帰った部屋で
部屋を出てエレベーターに乗ってから、何で梨羽さんは僕を部屋に連れていったんだろうな、と考えた。
すずめの手当てを見せるため、というのも変だ。やはり、あの話をするためか。
梨羽さんにも心許してもらえたんだな、とようやく実感を得る。僕が一番惹かれていたのは梨羽さんだったし、ただのファンより深く触れられたのは単純に嬉しい。
反面、あんな内容だったのに考えこまされる。
梨羽さんが自分にとって歌は風切り羽だと言ったとき、僕は自分の読みに皮肉に傷ついてしまった。命の要のようなもの。僕はそんなものをもがれたのかと。
容赦なく言えば、その通りだ。僕は命の要のようなものをもがれた。性を。命の育みを。僕は風切り羽を失くした。おとうさん。同級生。知らない人。再生のヒマもなくもがれ続けてきた。
もう遅いだろうか。二度と取り戻せないのだろうか。
その憂慮に胸を痛ませ、エレベーターを降りた僕は鈴城家に帰った。
鍵は開いていて、タオルのことどう言おうかなあ、なんてドアを開けると、「あ」と声がした。顔を上げた僕はまばたきをした。
真正面のキッチンに、夕食の用意をする聖樹さんがいたのだ。僕はいささか焦る。そんなに梨羽さんと時間をつぶしてしまっただろうか。
「おかえり」
くすりとした聖樹さんに、僕はぎこちない笑みと言葉を返す。
すると、悠紗の声がぼんやり聞こえて、聖樹さんはそちらにうなずく。すぐさま足音が近づいてきて、僕が靴を脱いでドアマットに上がったところで悠紗が顔を出した。そして駆け寄ってきて、「遅かったね」と僕を仰いでくる。
「心配しちゃった」
「そっか。ごめん」
「ううん。タオル、ないね」
「あったよ。梨羽さんに貸しちゃって。ダメだったかな」
「梨羽くん。何で?」
「ちょっとね」
「ふうん。梨羽くんならいいんじゃない。ね」
悠紗が振り返ると、聖樹さんはうなずく。悠紗に引っ張られて廊下の出口に来た僕は、聖樹さんに改めて微笑まれる。
「梨羽がついてるっていうんで、探しにいかなかったけど。ずっと探してたの?」
「いえ、上にいたんです」
「上」
「梨羽さんたちの」
「えー」と悠紗が声を上げる。
「みんなに会ってきたの」
「ううん。いなかったし。何かほら、さっき梨羽さんしゃがんでたでしょ」
聖樹さんは話が見えないようでも、悠紗はうなずく。
「あれ、あそこに怪我したすずめがいて」
「すずめ」
「うん。梨羽さんがそれを拾って手当てして、それにつきあってたんだ。タオルは、そのすずめを包むのに使ったんだよね」
「そなの。梨羽くんがねえ」
慮外そうな悠紗を横目に、「すずめだったら飼われてる鳥じゃないよね」と聖樹さんは僕に問うてくる。
「です、ね。電線を落ちたらしくて」
「威嚇で何かしてきたりしなかった」
「最初は抵抗してました。でも、怪我で動くのもつらかったみたいで。梨羽さんに撫でられて、あとで落ち着いてました」
「そっか。梨羽がそういうのに構うのめずらしいね」
「そうなんですか」
「梨羽って、あんまり何かに関心しめさないし。ときどき変なとこで優しいか。僕のときもそうだったし」
咲った聖樹さんは、悠紗と僕にリビングに行くのをうながす。
僕が夕食の用意を手伝うのは、「梨羽の相手、疲れたでしょう」と説き伏せられてしまった。そんなことはなかったものの、いちいち説明して時間を取るのも何なので、今日は素直に甘えさせてもらった。
リビングには洗濯物はなくなり、明かりがついてカーテンも引かれていた。時計を見上げて、僕は気抜けした。十七時半だった。一時間は経っているとはいえ、まだ聖樹さんが帰宅してくる時刻でもない。
「今日おとうさん早かったの」と、時計を見て止まっている僕に悠紗が言う。
「何かね、よーじがあったんだって」
「用事」
キッチンを向いても、聖樹さんは一笑するだけだ。
見当のない僕は、首をかしげてゲームをする悠紗の隣に座りこむ。悠紗は聖樹さんが“用事”をはぐらかすのを気にしていない。悠紗が直観で気にしないことなのかな、と臆見すると、僕も気にしないことにしてテレビを漠然と眺めた。
