風切り羽-135

羽をもぐように

 十階の部屋の前に着くと、梨羽さんは僕をつかんでいた手を離して、リュックに突っこんだ。拳銃のキーホルダーにつながれた鍵を取り出し、鍵穴にさしこむ。
 ドアを開けると、梨羽さんは僕を引っ張りこみ、僕は靴を脱いだ。すずめのかよわい鳴き声が痛ましい。
 イジメたりはしないと思うけれど、梨羽さんはいったいすずめをどうするつもりなのだろう。音楽ですずめの悲鳴は聞こえていないのか、スニーカーを脱ぐ梨羽さんの顔は無表情だ。
 廊下を抜けてリビングに行くと、僕は立ちすくみそうになった。部屋は完全に片づいていた。ゴミも雑誌もなく、フローリングが顔を出している。
 生活用品さえ中央のかばんやデイパック付近に集められ、ただ、そうした生活用品や服がかばんに収まらずにまとまっていないのが、かろうじて猶予があるのを悟らせている。
 寂しいのは事実だった。ちっとも雑然としておらず、鈴城家に等しく片づいている。この部屋には、あのぐっちゃりした光景が似合っていた。整頓されたというより、空っぽになったという印象が強い。
 部屋の状況に茫然としたあとで、部屋に誰もいないのも認める。要さんと葉月さんは仕事だろう。紫苑さんは買い出しか。梨羽さんは僕の背後を通り、いつものコンポのそばに行く。
 梨羽さんはめずらしくリュックをおろすと、こちらのほうが面食らうことに、ヘッドホンもはずしてしまった。しゃかしゃか、という音をこぼすヘッドホンはリュックに乗せられ、すずめはそれとは離れたところにそっと置かれる。
 梨羽さんは中央の荷物に歩み寄ってごそごそすると、消毒液やら何やらを持ってきた。そんなのが律儀に荷物に含まれていることと、梨羽さんがすずめを手当てしようとしていることに驚く。
 梨羽さんは動けないすずめのかたわらに座りこみ、立っていても仕方のない僕もひとまずその近くに腰を下ろした。
 梨羽さんはほっそりした手にすずめを持ち上げると、器用にすずめの手当てをした。つばさのつけ根に、羽毛ももがれたえぐれがある。
 すずめとしては、されているのが手当てなどとは知る由もない。傷に染みるものをすりこまれて、一方の羽をばたばたさせて鳴いた。
 優しいのか冷酷なのか、梨羽さんはそれは無視して、手当てに集中している。消毒を終えると細めにちぎった包帯でうまく羽を固定もしてしまった。こちらを威嚇しようと下手に動かし、傷を痛めつけないためだろう。
 そしてタオルの上に置くと、逃げだしたくても逃げだせない感のすずめの背中を、羽の流れに沿って二、三度撫でた。
 ここに危機はないと感知してきたのか、暴れてもおしまいなのは変わりないと観念したのか、すずめは鳴き声を収まらせていった。梨羽さんは立ち上がり、消毒液を片づけたり手を洗ったりした。
 僕はすずめを見つめ、羽なんか傷つけてまた飛べるようになれるのかな、と思っていた。飛べなかったら鳥は非力すぎる気がする。
 戻ってきた梨羽さんは、ヘッドホンが漏らす音もリモコンで消すと、僕の隣に座った。
 僕は梨羽さんを見る。梨羽さんも僕を見る。「大丈夫でしょうか」と僕が言うと、梨羽さんはなおもこちらを見た。
「羽を怪我して、また飛べるでしょうか」
 梨羽さんはすずめに目を落とした。傷の痛みが全身に響くのか、すずめは身動ぎも怖がっている。梨羽さんは僕の質問など忘れたようにすずめに見入り、その沈黙に否応なしに僕の疑問もあやふやになった。
 僕も梨羽さんにならってすずめを見つめ、しばらくそうしていて、沈黙が破れたのは不意だった。
「飛べるよ」
 はっと梨羽さんを向いた。もちろん、僕が言ったのではない。この部屋には、ほかに誰もいない。梨羽さんの声だった。梨羽さんはすずめを瞳孔に飲みこんでいる。
「風切り羽がある」
 意外だった。歌うときの声とぜんぜん違う。先日の錯乱のときの声でもない。これが地声なのか。かぼそくてもろくて、変なものだけど、別の意味で歌うような声だ。
「かざきり──」
 梨羽さんはすずめに触れ、翼の長い羽をしめした。
「鳥はこれで風を切って飛ぶ。飼ってる鳥とかがあんまり飛べないのは、これを切られてるからだよ」
 そう、なのか。どこで聞いたのかは憶えていなくても、愛玩鳥がよく飛べないのは聞いたことがある。何でかは知らなかった。
 風切り羽。鳥はそれがあればいい。いや、翼だってなくてはならなくとも、このすずめはそれをもがれたわけではない。傷口がふさがれば大丈夫、ということなのだろう。
