うたたね-10

妊娠

 寒い夜の公園だった。
 弓弦は仕事をうまくいかせるかたわら、 “誰か”を探すのもやめていない。昔のようにいつもつるんでいるということはなくなっていた。
 俺は仕事もしていなくて、どちらかといえば貧乏寄りだった。モーテルに泊まる金もなかったし、俺と水香は持ち歩く毛布と服越しの体温を分け合って、そのへんで夜を越していた。その日もそうだった。
 俺と水香は昼夜が反転していて、そのときは寝起きだった。毛布には体温が染みこんで、寒い外に出るのが億劫だった。草むらに縮んで毛布に隠れこむ。
 一晩じゅうはこうしていられない。夜になるとここを縄張りにした野良犬、浮浪者、変質者が現れてつついてくる。空の色で時間を測った。十九時にはなっていないだろう。しばらくは、ぬくぬくしていてもよさそうだ。
 水香は起きていて、眠りの発熱を目覚めで冷ましてしまっていた。「寒い」と俺に軆を寄せてくる。これが夏だったら、服の薄さが災いしていそうだが、冬で厚着だったので柔らかい軆を生身で感じなくてよかった。抱きしめると、水香は俺の腕におさまる。
 その日、何でそうなったのかは俺にも分からない。水香のコインシャワーで洗われた髪の匂いだったのかもしれないし、ぶあついトレーナーに包まれている肌だったのか、俺の服を暖める彼女の吐息だったのかもしれない。それとも、ようやく溶けた心を軆が感知したか──水香を抱きしめて、俺はちょっと勃起した。
 自覚したら、慌てて腰を引いた。水香は興味深そうな上目遣いをしてきた。気づかれたらしい。俺は外気に逆らって頬を熱くさせた。「ごめん」と言うと、水香は一考し、俺に抱きついてきた。
「何だよ、バカ──」
「したいの?」
「えっ」
「あたしとしたい?」
 口ごもった。答えがつかめなかった。素直に、なっていいのだろうか。
「お前──が、怖い、だろ」
 水香は暗がりを縫って、俺を見つめた。
「優しいね」
「………、褒めてんの」
「バカにしてんだよ」
 水香と見つめあう。俺の股間は落ち着いていない。水香のため息が白く空中に流れていった。俺は恐る恐る、その呼吸を唇で塞いだ。
 そこまでしたら、あとは本能だった。口づけは舌を絡め合う欲深いものになった。この冷気で服を脱ぐのははばかられて、俺は服に手を突っこんで彼女の肌に触れる。水香の軆は、かたちは女として熟しているほうだった。
 水香が怯えに取りつかれていないか、確かめながら進む。水香は思ったよりも俺を許容した。水香の体内に入りこむと、自慰とは較べものにならない濡れた快感があった。恐怖や拒否には邪魔されず、俺も水香も夢中で絶頂に達した。
 そうして一回やって免疫ができれば、こっちのものだった。俺と水香の日常にはセックスが組みこまれた。俺の金欠もあって外でやるのがほとんどでも、たまに室内でもやった。どこかのトイレとか、弓弦の部屋とか。「人んちでやるな」と弓弦は俺をはたいてきたけれど、本気ではなさそうだった。
 弓弦はいろいろ聞き出そうとはせず、俺が誰かに軆を許せたという事実に単純に安心してくれたようだった。そんな弓弦の心理について、水香は変わらず「恋人同士みたい」と言う。そこで俺は「弓弦にはこんなことしないぜ」と彼女に口づける機会を得る。
 俺と水香は初めてやったときの快感が身について、コンドームをつけなかった。ゴムでじかの熱を妨げるのがどうもバカらしかった。頻繁とは言わなくても、冬のあいだ、けっこう俺と水香はもつれあった。
 寒さの底に滲み出ていた暖かさが芽吹き、春がやってくる。その快適な気候が初夏になると、陰鬱な梅雨が来る。雨の合間に街を歩いていたとき、水香は俺の服を引っ張って耳打ちしてきた。
「どうしよう。生理来ないの」
