愛を食べていく

 営業課の琴宮ことみや頼恵よりえさんといえば、うちの会社では知らない人はいないくらいの有名な人だ。
 いつも笑顔で、きびきびとして、聡明に仕事をこなし、人望も厚い。何でそこまで頑張るんだろ、とやる気のなさをしょっちゅう先輩に注意される俺は、「琴宮さんすごいよね」「めっちゃ憧れるよね」という周りに、心からは同調できない冷めた目を向けていた。
 だから、琴宮さんが昨夜亡くなったという話が出勤早々耳に入った日は、ぎくりと心臓がすくんで、血の気さえ引いた。
「え……亡くなった、ってマジで?」
 俺と同じ総務課で、同期でもある松河まつかわという女の子にそう問い返すと、彼女は泣きそうな目でうなずく。
「詳しくはまだ分からないけど、事故だって」
 誰かに、「琴宮さんって必死だよな」とかもらしたことがあるわけでもない。俺が琴宮さんをあまりよく思っていなかったことなんて、その事故には何も関係ない。
 それでも、なぜか自分が嫌な奴だったとさらされたような気がして、俺は神妙にうつむいてしまった。
 数日後、琴宮さんの葬儀が行なわれた。接点のなかった俺も、先輩について参列した。琴宮さんと関わりのあった人はもちろん、俺みたいな遠縁の人もたくさんいて、みんな沈痛な面持ちで読経を聞いた。
 そして、夫と離婚してひとりで娘を育てていたという、快活だった琴宮さんからは見えなかった家庭の事情も、しばらく社内ではささやかれた。
「娘さん、どうなるんだろうな」
「元旦那さんが引き取るのかなあ」
 すでにクーラーがないとつらいぐらいの初夏、そんな会話を交わしながら、ちょうどエレベーターで一緒になった松河と退社しようとしていた。
 ざわめく一階エントランスの受付のそばを通り過ぎようとしたとき、「お名前は言えるかな?」とうちの美人受付嬢の困った声がして、俺は何となくそちらに目を向けた。そこには白い猫のぬいぐるみを抱えた小学生中学年くらいの女の子が、受付の前で突っ立っていた。
「どうしたの、梨夏りかちゃん」
 松河が足を止め、そう声をかける。梨夏ちゃん、と声をかけられてこちらを向いたのは受付嬢で、「真海まみちゃん」と彼女は松河の下の名前を呼ぶ。知り合いらしい。
「この子、さっきここに来たんだけど。用を訊いても何も言ってくれないの」
 松河は女の子を見て、「おとうさんかおかあさんに用事かな?」と優しく尋ねる。俺はああいうのに構う神経はよく分からないタイプだったが、一応見守る。
 女の子は松河をちらりとしても、うつむいてぬいぐるみを抱きしめる。
「猫、窒息すんぞ」
 あんまりきつく抱きしめられているので、場がなごむかと俺がそんなことを言うと、松河がぎっとにらみつけてきた。……あんまり、なごむ台詞ではなかったらしい。
 しかし、女の子は俺に顔を向け、腕をやわらげてからぼそっと言った。
「……これ、犬です」
「えっ、猫だろ。すげー猫じゃん」
水原みずはらくん、うるさい」
「いや、松河も猫と思うだろ」
「これはでびるいぬというれっきとした犬キャラです。だよね?」
 松河が言うと、女の子はこくんとした。
 でびるいぬ。知らん。しかし、よく見るとぬいぐるみには牙やら黒い羽根やら生えている。
「何で悪魔? どうせなら天使キャラにしようぜ」
「天使はレアキャラなの。ちなみに生前バージョンはもっとレアで、」
「うわー、松河真海、二十四歳にしてファンシーヲタ」
「うるさいなっ」と俺に咬みつく松河を女の子はじっと見つめる。その視線に気づいた松河は咳払いして、「ここは受付のおねえさんも仕事があるから、テラス行こうか」と女の子をうながした。
 何か面倒なことになってきた、と俺は逃げ腰になったものの、「水原くん、この子にジュースとかおごってあげて」と言われて、案の定逃げられなかった。
 エントランスの右手にあるガラス張りのテラスは、五月の夕暮れが射しこんで、オレンジ色だった。
 自販機の前で迷った挙句、無難にオレンジジュースを選ぶと、紙パックのそれを女の子にさしだす。受け取るのを躊躇うかと思いきや、女の子はぱっと手に取って、すぐに飲みはじめた。
「お腹空いてるの?」
 松河に問われた女の子はこくりとして、あっという間にジュースを飲み干してしまった。これは俺がハンバーガーでも買ってくる流れか、とも思ったが、その前に女の子がゆっくり口を開いた。
「……おとうさん、が」
 おとうさん。まさかただパパのお迎えに来たんじゃねえよな、と思ったが、続いた女の子の言葉はぜんぜん違った。
「ごはん……くれなくて」
「えっ」と俺と松河は、つい声をハモらせてしまう。
「私、が……悪いから、ごはんはダメだって」
「え、と──おとうさん、うちの会社の人……なんだよね?」
 松河の言葉に、女の子は首を横に振った。
 何だよ。じゃあ、何でうちの会社に来るんだよ。ちなみに、ただのPC部品の下請け会社で、ここは警察でも施設でもない。
「おかあさん、が……この会社に」
「そうなの? じゃあ、おかあさんの名前教えてくれたら、助かるんだけどな」
「……琴宮、頼恵」
