午前一時半
五時間目の体育の授業で、また辻谷はあたしに片づけを手伝うように言ってきた。日直のクラスメイトが、「ラッキー」とでも言いたげに去っていくのを、あたしは憎々しく見送る。
まだこころよい秋は遠いのか、体育館は半袖シャツとハーフパンツの体操服の肌を不愉快に蒸していた。相変わらず、体育館に誰もいなくなってから、辻谷はあたしに近づいてくる。
「このボールを片づけてもらおうか」
今日の授業は女子はバレー、男子はソフトボールだった。あたしは腕組みをして、バレーボールの詰まったかごに手を乗せる辻谷に、鋭い目を向ける。
「次の授業があるわ。遊んでやれないわよ」
「僕は君の担任だ。何とでも言える」
辻谷の無邪気な笑顔に、非難めいた眇目をしたあと、あたしはきびすを返そうとした。すると、辻谷は素早くあたしの手首をつかみ、そのまま引っ張って後ろから抱きしめてくる。
「あんたねえっ……」
もがいても、力が敵わない。汗ばんだ体操服のせいで、辻谷の体温がリアルだ。あたしは大息すると、抵抗はやめた。軽蔑をこめて、辻谷をかえりみる。辻谷は浅黒い顔で微笑む。
「いい顔だ」
「ずいぶん強引になってきたわね。あたしが物にならないのが癪になってきた?」
「そうだね。そろそろ限界だ」
「あたしをレイプすることの重大さが分かってないみたいね」
「レイプなんかしないさ。ちゃんと──」
辻谷はあたしの軆を向かい合わせ、首筋に舌を這わせてきた。あたしはつい唇を噛み、辻谷を力いっぱい押し退ける。
「あんた、最低なことやってるって分かってる?」
「つぐみが素直になればいいだけだ」
「うぬぼれるのもいい加減にしなさいよ。ほかの女子でも誘ったら?」
あたしは辻谷の足元に唾を吐き捨てると、体育館を走り出た。辻谷は追いかけてこない。校舎への渡り廊下を駆け抜け、一度振り向いてから、やっと足を止めた。
舐められた首筋を思い出して、手のひらで口元を抑える。
気持ち悪い。
本当に気持ち悪い!
だから、他人は嫌いだ。汚れている。何を考えているのだろう。あいつには自覚がないの? また心に、青痣のような嫌悪感が増えた。
廊下の壁にもたれる。天井を仰いで、肺から息を吐いて、白い天井を睨みつける。
今日はもう、辻谷の顔を見たくない。でも、授業に戻れば帰りのホームルームで会う。そして、またささやかれるかもしれない、『放課後残れ』と。
あたしは目をつぶって考えると、ひとまず体操服から制服になることにした。
この中学には、更衣室なんて立派なものはない。女子は教室で着替え、男子は廊下で着替える。もう女子たちは着替え終わって、男子が流れこんでいるかとも思ったけど、何とか間に合った。
セーラー服になると、あたしはさりげなく通学かばんを手に取って、教室を出た。そして休み時間の混雑に紛れ、しれっと学校をあとにする。
少し気分が楽になる。他人に埋もれて過ごさなくてはならない学校は、あたしには悪夢だ。
他人なんか、みんな汚い。いつからこんな体質になったのだろう。昔は近所の子と遊んだりしていた。いつしか、他人は敵だと思うようになった。あんな親を持っているのだから、外側にねじれそうなのに──もしかしたら、親があんなだから、他人なんてますます期待できないのかもしれない。
あの子くらいだわ、と思った。あの子だけは、受け入れられる。
まだ学校は終わっていないのだから、下校の道に騒がしい制服の群れはない。ひとりぽつんと目立ちながら、車道沿いの排気ガスが煙たい歩道を進む。太陽もぎらつきを失いはじめ、吹き抜ける風は涼しいことに気づく。