「鈴城くんが言ってた」
「えっ」
「前、僕は風切り羽を失くした、って。鈴城くんが言ってた」
 鈴城くん。鈴城くん、とは聖樹さんか。そんな呼び方をしているのか。当たり前でも知らなかった。ずいぶん他人行儀だ。
「失くした、って」
「飛べない。ちょっと見ただけだったら何にもおかしくないのに、でも飛べない。羽のふちで、なくしてもよく分からない風切り羽がないから。飛ぼうとしても風が切れなくて、ただの空気にも溺れる。進めなくてすぐ堕ちる。恋愛にも、人間関係にも」
 梨羽さんを見つめ、すずめに目を下げた。
“DAYFLY”ができたときの話だろうか。あの女の人とうまくいっていないことを告白し、そのあと梨羽さんとふたりで話したとき、飛べるとか飛べないとかの話をしたと聖樹さんは言っていた。
 風切り羽。そう、周りの人には、僕たちがやたらつまずくのは不可解だ。それは僕たちの欠落が人には見えないところのものであるせいだ。飛ぶためにはすごく大切なのだけど、翼のふちで目立たない風切り羽のように。
 みんな、僕たちが何を失くしたのかを見つけられない。もがれてみた人でないと、翼をしめしてさらしてもらった人でないと、何をもがれたのか分からない。それが飛ぶために重要だと知らない人は、たとえさらされたとしても、だからどうしたと笑う。
 翼しか見ない人は、失くした深刻さからして分からない。風切り羽。確かに、僕たちが失ったものはそんな感じだ。
「僕も」
 僕は梨羽さんに顔を上げた。また驚いていた。梨羽さんの自称は、僕、なのか。詩では、俺、だったはずだ。
「風切り羽をもいだ」
「え」
「ずっと、昔。僕は風切り羽をもいだ」
 意味を受け入れられず、狼狽えて梨羽さんを凝視する。梨羽さんの大きな瞳には苦痛がおり、眉が苦しげにゆがんだ。
「七歳のとき、忘れ物して夕方に学校に行った。夏で、夕暮れが長くて、教室に着いたときも廊下が夕焼けでいっぱいだった。職員室に鍵取りにいったけど、なくて、まだ誰か残ってるのは知ってた。あんなのとは思ってなかった。担任の先生が、クラスメイトの女の子を教壇で無理やり犯してた」
 喉がこわばった。とっさに嚥下できなかった。
 梨羽さんの担任の先生が、梨羽さんのクラスメイト──つまり自分の生徒を犯していた。
 落ち着こうとした深呼吸は震える。教師をできる年齢に達した大人が、たった七歳の子供を。それは──
「教室は、夕暮れで真っ赤だった。ドアを開けて、ふたりはこっちを見た。僕は突っ立って、すごいけど、女の子が一番冷静だった。『助けて』って女の子は言った。僕に。泣きながら。先生の手が女の子のあそこにあった。ジャージの中の脚のあいだがぱんぱんだった。僕は怖くて、女の子を無視して逃げた」
 梨羽さんを見た。
 逃げた。そのひと言はかなり響いた。逃げた。怖くて。無視して。助けてという声を。逃げた──。
 梨羽さんは開いた目をひずませ、泣きそうに伏目になる。
「僕はあのときから、自分が怖い。しょせん保身しか取れないクズなんだ。みんなの中で、一番クズなんだ」
 みんな、というのは、XENONのメンバーだろうか。
 梨羽さんはぽろぽろと涙をこぼした。僕はどう応じたらいいのか分からなかった。僕だったら、助けて、と言ってみて無視されたら、ショックだ。憎むかもしれない。どんなに謝られても、誰だってできる後悔に見えてしまうに違いない。だから、クズというのを否定もできなかった。
 梨羽さんについて謎だったものは、ほどけていった。聖樹さんを気遣うのが懺悔になるというのも、されたこともないのに僕たちを見取れてかばうのも、先日苦しみを憶断してひたすら詫びてきたのも。ライヴ終了後の、あの子、彼女とは女の子で、あいつとは先生だろう。
 神というのがその女の子だとしたら、聖樹さんがそれに近いというのもうなずける。聖樹さんや僕に、何でもない、と言われたら気休まるだろう。
 だが、梨羽さんはそんなのはまやかしだとも承知している。聖樹さんが言っていた通り、少しでも神経が太ければ、そもそもそんなの気にもしない──
 そこに想到し、梨羽さんを見つめ直した。そうだ。少しでもずぶとければ、そんなの、たわいないことだったと気にもしない。

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