思うところは、自分の底でなく梨羽さんだった。話してみたかったわりに、僕からの話題を見つけられなかったのは、話さなくても梨羽さんが流れこんできたせいだろうか。梨羽さんは、閉ざすときは奇怪に映りそうに閉ざしても、心を開くと言葉より雰囲気で語りかけてくるらしい。
今日僕が触れた梨羽さんは、メンバーや聖樹さんには及ばないごく片鱗だろう。それでも、僕には収穫だし進歩だ。梨羽さんとつきあいたければ、少しずつ噛み砕いていくのがいい。四人が帰ってきたときここにいられたなら、また梨羽さんと話せる機会があるといいな、と思う。
今日梨羽さんが僕にしてくれた話は、片鱗であれ中枢でもある。女の子。音楽。風切り羽。梨羽さんがそんなことを僕に打ち明けた、と知ったら、みんな紫苑さんのとき以上にびっくりするに違いない。
女の子のことは、ああ思ってみても複雑だ。僕にはそんな、無視されて逃げられた経験はない。トイレとかで鉢合わせ、笑われたり嫌悪を向けられて立ち去られたことはある。助けて、と言う勇気は僕にはなかったが、何で助けてくれないのか、と思っていた。
影に連れこまれ、壁に抑えつけられ、僕は泣いていた。それでも誰も助けようとしなかった。助けることだと思ってくれなかった。
梨羽さんのしたことが、それとは別種のことなのは分かっている。梨羽さんは分からなくて放ったのでなく、怖くて逃げたのだ。助けるべきことだったとも理解し、ああしていまだ煩悶しつづけている。
しかし、その女の子にしたら、いくら自覚して懺悔されても、突き放したのには変わりないだろう。女の子が感情的にそう思ってしまう気持ちも、僕はよく分かる。僕だって、助けて、と言って無視されたら許せない。
僕は聖樹さんと出逢ったとき、そこの公園でまたもやひどいことをされそうになっていた。僕はあのとき初めて、『助けて』と誰かに言った。聖樹さんは助けてくれたけど、あのときもし聖樹さんが後退ってどこか行ったりしていたら──
そう思うと、梨羽さんのしたことに、複雑なものをぬぐいきれない。割って入る、まではせずとも、たとえば職員室に残っていた先生に報告でもしていたら、その女の子は大きく救われていたかもしれない。僕がこの場所を見つけられたように。
梨羽さんの気持ちも分からなくもない。現在の成人した梨羽さんで、これを考えるのは間違っている。梨羽さんもそのときは子供だった。おなじく七歳の、性なんか知らない子供だった。
空恐ろしさに、本能の自衛に走ったのをとがめるのは理不尽だ。まだ守る側でなく守られる立場だった梨羽さんが、救うことを思いつけなかったのは不自然ではない。
子供が無力だというのもまた、僕はよく知っている。だが、梨羽さんには子供だったからという言い訳は通用しないのだ。罪を犯したと極端に思いこみ、心底悔やんで、そのために自分自身も見失っている。だから僕は、複雑ではあっても、頭ごなしに梨羽さんが最低だとも決めつけられなかった。
その女の子──女の人は、今どうしてるのだろう。同じくあの日を忘れられず、梨羽さんを怨んでいるのだろうか。梨羽さんは音楽で精神を繕っている。そんなうわべの偽薬でなく、しっかり安定させて本当に苦悩を癒したければ、その女の人に懺悔を受け入れられ、許してもらうしかないのだろう。
仮に女の人に許してもらったら、梨羽さんはどうなるのか。とりあえず、精神安定剤の音楽はいらなくなる。それは、僕としては困る。梨羽さんには癪でも、僕はやっぱり梨羽さんの詩や歌が好きだ。鮮烈な共鳴に真っ白になる感覚が心地いい。永続的ではなくとも、一時的な抗生物質のようなものはある。でも、梨羽さんが救われたら、XENONはなくなる。
梨羽さんがそんなに強くないだろうか。そもそも、女の人が梨羽さんの前に現れることはない気がするし、現れてもその人が許すか危ういし、万一許したとしても、当の梨羽さんがそれを信じられるかも分からない。
