風切り羽-134

傷ついた鳥

 僕は慌てふためいて、残っている数枚のタオルを取ると部屋に戻った。玄関に直行しようとすると、「どうしたの」と勉強を片づけていた悠紗がびっくりした顔をする。
「タオル飛んでいっちゃった」
「えー。僕も行こっか」
「近くにあると思うし。大丈夫」
「そお。遅かったら見にいくよ」
「うん」
 また飛ばされて、さらに厄介にならないうちに行きたくて、そんな会話もなおざりに僕は鈴城家を出た。エレベーターでなく階段で一階に降り、エントランスを抜けて外に出る。そしてそこで、僕は焦り以上の傷にすくんだ。
 冷たい外気がいっぱいに僕を覆う。ひとりでここを出るのは初めてだ。自覚すると、急に怖くなってきた。どうしよう。悠紗と来たほうがよかったろうか。
 変な人と鉢合わせたら。僕はまだ逆らえない。つかまったらどうする? あんなことはされたくない。されたら立ち直れない。落ち着きかけたところを踏み躙られるなんて、麻痺したところにそうされるより苦しい。
 行きたくない。怖い人がいたら。それどころか、おとうさんに関連する人がいたら。
 嫌だ。僕はもうあんな悪夢には耐えられない。悠紗を呼びにいこうか。いや、聖樹さんならタオル一枚くらい見逃してくれるだろうか。
 恐怖で飛躍した妄想が巡り、果てはタオルのために危険にさらされるのもバカバカしいのでは、と身勝手な保身に行き着きかけたときだ。
 ふと正面に、見下ろしてくる人の気配があるのに気づいた。傷に溺れていた僕は大袈裟なぐらい硬直した。動けなくて後退りもできない。
 変な人だったら。ここの住人かと問われたら。そうですと答えたって、鈴城家の部屋番号は言えない。いや、遊びにきて帰るところだと言おうか。親戚とでも何とでも──。
 瞬間的に思ったところで、しゃかしゃかという聞き憶えのある音が耳に流れこんでくるのに気づく。あれ、と顔を上げた。
 すると、そこにいたのは、宣伝のときに要さんに買ってもらっていた黒い帽子をかぶった梨羽さんだった。
「あ……」
 拍子抜ける僕を見つめる梨羽さんの目は、なぜか赤い。泣いたあとのようだ。
 梨羽さん。何でこんなところにいるのか。帰宅したところだろうか。紫苑さんとの買い出しの帰りとか。しかし、紫苑さんのすがたはない。梨羽さんひとりで行ったのか。もしかしてそれで嫌なことに遭ったのかな、と赤い瞳に思い当たる。
 梨羽さんはリュックを抱きしめ、首をかたむけた。動作の意味を読み取るより、子供っぽいな、と思った。梨羽さんを見上げるかたちを取っていても、年上だと思えない。梨羽さんには年齢が希薄だ。
 梨羽さんは居心地悪そうにリュックを抱き直し、おろおろと身を引く。外に出るのかどうかということのようだ。そこで僕はタオルを思い出し、こっちこそおろおろした。
 どうしよう。怖かったので探しませんでした、ではずるい。洗濯は僕が勝手に始めたことだ。ざっと近くを探し、見つからなかったら悠紗を呼んで、それでダメなら聖樹さんに謝ろう。
 そう決めると、こちらを窺う梨羽さんに僕は顔を上げる。
「あの──」
 聞こえているのか分からなくとも、不安げな梨羽さんに、ここにいる事情は言っておく。
「洗濯物の、タオルが飛ばされちゃったんです。また風が吹かないうちに、探さなきゃいけませんから」
 頭を下げると、梨羽さんのそばをすりぬけた。確か風は右から左に吹いていった。左は道路だ。敷地内を出るのは怖いな、と思いつつ歩き出すと、たたずんでうつむいていた梨羽さんが、いきなり動いてついてきた。
 僕は止まって見返った。梨羽さんも無表情に止まった。
「何ですか」ととまどい気味に訊いても、梨羽さんはだんまりに見返してくるばかりだ。何だろ、と首をかしげて歩き出すと、やはり梨羽さんはついてくる。
 これは、手伝う、ということなのか。もしくは付き添ってくれる、ということか。思い起こせば梨羽さんは、聖樹さんが隅っこで泣いていたところを見つけてすべて察し、“物置きみたいな教室”に引っ張っていったのだっけ。あれに通ずる行動かもしれない。
 事実、僕としてはひとりでうろつくより心強かったので、ここは素直に梨羽さんに甘えることにした。
 道路に白いタオルの影はなかった。また飛ばされちゃったかなあ、と僕は梨羽さんとマンションの周りをうろうろした。梨羽さんがいるおかげで、かえって目立つ、こそこそした動作をせずに済んだ。
 そのあいだにも、何度か風が吹き抜けていった。植えこみなどに来ると、梨羽さんはしゃがんで下を覗いてくれた。マンションをぐるりとして正面に戻ってくると、梨羽さんと顔を合わせた。