まだ日は長くて、明るいうちに家に着いた。いつも通り空っぽだった。ひたきもいない。
ローファーを脱ぎ、部屋に向かう。荷物を置くと、まずシャワーを浴びた。首筋を洗わないと気持ち悪い。
口づけと違って、思わず声がもれそうになった──感じてしまった。それが、すごく気持ち悪い。洗い落とすと、白いキャミソールとワインレッドのミニスカートになった。
クーラーをつけ、しばらく部屋のベッドに横たわっていた。いつもの香水が染みこんだまくらに頬を埋め、漠然といらいらしていた。
ひたきはまだかしら、とぼんやり思ったときだ。聞き憶えのある車の音がして、あたしは反射的に眉を寄せた。この車の音は──
部屋を出て階段に近づいたとき、車のドアを閉める乱暴な音がした。でも、エンジンの音は止まらなくて──運転席にひとり残っているということだ。
あたしは思わず、悪戯がうまくいったような笑みをもらした。さっさと部屋に引き返しながら、あの人たちの喧嘩は鬱陶しいけど、とドアを開ける。そうなれば、確実にひたきがあたしの部屋に来る。
あたしはつくえに歩み寄り、椅子を引いて腰かけた。あたしはつくえには、お気に入りの小説が並んでいる。その中から一冊選びながら、ひたきとの関係について考える。
今年の初夏だった。まだ半年も経っていないのだ。あたしは辻谷のことが、とにかくうざくてたまらなかった。まだあたしに関わってこようとするクラスメイトもいた。教室でつくえに頬杖をつき、去年一年かけてやっと外れたのにと苦々しくなりながら、このいらだちをどう吐き出すかに悩んでいた。
ひたきもいらいらしてるみたいね、と思った。あの子は繊細だから、あたしみたいに親の喧嘩を無視できずにいる。それに、最近夏服になって気づいたけど、綺麗だった白皙に傷や痣がある。イジメに遭ってるのかしら、と小さく爪を噛む。
まともに会話しなくなって久しいけど、たまに見かける瞳は、ずいぶん黒くなった。助けてやろうとは思わないけど、ただ、あの子とは他人じゃない。辻谷やクラスメイト相手のように、嫌悪は感じない。だとしたら、辻谷に触れられて吐きそうになっている心をなだめられるのも、あの子なのかも──
初めは、何を考えてるのと冷静になろうとした。だけど、その考えは何日経っても振り落とせなかった。
そのあいだにも、辻谷は迫ってくる。昨日は抱きすくめられて、スカートの中に手を入れられた。入口に触れられる前に、ゴキブリを殺すみたいに足を踏みつけてやったけど。
汚れていく。他人が感染してくる。こうなってしまったあたしの心身を、消毒してくれるのは──……
だから、あたしは、ひたきの部屋のドアを開けたのだ。
──そのとき、背後で乱暴をドアノブをまわす音がした。本を開きつつも読んでいなかったあたしは、ゆっくり振り返った。もちろんひたきだ。先生に怒られたような、とびきり機嫌の悪い顔をして、笑ってしまいそうになる。
「どうしたの?」
ひたきは『分かっていないのか』とでも言いたげな、刺々しい眼を突き刺してきた。
「帰ってきてる」
「知ってるわ。うるさいわよね」
言いながら笑いそうになったので、あたしはつくえに向き直った。すると、ひたきは足音を立ててこちらに来て、あたしの髪をぐしゃっとつかんで引っ張る。
「分かってんだろ」
あたしは息をつき、まずその手をはらった。そして本を置くと、回転椅子ごとひたきを向く。もう笑いをこらえられなくて、ひたきはあたしの笑みを不愉快そうに見つめる。
あたしは椅子を立った。ひたきの身長は、いつのまにかあたしに追いついている。あたしは笑みをやわらげながら、ひたきの首を腕をかけた。
「したいの?」
【第五章へ】