 街の喧騒に紛れそうであっても、俺はその台詞を聞き取れた。夕暮れと灯りはじめているネオンで水香の顔を見る。彼女に冗談を言っているふうはなかった。生理が来ない。それがいったいどういうことなのかは、俺だって知っている。
「やばいよ」
「まあ、うん」
「うんじゃないって。どうしよう」
 水香は泣きそうだった。俺は妙に冷静だった。自分で孕んでいるわけではない、男の薄情さだろうか。それだけでもない気がした。男にも責任はある。俺はなぜか、自分がその責任を逃避したいと反射的にも思わなかったのに気づいた。普通、しっかりした大人だって仰天するのに。
 水香が妊娠している。俺の子供を。子供。家族。悲惨だった自分の家庭が暗くよぎり、不安になった。
 その子が生まれたとして、俺は二の舞にしてしまわないだろうか。いや、再現はごめんだ。そう思える。あんな家庭だったからこそ、絶対にああいうふうにはしたくない。俺は俺の子供を虐待なんかしたくない。あんな死ぬような思いはさせたくない。
 俺はその子を守って、愛してみたい。
 焦る水香の細い腰に目を落とす。無意識に育てる方向で考えていることに、俺自身驚いた。俺はやすらげる家庭を求めているのだろうか。あの家は絶望的だった。だとしたら自分で作るしかない。そのチャンスが、今、彼女の中にいる。
「お前、堕ろしたいの?」
「育てられるわけないじゃん」
 あっさり言う。当然、彼女のほうが正しい。俺も水香も十三のガキだ。育てられるわけがない。でも──
「もったいなくない?」
 水香は俺を凝視した。俺はそれを静かに見返した。「本気?」と彼女は言う。
「お前が嫌ならいいけど」
「あたしだって、あんたがよければいいよ」
 再び、見つめあう。水香は俺に決断を任せている。「いいんじゃない」と俺は答えをはじきだした。
「俺は生んでいいよ」
「マジ」
「俺にも責任あるだろ」
「まあ、ね」
「生めよ。働かなきゃいけなくなるけど」
「……うん」
 水香は自分の腹をさすった。「変な感じ」とつぶやいている。俺は水香の手を引いて街を進んだ。水香は顔を上げる。
「出生届とかいうの、出せないよね」
「うん」
「いいの?」
 俺は水香の手を握り、うなずいた。水香は俺の瞳を見つめ、それ以上は何も言わなかった。俺がきちんとした家庭を欲しがっている望みを、察してくれたみたいだ。
 かくして、俺は男娼になる。弓弦の傘の下、という肩書きは、そうとうの強みだった。素人から転身したにしては、俺は危険な橋を渡らずに金を稼げた。
 弓弦がいろいろ、俺の安全を計らったのもある。弓弦がその苦労を口に出さないので、俺も知らないふりをしているけれど。弓弦の愛想、あるいは凄味が行き渡って、客にも手厚くあつかわれた。世話をしてもらって俺が申し訳なくなっていると、「お前が死んだら俺が困るんだよ」と弓弦はそっぽを向いて煙草をふかした。
 売春とはいっても、ぶちこませておけばいいのは下級の街娼だ。弓弦の斡旋に世話になって、売春をしているお姐さんや男の子に、俺は “入れこみ”をされた。嫌がらせがなかった、といえば嘘になる。しかし、ここで弓弦の名前を出したら、嫌がらせが陰湿になってどつぼだ。儀式みたいなものだろう。ただ気迫を崩さずにしておく。
 実践の前には、弓弦の勧めで男を受け入れられるかどうかの試験もした。二十代後半のどう見ても堅気じゃない男に、奉仕した上でオカマを掘られた。仕事だし、と思うと、やはり抵抗はなかった。そうして、「顧客を取ろうとか考えずに、まずは顔を憶えてもらいなさい」という弓弦の指示に従って、俺はいろんな男に軆をさばくようになった。

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