砂嵐の時間

 ときどき、頭が砂嵐になる。そのあいだは記憶に残っていなくて、ふと気がつくと、ぜんぜん憶えのない場面にいる。
 初めて砂嵐になったのは、四歳か五歳のときだった。父が僕を殴りつけていた。思考は脳から抜けて、頭の中が砂嵐になった。
 怖い。助けて。やめて。
 叫びが感電した瞬間、僕の頭は落ちていた。そのあいだ、何も考えなくてよかった。心には痣が広がっていったけど、裂けて血があふれることはなかった。
 義母が現れ、食事をもらえずに、空腹がはちきれたときも頭が途切れた。首根っこをつかまれて我に返ると、冷蔵庫をあさっている僕がいて、義母が父にそれを伝えると、またぶたれた。そんな僕を、生まれたばかりの義妹が無垢な目で見ていた。
 教室にもなじめなかった。僕をロボットのようだと揶揄っていたクラスメイトが、また砂嵐に襲われていたあと、気づくと泣いていた。先生が僕をしかっている。「何てひどいこと言うの」と先生は言った。けれど僕は、自分が何を言ったか、憶えていない。
 砂嵐のあいだは、思考だけでなく、自分の言動も見えなかった。
 夏の下校中、突然背中を突き飛ばされたときも、砂嵐になった。意識が戻ったとき、僕は暗闇にいた。
 知らない匂いがして、荒い息遣いが聞こえた。起き上がって振り返ったけど、やっぱり真っ暗で何も見えない。
「……殺す……殺す……殺す……」
 息遣いの合間で、ぶつぶつとそう言っているのが聞こえる。僕が動くと、その物音で、息遣いが止まった。
 僕は平衡感覚がない中で、ゆっくり立ち上がった。
「う、動くなっ」
 どうやら、そんなに広い場所ではないようだった。
「動いたら殺すぞっ」
 どこかつたない口調の声の主は、意外とすぐそば──いや背後にいると悟った瞬間、どさっとおおいかぶさられて、僕は転んだ。
 首筋に荒い息がかかる。
「このままこんなふうに」
 ざくっ、と耳元で床に何か刺さった。刃物だと分かるのに何秒かかかった。
「滅多刺しにす──
 ザザ……と頭の中にまた砂嵐が入る。でも、初めから何も見えない暗闇のせいなのか、うっすら砂嵐の向こうが見えた。
 声の主を突き飛ばし、激しく怒鳴り散らしている僕がいた。
 何を言っているのかまでは聞こえない。やがて元通りになると、暗闇の中で、誰かのすすり泣く声がした。
 けれど、しかってくる先生はいない。呼び出されて事を知る義母も、それを聞いてたたいてくる父もいない。
 僕は笑みをもらした。
「誰も……止めないよ?」
 そんな言葉がこぼれていた。
「誰も止めてくれないよ?」
 僕の強い足音に、「ひっ」とすすり泣きがすくむ。
「僕も止めないよ?」
“そいつ”のかたわらで、僕は大声で嗤う。
「殺せよ、もうおしまいだよ、あんたは僕を殺さなきゃいけない! 可哀想だね、人殺しだね、人生がめちゃくちゃだね! あんたは僕を殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺す!!」
 泣き声がひときわ大きくなった。僕は高笑いしてせぐくまる背中を揺さぶった。
「早く殺してよ、僕だってもう死にたいし。早く殺せよ。僕のこと置いていくくらいなら、殺せばよかったのに! 何であんな奴のところに置いてったんだ、どうして僕を生んだんだ、あんたさえ僕を生まなきゃよかったのに、ねえ──
 おかあさん。
 ぎらりと刃物が目の前をよぎった。僕は微笑んだ。僕から僕が抜け落ちるのが分かった。
 一瞬、砂嵐が映った。でも、すぐ黒に切り替わった。自分の荒い息遣いだけが残る。僕が倒れている。死んだら本当にこんなふうに自分を見下ろすのかと思った。
 ……あれ。
「……殺す……」
 倒れていた僕の軆がぴくりと動く。
「……殺す……殺す……」
 ずる、と起き上がって暗闇をきょろきょろする。
「……殺す…殺す……殺す……」
 ああ、あれを自分で滅多刺しにしないと終わらないのか。
 いつのまにか、手の中に包丁があった。息遣いが止まる。
 僕がよろめきながら立ち上がった。動くな、と叫ぶ自分が鮮明に見えた。
 それが、どのくらい、続いたのだろう。
 すっと砂嵐が消えて顔を上げたとき、僕はアスファルトに転んでいた。無様に地面に倒れる僕を笑いながら、走り去っていくランドセルの背中がいくつかあった。
 ゆっくり起き上がると、膝が擦り剥けて血が流れていた。
「痛い……」
 初めてその言葉をつぶやいた途端、視界が滲んで、熱い雫が頬を喉を伝っていった。「どうしたの」とびっくりした声が、下校途中の周りからかかる。僕は構わず泣きつづけた。
 僕はようやく虐待の家庭から保護された。そして、父の暴力から逃げるしかなかったという母に引き取られた。祖父母と共に現れた母は、「ごめんね、ごめんね」と僕を抱きしめて泣いた。僕はその柔らかい軆にしがみついた。
 あの砂嵐の時間、自分がどこにいたのかは今でも分からない。ただ、確かにあのとき、僕は死んだ。あれ以降、二度と頭の中は砂嵐になって途切れたりしなかったから。
 代わりに映るのは、毎朝「おはよう」と僕を起こしてくれる母の微笑だった。どんなに怖い夢が始まっても、それは必ず朝に終わる。
 一度死んでから見る世界。それは、とてもまばゆくきらきらした、色鮮やかな世界だった。

 FIN

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