 俺も松河も息を飲んだ。
 琴宮頼恵。……琴宮さんの娘。
「え、えっと……ど、どうやってここに来たの? 今、おうち大変でしょう?」
「……おとうさんと暮らしたくない」
「いや、あの……ちょっとっ、水原くんも何か言ってよ」
 俺は眉を寄せたものの、「親父は理由もなく飯くれないのか」と訊く。女の子は俺に上目遣いをしたのち、「部屋を出ないからって」とぼそぼそと答える。
「いや、今出てきてるじゃん」
「おとうさんと、ごはん食べたくない」
「何で?」
「あんなの、おとうさんじゃない」
「おとうさんが何か悪いのかよ」
「……だって、おとうさんはおかあさん好きだったから」
「はあ?」
「私のこと、生まれてほしくなかったんだもん。でも、おかあさんは私を生みたかったから、おとうさんと別れたって言ってた。私が生まれるせいで、おとうさんとおかあさんは別れたんだよ」
 あ、何かこれガチでしんどいやつだ。そう感じ取って、俺は口をつぐんだが、松河が女の子と向かい合う。
「でも、おとうさんは今あなたと暮らしてるんだよね? ってことは、引き取られたの?」
「……うん」
「おとうさんは、あなたをたたいたりする? ひどいことを言ったりは?」
「……しない」
「じゃあ、おとうさんもあなたとどう向き合えばいいのか分からないのかもしれない。一緒にごはん食べて、話をしたりしたいのかもしれない」
「………、」
「そうじゃなかったら、またここにおいで。おねえちゃんの名刺を渡しておくから、自分が危ないと思ったときは、まっすぐここに来ておねえちゃんを呼んで」
「おい松河、それは──」
 俺が止めようとしても、松河は女の子に自分の名刺を握らせた。女の子は唇を噛んでその名刺を見つめると、「……ありがとう」とやはりぼそりと言った。
「暗くなる前に、いったん帰らないとね」と松河が女の子の背中を押し、俺にも目配せしたときだ。ばたばたとテラスに受付嬢が駆け込んできて、「真海ちゃん、さっきの女の子いる!?」と声をかけてきた。
「あ、うん。今から──」
「おとうさんっぽい人が来てるんだけど」
 女の子はびくんとしたものの、松河、そして俺のことも見て、名刺はポケットに隠すと、そろそろとテラスを出た。
毬恵まりえ!」と男の声がして、俺と松河がそっとエントランスを覗くと、スーツの男が提げていたふくろをどさっと落とし、女の子を抱きしめていた。提げていたふくろから転がり出たのは食材で、その男が娘のために手料理を作っているのが窺えた。
 ──そして、その女の子が再びうちの会社に来ることも、松河にコンタクトを取ってくることも、その後、けしてなかった。それでも俺は少し心配で、何かと揶揄うついでに松河の様子を見て、ちょくちょく飲みにいくうちに、俺たちはつきあうようになった。 「でびるいぬってね、飼い主を失くした犬なの」
 残暑にさしかかったある日の帰り道、松河はそんな話をした。
「どう失くしたのかは公式にも出てないけど、飼い主を失ったペットすべてなのかもしれない。で、生きる意味を見失って闇堕ちしたのがあのキャラ。あの子、そういうとこに共感してたのかな」
「ファンシーにしては重いキャラだな」
「でも、ちゃんとおとうさんと分かり合えたから、連絡来ないんだと思いたい」
「娘に手料理食ってもらえないのは萎えるわ。じゃあ食わなくていいって親父も怒るわ」
「ふふ、ごはんは源だからね。料理も愛情も、きっと今はあの子の生きる気力になってるよ」
「俺も松河の手料理で精を出したい」
「バカ」と松河は俺に肘鉄を食らわしたものの、「じゃあ部屋泊まってく?」なんて誘ってくる。「いいの?」と俺が表情を明るくさせると、「水原くんって」と松河は苦笑する。
「前は、冷たいぐらいクールだと思ってたけど、けっこういい奴だよね」
「………、琴宮さんのこと、さ」
「うん?」
「何で、そんなに頑張るんだろって思ってたよ。確かに俺はそういう奴だった。でも、今は真海とのデートとか、将来のためって思うと、仕事も頑張れる。だから……その、琴宮さんは、娘を愛することが生きる気力だったんだろうな」
 真海は俺を見つめ、何も言わずに腕を絡めると、俺の肩に頭をことんと乗せた。
 かなり恥ずかしいことを言って俺は何だかおもはゆく、「ハンバーグ食べたいなー」とかとぼけておく。「子供じゃん」と真海は咲って、それでも「じゃあ、一緒にスーパー寄っていかないとね」と俺を引っ張った。
 誰かを本気で愛するとか。その愛する存在のために頑張るとか。そういうことを分かっていなかったから、俺は琴宮さんからあふれていた生命力が理解できなかった。
 今なら分かる。そして、そこまで愛する者がありながら、不慮で亡くなってしまった琴宮さんは、きっと悔やみきれないほど悔やんでいるだろう。
 でも、だからってあの人は闇堕ちはしないだろうから。きっと、天国で。天使になって、あの子を見守っている。不器用な父娘を応援している。
 俺はそう思いたい。

 FIN

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