梨羽さんは、傷つけられたわけではない。傷つけた。ただ変わっているのは、傷つけたぶんだけ、自分も傷つこうと自傷しているところだ。そんな歌もあった。自分の喉にナイフを突き立てる。
その通りだ。それで梨羽さんは、傷つけられたわけでもないのに、傷ついている。みずからの手によって傷ついている。
神経に肉づけをすれば、まったく苦しまなくてもよかったのに、梨羽さんはそうせずに自分の意志で苦痛に身を投じている。かぼそい神経によって“クズ”という自覚に翻弄され、女の子への懺悔として病的な自虐に陥っている。要するに、梨羽さんは、いちいち逆境に行ってしまうほど弱い。
その逆境に飲みこまれないように、音楽がある。僕はふと床に置かれている音楽雑誌に目を落とし、梨羽さんみたいな動機で歌ってる人はこの中にいるだろうかと思う。音楽なんてともすれば必要ない人だっているのに、梨羽さんはそれによって生かされている。
音楽が梨羽さんの風切り羽で、けれど梨羽さんは、逆境にあらがう羽ばたきであるそれを疎んでいる。歌さえなければ逆境に飲みこまれていっそ死ねる、と。自虐から自殺を突き抜けて解き放ってしまえる、と。
風切り羽かあ、とテレビに目を戻す。梨羽さんの気持ちはそこはそれで理解できても、僕はそれがあればいいなと思う。そうなれば、だいぶ楽に生きられる。要さんや葉月さんはそれをあつかうのがうまいのだろう。どういうふうに生きていきたいかと問われたら、僕は梨羽さんや紫苑さんより、要さんや葉月さんのほうが楽しそうでうらやましい。
僕はずっと、風切り羽をむしられてきた。ここに来て以降はむしられていなくても、新しいものが生まれてくるかは分からない。むしられたままだったらどうなるのか。
ここにいられたら癒えていきそうでも、僕はここにいる人間ではない。このまま風切り羽がなかったら、どんな大人に転がるのだろう。つく予想は悪いものばかりで、思わず憂色のため息がこぼれそうになる。
その日の夕食は早めで、すきやきだった。梨羽さんのすずめの話が四人の話に発展し、部屋が片づいていたという僕の情報に、聖樹さんと悠紗は顔を合わせる。
「行っちゃうんだね」と悠紗は寂しそうに煮えた肉をつつき、「来週の頭だっけ」と聖樹さんは確かめてくる。うなずくと聖樹さんは考え深げな色をして、「週末に挨拶に来るかな」と測ってくる。
「でしょう、ね」
「そっか──」
口を濁す聖樹さんに、「何かあるんですか」と何心なく尋ねる。聖樹さんは曖昧に咲い、悠紗はそんな聖樹さんと僕を交互に見る。聖樹さんはそれをたしなめると、「見送れたらいいんだけどね」と微妙な言いまわしをした。また僕は、首をかしげるしかできなかった。
夕食が終わると、悠紗はゲームをして聖樹さんと僕はキッチンを片づけた。それが済むと、聖樹さんは悠紗をバスルームに連れていき、ひとりになった僕はあのすずめを想って、要さんたちは驚くんじゃないかなとちょっと笑いそうになる。まあ、梨羽さんが好んでしたことなら文句は言わないだろう。
悠紗が風呂を上がると次は僕で、数日前よりは冷静に入浴をこなせた。変わりない夜を過ごして、二十一時頃に悠紗がひと足先に寝床につくと、聖樹さんはバスルームに行って僕は雑誌を読む。そして聖樹さんが帰ってきて髪を乾かし終えると、いつもの座卓でのお茶になった。
紅茶のそそがれたカップを渡され、「ごめんね」とのっけに言われてぽかんとした。ごめん。反射的に謝られる心当たりを探しても、何も見つからない。
「何でですか」と本気で返すと、聖樹さんは咲い、「隠しごとしてるみたいに見えなかった?」と僕の正面に座る。「あ」と僕は声をもらし、考え、「少し」と正直に答える。
聖樹さんは口元を笑ませ、「ちょっとね」とひと口紅茶を飲む。
「萌梨くんにまじめな話があって」
「まじめな」
「うん。悠は抜きにして、ふたりで話したかったんだ」
見つめた僕に、聖樹さんはおっとりと微笑んだ。悪い話ではなさそうだ、とひとまず察すると、「何ですか」と紅茶に口をつける。
【第百三十八章へ】
