午前零時
朝が来ない。だから、闇夜に心もとなく灯る光に集う僕らは、やましく、厭われる存在だ。まるで蛾のように。
じめついた北側の壁に背中をたたきつけられたのと同時に、腹に鋭く膝蹴りが入った。思わずもれた低いうめきに、いくつもの嗤笑が重なる。顔を上げる前に髪を鷲づかみにされ、僕はかろうじてその手の主──クラスメイトの山本を睨みつけた。山本の性悪な瞳が日陰の中でゆがむ。
「何だよ」
僕は、こみあげた痰のまじった唾を吐き捨てた。
「……クズが」
「何だとっ」
「クズだって言っ──」
山本は僕の髪を握りしめた。身長差のぶん、ぎゅっと髪をねじりあげてくる。乱暴に地肌を引っ張られ、僕は痛みに口をつぐむ。
「本気にすんなって。クズはこいつのほうだろ」
嗤いながら口を出した西口が、僕の臑に容赦ない蹴りを入れる。激痛は骨に直接響き、僕は泥の匂いに崩れ落ちた。その背中に、山本のスニーカーが音を立ててめりこむ。
「懲りてねえな、クソ野郎っ。死ね!」
「ほんとだよ。一学期あんなにたたきこんでやったのに」
「二学期になったら、顔見ずにすむと思ってたのになー」
そう言った田中が、いい加減な口調とは裏腹に、肋骨を蹴りあげる。仰向けにされて、残暑の汗で髪や服に泥が絡みつく。
「お前なんか一生休んでろよ」
「つーか、死ねばいいんだ」
「とっとと自殺すればいいと思わね?」
「同感」
肩にかかとを落とされ、僕はつい身を縮める。「赤ちゃんスタイル」と誰かが言って、全員が噴き出した。僕は唇を噛みしめ、柔らかな土に手をついて立ち上がろうとした。しかし、すばやく山本の蹴りが飛ぶ。
「まだこれからだろ」
──いつ始まったのかは、もう忘れた。気づいたら始まっていた。僕のせいじゃない、単にバカばっかりなのだ。容姿がいいからとか、成績がいいからとかで、みんな僕を殴りつける。
このことを誰かに告げたことはない。教師にも。両親にも。大人なんてクソくらえだ。まずは保身で、役に立たない。
ただひとり、ふたつ年上のねえちゃんが、気づいているだろうけど。
つらくはない。哀しくもない。怖くもない。ただ、いらつく。毎日毎日、僕はいらいらしている。軆の傷は確かに痛むけれど、心までは犯されていない。
僕には、ちゃんとはけ口がある。
「もう顔見せんじゃねえぞ。お前には居場所なんかないんだからな」
そう吐いて、今日の仕事を終えた山本たちは、裏庭を去っていった。僕は泥で黒ずんだ手を握りしめ、舌打ちしながらようやく軆を起こす。蹴られた腹が重い。臆病者のあいつらは、肌が出る顔や腕には危害を与えない。
居場所なんかない? 言われなくても知っている。学校でも、家でも、僕はこの静電気がまとわりつくいらだちから解放されない。
あのときぐらいだ。そう、あのときだけは──
僕は息をつき、黒いTシャツやインディゴブルーのジーンズについた泥や足痕をはらった。いつのまにか、濃い色の服しか着なくなった。白い服だと、こういうときのあとの汚れが目立つ。
頭を振って、シャンプーの香りがかすかに残る黒髪を指で梳き、踏みつけられて頭皮にまで染みこんだ土も落とす。
校舎に手をついて立ち上がると、臑がずきんと悲鳴をあげた。そうだ、誰かは忘れたけど、ここをしたたかに蹴りつけられた。荷物持って帰れるかな、と思っても、誰かに助けを求める気なんてない僕は、そうするしかない。「クソっ」とつぶやきながら、よろよろと歩きはじめる。
暑い。九月が始まって、十日も経っていない。先週、小学生最後の二学期が始まった。気違いの悲鳴が反響しているような、蝉の声はほとんど死んだ。
足を引きながら歩く。ランドセルを教室に取りに行かなくてはならない。帰りの会が終わり、帰ろうとしたところを引きずられてきた。
今日は月曜日だ。最低だ。また五日間もこうだ。何であいつら飽きないんだろ、と倦怠感すら感じて眉をゆがめたが、土臭く薄暗い裏庭を出ると、平然とした顔を作る。
教室には、まだ残る女子がいた。僕に気づくと、具合悪そうに見て見ぬふりをする。心配して媚を振りまく女子よりマシだ。そういう女子は、山本たちのみじめな嫉妬心をあおる。
時刻は十七時になろうとしていていたが、窓の向こうはじゅうぶん明るかった。僕は黙って無数のつくえを縫い、自分の席にたどりつくと、黒のランドセルを右肩にかけて、すぐ教室を出ていった。
団地の群れに並ぶ学校から、僕の住む戸建の住宅街まで、徒歩二十分ぐらいだ。僕はゴミが落ちたアスファルトを見つめ、気だるく弱っていく陽射しのもと、黙々と歩いていく。車の騒音、すれちがう人の声、鳴くカラス、いろんな物音を無視していく。
腋や背中が汗ばみ、どこかの夕食の匂いがただよってくるようになると、いつもの住宅街だ。道路で幼い子供がはしゃぐような、開拓されて十数年しか経たない家並みのひとつに、僕は生まれたときから住んでいる。
太陽を見失い、空気が蒼暗くなりかけていた。ねえちゃん帰ってるかな、とドアノブに手をかけたが、開いていない。舌打ちしてランドセルを下ろすと、そのポケットから鍵を取り出す。
臑が熱を帯び、次第に痛みが増してきていた。早く横になりたい。
ドアを開けても、出迎える母親なんていない。かあさんは、僕が小学校に上がったときから、仕事に戻っている。とうさんの秘書だ。そのとうさんも、毎晩帰りが遅い。
僕には、両親なんて衣食住さえ与えてくれれば、ほかには用のない存在だ。むしろ、なるべくいないほうがいい。玄関に踏みこんで、ばたんとドアが閉まると鍵をかけておく。
ランドセルを左手にぶら下げて、ため息をつき、のろのろとフローリングに上がる。
静かだ。寂しいとは思わない。どうでもいい。家も学校と一緒だ。僕の居場所じゃない。リビングへのドアを通り過ぎると、階段をのぼっていく。
二階の僕の部屋は、ベッドとつくえのせいで狭い。フローリングにランドセルを、ベッドに軆を放り投げる。質素な白い天井を見つめて、またため息をついた。
臑がずきずきする。脳が連動していらいらする。早く、と思いながら、僕はまぶたを伏せた。
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