「ないですね」と言ったものの、当然梨羽さんは無反応だ。それでちょっと恥ずかしくなりつつ、僕は向こうのマンションの敷地との境にある植木に目を向ける。
 あそこをたどって無かったらあきらめるか、と僕は左右に車がいないかを確認して向こう岸に渡った。梨羽さんもついてきた。風の向きを頼りに左のほうに沿っていったが、白いものはない。
 乾いてて軽かったしな、とあきらめ半分で右に折り返そうとしたとき、突如、梨羽さんがその場にうずくまった。何、と狼狽してそちらを向く。
 一瞬、梨羽さんが原因不明に泣き出すとか鬱に入るとかがよぎった。違った。植えこみの影にいたものに梨羽さんは手を伸ばしていた。それで僕はそこから、鳥の──すずめの鳴き声がしているのに気づく。僕は梨羽さんの隣に身をかがめた。
 果たして、すずめだった。梨羽さんは、さして躊躇もせずすずめを手に包んだ。すずめは最悪を予期したのか暴れるように鳴いた。梨羽さんは構わずにすずめを持ち上げる。片方の羽はばたばたしても、一方がほとんど動いていない。怪我をしているようだ。
 何となく天を仰ぐと、上には電線が通っている。何かあって、あそこから落ちたのだろうか。梨羽さんは、何とか逃れようと暴れる手中のすずめを凝視する。
 そのとき、「萌梨くん」という声が背後に聞こえて振り返った。二階の手前のベランダに、やっと手すりによじのぼった悠紗が顔を出していた。
 僕はまばたきをし、梨羽さんが気になったものの、道路を横切ってベランダの下に駆け寄る。
「どうしたの」
「遅いんだもん。ここなら見えるかなと思って。タオルあった?」
「ううん」
「そっか。あのね、別になくてもいいと思うよ」
「そう、かな」
「やすものだもん」
 安物──ではあるのかもしれないけど。悠紗は梨羽さんのほうに目を向け、「あれ梨羽くんだよね」と言った。僕も梨羽さんを一顧し、「探すのについててくれたんだ」と説く。悠紗は首肯しつつ、「めずらしいね」と述懐もした。
「もうちょっと探してみて、なかったら帰るよ」
「分かった。梨羽くんついてるなら安心だね。僕、洗濯物たたんどくよ。皺になっちゃうし」
「あ、ごめん」
「いいよ。絶対見つけなきゃいけなくはないからね」
 僕がうなずくと、悠紗は笑みを残して手すりを内側に飛び降りた。ガラス戸の閉まる音もすると、僕はしゃがむ梨羽さんを見やる。
 梨羽さんにも見える位置だし、と再度向こう岸に渡った僕は、その足でまっすぐ伸びる植木を右に沿っていった。
 ここでも、白いものは見つからなかった。ダメかあ、とため息をついたとき、また強い風が吹く。その冷気に上着も着てこなかったのを後悔した僕の頭に、何かがばさっとかかった。「ん」とうめいて反射的にそれを取ると、それは白いタオルだった。
 目をみはり、どこから、ときょときょとすると、そういえば三メートル置きほどにすっかりを葉を失くした木が並んでいる。もしかして、これに引っかかっていたのか。下ばかり探してたのに気づき、何となしにばつが悪くなった。
 とりあえずそのタオルをはたき、洗濯したての手触りを確かめる。さっき取りこんだ洗濯物と同じ洗剤の匂いもして、飛ばされたタオルに間違いなさそうだった。
 タオルを握り、僕はうずくまる梨羽さんのところに行った。梨羽さんは、すずめを手に包んで動いていない。
 すずめのほうは、あきらめが生じてきたのかおとなしくなってきている。何だか一瞬、最初は無気力にも抗ってみんなに抵抗するものの、最後にはあきらめに負けて弛緩していた僕がかすめ、何とも言えなくなった。
 梨羽さんは僕を仰ぎ、タオルにも目を留める。「見つかりました」と言うと、梨羽さんはすずめに目を戻した。
 そして、すずめを持って立ち上がると、物言いたげにタオルと僕を見た。どうやら、タオルを貸してほしいらしい。たぶんすずめを包むのだろう。
 僕は迷ったのち、見つからなくてもいいものだし、とさしだした。返してもらって、僕が責任を持って洗えばいい。
 梨羽さんは受け取ると、案の定それで丁重に傷ついたすずめを包んだ。すずめは死の予感に力なく泣いていた。
 ついで、梨羽さんは僕の腕をつかんだ。え、とまごつく僕を引っ張って歩き出した。マンションへ連れこまれ、エレベーターに乗りこむ。梨羽さんは十階しか指定しなかった。二階を押す雰囲気はなく、通りすぎ、僕は動揺する。
 何だろう。梨羽さんの考えていることがつかめない。そもそもこの人の思考をつかめたことなんか一度もない。ただ僕を傷つけることはしないというのしか──。
 僕は梨羽さんを盗み見て、それが分かってればいいか、と息をついて力を抜いた。

第百三十五章へ

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