あたしのママは、何もできない。料理も掃除も洗濯も、仕事だって、もちろんあたしを育てることも。
ゆいつつできることは、パパに愛されるように着飾って若さを取り留め、媚を売ること。
そんなママをパパはいつもベッドでかわいがるけど、ママが眠ってしまったら、一服して帰っていく──奥さんの元に。
朝、目が覚めてパパがやっぱり隣にいないことに、ママは泣き出す。そんなママのことは、パパが派遣している家政婦さんがなだめる。
「旦那様は、美紅ちゃんがいれば七菜さんを手放したりしませんよ」
そう言った家政婦の乃木さんに、ママは顔をあげて、あたしの名前を呼ぶ。おとといママにぶたれた頬を腫らしたままのあたしは、仏頂面で覗いていた寝室に踏みこむ。
「ああ、美紅ごめんね。ママ、また美紅にひどいことしちゃって」
ママはあたしの頬に涙目を向けて、ぎゅっと抱きしめてくる。柔らかい大きな胸に息が苦しくなる。
「美紅はママのそばにいてくれるよね? パパがあの女と別れなくても、美紅がいるよね」
あたしは無言でうなずき、ママにしがみつく。
本当は、中学を卒業したらこの家は出ようと思っている。あたしは今、十三歳だからあと二年。逃げるあては、ママがパパと出逢った高級クラブ。
年齢を偽って雇ってくれることは、お店のママさんに話をつけてある。
「あんたも大変ね」
クラブのママさんは、ときおりお茶をしてくれて、あたしのママの近況を聞いていく。
「あの子は依存的だったからねえ。ランキングがひとつ落ちただけで、落ち目なんだって自殺未遂するような子で。だから、クラブでほかの子と競ってるより、愛人契約して落ち着くほうが向いてるとは思うけど」
あたしはママさんがおごってくれたアイスカフェラテを飲む。
「まあ、あたしは七菜のこと心配だったから。美紅から様子が聞けるのは助かるわ」
あたしはこくんとして、ママさんにカフェラテのお礼を言ったあとに家に帰る。
今日はパパが来ない日なのか、ママはリビングのカウチでぐったりしている。散らかっているのはジャンクフードで、ネグリジェを着替えてもいない。
乃木さんは買い物だろうか。あたしは黙って散らかった食べ物を片づけ、ママの混濁した瞳を一瞥した。また、薬をたくさん飲んだのかもしれない。キッチンでゴミを分けていると、乃木さんがエコバッグを抱えて帰ってきて、「すぐ夕食作るからね」と腕まくりをした。
実質、この人があたしのおかあさんみたいだ。でも、乃木さんにも旦那さんと小学生の息子がいるらしい。
「七菜さん、夕飯できましたけど、食べれますか?」
あたしがダイニングテーブルで、塩からあげと白飯を食べている背後で、乃木さんはママに声をかける。ママはくぐもった声をもらしているだけだ。
乃木さんはしつこく揺り起こさず、ママのぶんはラップをかけて冷蔵庫にしまった。「じゃあ、そろそろ私は帰ろうかな」と乃木さんはエプロンをはずし、「洗い物は明日の朝に洗うから溜めてていいからね」とあたしに微笑んだ。
幼い頃から、そんな生活だった。学校はあんまりまじめに行かず、将来、自分で生きていく道を探すほうがいそがしかった。進学して就職なんて、あたしには無理に思えた。
ママは相変わらずぐったりして、パパが家に来ることになったときだけ生き生きして。この家の家賃も、生活費も、光熱費も、何もかもパパがはらっていて、ママは働くことさえしない。
ママのことが嫌いなわけじゃなかったけれど、人間のクズだなあとは思っていた。
そんなママが死んだのは、あたしが十五歳になった夏だった。薬をいっぱい飲んで、逆流して喉が詰まり、窒息して死んだ。
享年三十五歳。祖父母は健在でも、絶縁していたので葬儀には来なかった。
ぼんやりママの柩の前に立っていると、「美紅」と呼ばれて、あたしは振り返った。そこには、あまりあたしとは話したことのなかったパパがいた。
「夏代ママには聞いてるが、中学を卒業したらあの店で働くのか?」
あたしは無表情のまま、こくりとした。「そうか……」とつぶやいたパパは、「もしよかったら」とあたしを見つめる。
「僕が面倒を見てもいいんだぞ」
あたしは眉を寄せ、首を横に振った。パパはあたしに近づいた。
「七菜を失ったのはつらい。できれば、美紅にはそばにいてほしい」
視線を下げた。そう思うなら、何で奥さんと別れなかったの。パパに選ばれていたら、もしかしてママは──
「それに、七菜は僕の愛人として一生を捧げる契約をしていたから、自殺なんて違反だ」
あたしはパパをじっと見つめる。
「そういうときは、七菜は美紅を差し出すという約束をしていた」
眉を顰めると、パパはあたしの手を取った。
「美紅が僕の愛人になって、契約を継続するんだよ」
あたしは、パパのぶあつい手の中の蒼白い自分の手を見た。そして、ママみたいに人間のクズになれというの? パパに依存して、ひとりでは立ち上がれないあたしになれと?
そんなの──
パパは、スーツのポケットから取り出したカードをあたしに渡した。裏返すと、高級ホテルの名前と部屋番号があった。「今夜ここに来なさい」とパパは言った。
「七菜に教えたことを、美紅にも教えていこう」
そう言って、パパは柩の中のママも確認せずに去っていった。あたしはカードを見つめて、行かなかったらどうなるんだろうと考え、かすかに恐怖を覚えた。
パパが圧力をかければ、夏代ママの店で働くことだって無理だろう。だとしたら、あたしが子供であるうちは、ここはおとなしく従っておくべきなのか。
結局その夜、あたしはホテルでパパに処女を奪われた。たっぷり子宮に射精された。ああ、この男はあたしがママみたいに壊れることは分かってるんだな。だから、また愛人契約を継承させるために、あたしに妊娠させる気なのだろう。あたしは、この男の欲望の歯車なんだ。
パパのシガレットケースから煙草を一本くすねて、それをゆっくふかした。それでも煙たさに咳きこんでしまった。「起きたのか」と一服していたパパが振り返る。
その一本が終わったら、奥さんのところに帰るのだろう。
「あたし、ママの代わりにはならない」
不意にそう言うと、パパはこちらを眺めた。
「ママみたいに、ただ待ってる愛人なんて嫌」
「じゃあ、どうするんだい?」
「パパと結婚してみせる」
パパは意外と柔らかく微笑むと、ベッドサイドに腰かけてあたしを抱き寄せた。「娘にそう言ってもらえるなんて感動だなあ」と言って口づけてくる。絡んだ舌に同じ煙草の味が混ざりあう。
愛人を継続する? そんなのはごめんだ。壊れたりするものか。子供に契約を継がせたりするものか。あたしのお腹にいのちが芽生えても、その子は何も背負わなくていいように、どんな手段を使ってもこの男の妻になる。
そうしたら、子供が生まれても、父親になるこの男はその子に手は出せない。それでも手を出したら、訴えられる場所はある。あたしはしょせん、血がつながった娘なのか分からず、どこにもすがれないから──
パパはあたしをシーツに押し倒して、軆を重ねてくる。あたしはパパの首に腕をまわしてしがみつく。盗み見た寝室で、ママがパパにしていた仕草をたどる。
あたしで終わらせるためだ。この契約が継続しないように──あたしは自分をそっと殺して、奥までつらぬかれるまま、狂おしく喘いだ。
FIN