとした右手に、スマホが触れなくてどきっとした。
 そちらに目を向けると、寝る前あったはずのスマホがそこにない。
 いや、待て。
 今、確かに実菜の声で聞こえた。
“四桁”。
 ……まさか、暗証番号?
 何やってんだよ、と起き上がりたくても、俺はそうできずにただ息をすくめた。俺のスマホを握っているであろう実菜に、もし「やましくないなら暗証番号を教えて」と言われて、深淵とのメッセを見られたら気まずい。
 この子がこーちゃんに気があるの分かるでしょ、と実菜ならきっとそういうのを見抜いてしまう気がする。そして、俺が自分に気がある子とメッセを交換していて、しかも明日、ランチとはいえ食事に誘っているのを見たら、実菜は──
 だから俺はあえて寝たふりを押し通した。実菜だって、暗証番号を知ろうとしていることを俺に打ち明け、探ろうとはしてこないだろう。
 しかし、うわごとのような実菜の声がこびりついて、心の中がぞっと蒼ざめていった。
 実菜はいつから俺のスマホをチェックしてるんだ? 最近か? 画面ロックをかけて? いや、もしかしたらその前か?
 何でそんなことするんだよ。
 俺が信じられない?
 スマホの中身が見れるから俺を信じていた?
 じゃあ、スマホをチェックできない今、実菜は俺のこと──
「いってらっしゃい、こーちゃん。今日もお仕事頑張れ」
 翌朝、実菜の様子に変わりはなくて、そう言って微笑んで俺に手を振った。俺はその笑顔を見つめそうになったものの、「うん」とこちらも平静を装い、「いってきます」と部屋を出た。
 実菜のことが好きだった。ずっと好きだった。子供の頃から、実菜のことだけが好きだった。
 二十五年間、そうだったのに、今は実菜が怖くてたまらない。
 百年の恋も冷めるって言うけど、そんな感じだ。実菜に恋して、百年のうち四分の一しかまだ経っていないけど、生まれたときから一緒で、幼稚園のときから当たり前のように恋心を抱いてきた。俺にはもう、実菜を愛してとっくに百年経っているような感じがする。
 そんな恋さえ、こんなにも、あっさり冷めていくのだ。
 彼女に信じてもらえていない、と知っただけで。
 桜が綻びはじめる春先の柔らかく晴れた空を、さえずりながら鳥が横切っていく。
 彼女いるんだ、と深淵に言わないと。言って、そして、実菜の行動を相談しよう。その先で、俺はもしかして深淵を選んだりするのだろうか?
 分からない。だけど、ただ、今は俺も実菜の笑顔が信じられない。

 FIN

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