君がその羽で飛べるように
振り返ると、梨羽さんだった。ヘッドホンが首に落ちていて、みんな思いがけないその行動に面食らう。梨羽さんは気にせず僕を見つめた。
どきどきしつつ、「何ですか」と訊くと、梨羽さんは離した手をリュックに突っ込む。四折りにされた紙を取り出し、僕に押しつける。
「何、ですか」
「……あの子の」
みんなぎょっとした。梨羽さんが、人がいるところで穏やかに口をきくことは滅多にない。少なくとも、僕は初めて見た。
「あの、子」
「書いた」
あの子──梨羽さんが逃げた女の子だろうか。あの女の子のことを書いた。梨羽さんが書くものと言ったら詩だ。あの子のことを、詩に書いた。
梨羽さんの大きな瞳を見つめる。梨羽さんの瞳は、何も読み取らせない。
僕はそっと紙を受け取り、梨羽さんは手を引くとすずめの鳴き声がするタオルを抱え直す。僕はたたまれた紙を見つめたのち、梨羽さんを見上げる。
「歌えますか」
梨羽さんは僕を見つめ、「分からない」と言った。僕は手の中にそれを握りしめ、電車で読もう、と思った。聖樹さんが僕の背中をうながし、その前に僕はもう一度梨羽さんを振り返る。
「梨羽さん」
うつむきかけていた梨羽さんは、僕をちらりとしてくる。
「梨羽さんは、歌うのを知らなかったほうがよかったですか」
梨羽さんより、メンバーのほうが表情をこわばらせた。梨羽さんは無表情に僕を見、睫毛を伏せると、小さくかぶりを振った。「でも」と続ける。
「歌わなくてもよかったらとは、ときどき思うよ……」
梨羽さんの声は細かった。それは、女の子のことがなかったら、ということだろうか。それとも、歌にすがりつかなくてはいけないほど弱くなかったら、ということだろうか。
しかし、その言葉で確かに拾えるのは、どうしようもない歌への執着だ。
息をついた要さんが、梨羽さんの頭を小突いた。僕はそれにかすかに咲い、「すずめ」と小さく梨羽さんに言う。
「飛べるようになるといいですね」
梨羽さんは僕を瞳に映し、こくんとした。
「梨羽さんが飛べるようにしてあげてください」
梨羽さんはすずめに目を落とし、再びうなずいた。
聖樹さんがいよいよの区切りを察し、僕を今度こそうながす。時間も迫っていたので僕はおとなしくついていく。
紙を握りしめた。これはお守りだ。そう思うと、喉元が安らいだ。
先に聖樹さんが電車に乗りこみ、僕はそれに続く。名残惜しくて、一顧した。
悠紗はなだめる沙霧さんの脚にしがみついて、梨羽さんと紫苑さんはこちらを見ていて、要さんと葉月さんは毎度の軽めな笑いをしている。
いっぱいいる、と思った。僕を気にかけてくれる人は、ここにはあんなにいっぱいいる。僕はここに帰ってこれるだろう。あんなに僕を待ってくれている人がいて、ここが居場所じゃないなんて言えるだろうか。
泣きたいような気持ちをこらえた笑みをすると、みんなに背を向けた。
時間が早いせいか、席には聖樹さんと並んで座れた。車内はホームと違って暖かい。荷物は上に置き、聖樹さんは通路、僕は窓際に座る。
椅子は修学旅行の新幹線よりふかふかでなくも、僕にはこちらのほうがずっといい。隣にいるのは、不用意に軆に触ってくるクラスメイトではなく、聖樹さんだ。
「梨羽、びっくりしたね」
咲った聖樹さんにうなずきながらも、「嬉しかったですよ」と僕は咲い返す。無造作に手に残す紙を取り出すと、「あの子って言ってたね」と聖樹さんも覗いてくる。
「僕、梨羽さんのこと教えてもらったんです」
「え」
「女の子のこととか、音楽のことも」
眼鏡越しの聖樹さんの瞳に、驚きの色が走る。「こないだのタオルのときに」と説くと、聖樹さんは睫毛を下げ、「そっか」としみじみと息をつく。
「どう思った?」
「………、苦しいな、って」
「苦しい」
「梨羽さんが悪いとは思わないです。子供のとき、大人に対して何にもできなかった気持ちは分かりますし。梨羽さんはそれが、自分じゃなくてほかの人に向かっちゃったんだと思います。苦しいですよ。苦しむのが自分じゃなくてほかの人のぶん、何にも、自分でも測れなくて。だからあんな、行き過ぎちゃうのかもしれないですね」
「うん」と聖樹さんは椅子に力を抜く。そして、「それ読んでみたら」と勧められ、僕は紙を開いた。
薄いレポート用紙で、曲目として“NECROSIS”とあのかわいらしい文字がある。紫苑さんが弾いてたあの新曲の詩かな、と思いつつ、僕はその梨羽さん肉筆の詩を読んだ。
俺には死んでいるところがあって
壊れたそこが俺の牙
今にも蛆が這いそうなそこに
俺は神の声を聴いている
俺はひざまずくけど
壊滅なんかできやしない
俺の声は神の声
すべてを支配している
俺の命は死によって叫ぶ
俺の耳は死んでいる
ただあの声しか聞こえない
俺が殺して神となった
引き裂かれた血まみれの少女
もぎとった羽をむさぼる
不条理な堕天使の悲鳴が
俺の鼓膜に染みついて
俺の瞳は腐ってる
まぶたを炙った茜の悪夢
爛れて膿み続けて
死しかしらないえぐれた傷
舞い散る羽を俺は踏んだ
悪魔の俺は糸をちぎり
眼球を光につぶされ
神は俺を壊死させる
縛り上げる声は罪を許さず
神の鉤爪は喉だけは裂いてくれない
俺にはこの声が残って
すべて死んでしまいたいのに
しばらく、止まっていた。最後の“すべて死んでしまいたいのに”にたどりつき、何秒間か真っ白になった。聴いたわけでもないのに、あの空白が来た。
それから、そろそろと詩を読み返す。何というか──端的だ。血まみれの少女、とはあの女の子だろうし、不条理な堕天使、とは無理やり犯された、ということだろう。茜の悪夢、とは夕暮れの教室で、あの声、縛りあげる声とは、『助けて』という声に違いない。
分からない、という梨羽さんの答えも当然だ。梨羽さんがこの歌を冷静に歌いきれたら、すごい。
何で、こんな詩が書けたのだろう。梨羽さんは癒えてきているのか。いや、そういえばXENONには、危険すぎたり梨羽さんが歌えなかったりで、アウトテイクになっている曲もあると聖樹さんに聞いた。
梨羽さんは、あの女の子に捧げようとするこんな詩は山ほど書いてきたのではないか。そのために歌っているのだし、苦痛の髄質を詩にして歌って、昇華させようとするのはあってもおかしくない。でもやってみるたび、詩が耐えがたいものになったり、詩はよくても歌えなかったり、アウトテイクとは梨羽さんのそうした懺悔の挫折の柩なのかもしれない。となると、この詩もそこにはいる可能性はある。
事情を知らなければ意味は分からずとも、梨羽さんは観客のために歌っているわけでもない。歌い、詩にこめたものが心に情景として映り、それが解放されずに引っかかって澱むだけなら、梨羽さんは歌えないのだ。これをもし歌えたら、梨羽さんは癒されたと言っていい。
「どう?」
止まっている僕に咲いながら、聖樹さんが訊いてくる。いつのまにか電車は動き出して、右肩では景色が流れている。
「すごい、です」
「すごい」
「よく、こんなの書けた、というか。読みますか」
聖樹さんは含み咲って、「梨羽は萌梨くんに渡したんだよ」と遠慮する。そんなことないです、と言いたくとも、梨羽さんの意思を独断するのもできず、納得しておく。
気になるところで曲目の意味を問うてみた。つづりを朗読すると、「ネクローシス」と聖樹さんはあっさり発音する。
「ネクローシス、って」
「壊死って意味じゃなかったかな」
「えし」
いつだか梨羽さんがレポート用事に書き殴っていた言葉だ。思い起こせば、あのときの言葉の連射がこの詩には散りばめられている。あの断片はこの詩の心象だったのか。
「壊れる死って書いて、軆の一部分が局部的に死ぬことだよ」
僕は“NECROSIS”に目を戻す。壊死。最後のところにもあった。神は俺を壊死させる。ネクローシス。確かに全体を表わしている。声だけが生きて、ほかはもう壊死している、ということだろう。
全部死んでしまいたいのに、梨羽さんには歌うという肝心の要──いわば風切り羽が残っている。女の子への懺悔のため、逃げて死ぬのは許されない。梨羽さんは一生そのしがらみ、歌い続けるのを逃れられないのだろうか。
歌わなくてもよかったら。あの言葉は、そんな絆しもなしに普通に生きられたら、という意味だったのかもしれない。
風切り羽といえば、と僕は聖樹さんを盗み見る。あれは梨羽さんの比喩でなく、聖樹さんが考えたものなのだっけ。尋ねてみると、「ああ」と聖樹さんは照れたように咲う。
「今言われると恥ずかしいな」
「あ、ごめんなさい」
「ううん。あれは、何かね、その頃バイトしてた喫茶店の店長が鳥が好きだったんだ。二階の自宅でも鳥を飼ってて、インコだったかな、黄色の綺麗な。飛ぶのは飛んでも、すぐ落ちるんだよね。理由訊いてみたら、羽切ってあるからだよって教えてもらって」
「羽って、風切り羽ですか」
「うん。何か、僕みたいだなあとか思って。あの頃、あの彼女にひどいことになってたし、ぼんやりね」
「そうなんですか」
紙を折りたたむ。「下手な喩えだよね」と聖樹さんが謙遜すると、僕は否定する。「表してますよ」と言うと、聖樹さんは首をかたむける。
「だって、鳥には飛ぶことって普通で、しかも命みたいなことじゃないですか。風切り羽がなかったら、それ全部なくなっちゃうんですし。人にはよく見えないとこをもがれて、普通の命がうまくいかなくなるって、僕たちもそんな感じじゃないでしょうか」
「そうかな」と聖樹さんは考え、半眼になるとうなずいた。「命がうまくいかない、か」というつぶやきに、気に障ったかと謝る。聖樹さんはかぶりを振り、僕を見つめた。
「僕、今はあると思うよ。風切り羽」
「え」
「悠も沙霧も、あの四人だっている。萌梨くんも見つけた」
「僕」
「萌梨くんたちといると、生きてるのが楽になるんだ。分かんない人には、そんなの大袈裟に聞こえるかな。でも──」
「ぎりぎりのこと、ですよね」
「うん。特に、悠は大きいよ。あの子がいたら、もし苦しくなったって生きなきゃって思える。もし苦しくなったって、萌梨くんたちに落ち着けてもらえる。僕、生きていくのが向いてるようになれたと思う。命、うまくいってるよ」
僕は聖樹さんを見つめ、その視線に、「キザかな」と聖樹さんは照れ咲いした。僕はかぶりを振って、咲う。そっか、と思い、詩の紙はお守りとして大事にポケットに入れる。
命がうまくいく。生きていくのが向いている。生きてるのが向いてない、となら思ったことがあるぶん、その重みが僕にはよく分かった。そして、聖樹さんがそう思えるようになった一環には僕もいる。その価値だけでも、僕にとっては風切り羽だ。
僕はさっきのみんな──悠紗や沙霧さん、XENONの四人を想う。もちろん、隣にいる聖樹さんも。いっぱいいる、と思った。そう、僕にはいっぱいいる。風切り羽になってくれる人が、今の僕にはいっぱいいる。
逃げられないのだろうか。僕はいつもそう思っていた。それはあのことが、怖くて痛ましすぎて直視できなかったせいだ。
聖樹さんたちといれば、少しずつ、この果てしない傷口に向かい合ってみる精神力を持てる。次から次へと生傷をつけられるのも、それを隠すための虚しい徒労もない。傷は乾いていくし、僕には気力がたくわえられていく。
僕はいずれ、この傷に触れてみることができる。血を止めて、膿にして、その膿を出して──
正直、傷が消えるとは思わない。だから僕は、この傷を受け入れるのだ。今、この鮮やかな傷を受け入れるのはつらくても、聖樹さんたちとゆっくり風化させた傷であれば、受け入れられると思う。ひとりで無理せず時間をかけたら、逃げずに受け止められるようになり、僕はたぶん、癒される。
みんないてくれる。その中で癒されていこう。
その先で僕は、誰の力も借りない風切り羽を持てるだろう。逃げることなんてない。それさえあれば、僕はどこにだっていられるはずだから。
FIN
