MIDNIGHT-10

午前三時半【2】

「先生、あの──」
「転校初日はどうだった?」
「え、あ、まあ楽しかったですけど。ていうか、つぐみ──」
「ああ、こいつはちょっとしかっておこうと思ってな」
「一時間目のことですか」
「まあな」
「じゃあ、俺のことをしかってください。話しかけたのは俺だから」
 辻谷は、笑顔の中にかすかに迷惑そうな色を混ぜる。かのはは、たぶんそれには気づかず、切実に辻谷を見上げている。転校初日から、しかってくださいなんて──物好きもいたもんね、とあたしはあきれる。
「君はすぐ列に戻ったから、問題ない。こいつは戻らなかっただろう」
「でも、」
「気にするな。そんなにきつく絞るつもりはない。注意程度だ。──行くぞ」
 辻谷はあたしをうながし、あたしは椅子をつくえにしまって、ふたりのあいだに踏み出す。
「つぐみ」
「大丈夫よ。慣れてるから」
「な、慣れてるって」
「早くしろ」
 辻谷はかのはに向けられない棘をあたしに向けてくる。かのははまだ食いつきそうだったけど、歩き出した辻谷についていくあたしを追いかけてくることまではしなかった。
 変な奴に育ったわね、と天井を仰ぎたくなる。
 生徒指導室は嫌いだ。軽い指導なら手前に置かれた席に着けばいいが、長びく場合は奥の座敷に連れこまれる。辻谷はもちろん座敷を選んだ。
 上履きを脱ぎ、座敷にあがると座布団がふたつある。お見合いみたいだ。押し倒されたらおしまいなので、あたしは特に警戒した瞳で辻谷を睨みながら腰をおろす。
「あいつは知り合いか」
 辻谷は座りこまず、腕を組んであたしを見下ろした。
「あいつとあたしの住所くらい知ってるでしょ」
「………、近いのか」
「隣よ」
 辻谷はめずらしくあの余裕の笑みを見せず、神妙な顔つきをする。それがおかしくて嗤ってやると、辻谷は苦々しく息を吐いた。
「じゃあ、昔からのつきあいなのか」
「ずっと音信不通だったわ」
「それにしては、あいつは馴れ馴れしいな」
「人のこと言えないでしょ」
 辻谷は、あたしの正面にしゃがみこんだ。多くの女子が憧れる甘い顔立ちにも、あたしは飽きた。
「あいつには、どこまで許した?」
 唐突でバカバカしすぎる質問に、噴き出してしまう。こいつが焦っている!
「プライバシーね」
「お前は俺が落とす女だ」
 つきあいきれない。あたしは両脚を座敷からおろすと、上履きを履いた。
「つぐみ」
「名前で呼ぶなって、何度言えば分かるの」
「つぐみにあんなガキは似合わない」
「嫉妬?」
 あたしはかばんを手にして立ちあがり、辻谷をせせら笑った。辻谷はおもちゃを取られた子供のようにあたしを睨み、腕をつかもうとする。あたしはそれを逃げると、「あたしにかのはが似合わないっていうのは気に入ったわ」とつくえに指をすべらせながら言った。
「でも、だからって、あんたがあたしに似合うわけでもないわよ」
 あたしは扉の鍵を開けると、座敷にひざまずいたまま、初めて悔しそうにしている辻谷を置いて、生徒指導室を出た。
 ほんと迷惑な奴、と胸でつぶやきながら、靴箱まで廊下を歩いていく。勘違いもいいところだ。それに、もっと泰然としていると思っていたら、男子生徒と少ししゃべったくらいで嫉妬なんて。
 あたしが思っているよりずっと、辻谷は頭が悪いみたいだ。嗤ってやりたいような、ため息をつきたいような気分になっていると、靴箱に到着した。あたしは、自分のクラスの靴箱に進もうとして足を止めた。
 あたしのクラスの靴箱がある棚には、女子にちらちら見られながら、かのはがもたれかかっていた。真新しい上履きを見つめていて、あたしには気づかない。
 目的は、訊かなくても分かった。何でこう、次から次へと──
「かのは」
 あたしの呼びかけに、かのはははっと顔をあげた。すぐに心配そうな顔になり、一瞬、その顔が意地を張りすぎて泣きそうになったあたしを覗きこむ、幼い頃の彼の顔とダブった。つい動揺して突っ立ってしまうと、かのははあたしに駆け寄ってくる。
「大丈夫だったか」
「え……あ、ああ、うん」
「ごめん、俺のせいで」
 あたしはかのはを見上げた。かのははあたしの目を見られないくらい申し訳ないらしい。うつむいたままだ。
「かのは」
 再びゆっくり呼ぶと、かのはは肩だけ揺らす。
「……俺、」
「気にしないでよ。気にされるほうが鬱陶しいわ」
「つぐみ……」
「慣れてるって言ったでしょ」
 かのはは、ようやくあたしを見た。その死にそうな子犬を見守るような不安げな瞳の純真さに、今度はあたしが視線をそらす。
「呼び出しなんかに、慣れてるのか」
「まあね」
「何でだよ。何でそんなに変わっちまったんだ」
 あたしは、かのはの上履きと違って、薄汚れた自分の上履きを見つめた。
 何でなんて、そんなの考えたこともない。
 いつのまにかだった。いつのまにか変わっていた。知らないうちに他人をバカにするようになっていた。辻谷に遭って嫌悪もするようになった。
 何で、なんて……
「気に障ったらごめん。……家のことが、つらいのか」
「……家は気にしてないわ」
「そっ、か。何か、ひたきも変わったよな」
 どきりとして、その揺らぎが顔に出ないように取り繕う。何だろう。なぜひたきの話でぐらつくのだろう。あたしとひたきに、間違ったことなんてない。
「ひたき……は、気にしてるみたいね。あの子は繊細だから」
 舌がなるべくつっかえないようにしながら答えると、「そうか」とかのはもうなだれたのが見えた。
 あたしは何となく視線を感じて振りむき、喉元をひくつかせた。職員室のドアを開こうとしている辻谷がこちらを見ている。
 あたしは急いでかのはの腕を取り、犬に見つかった猫のように靴箱に踏みこんで辻谷の視界を外れた。
「な、何」
「これ以上、あたしに近づかないほうがいいわ」
「え」
 あたしは自分のクラスの靴箱の前で立ち止まる。絶対にクラスメイトと打ち解けないあたしが、転校生なんかと口をきいているのを、訝るクラスメイトがいくらかいる。
「かのはまで辻谷に目をつけられる」
「辻谷って、担任?」
「そう。お願いだから、あたしに近づかないで」
「そんな、」
「転校初日から担任に目をつけられるなんて、ごめんでしょ」
「俺は平気だよ」
「あのねえ──」
「そんなことよりつぐみが、」
「いい? あたしに近づかないで。約束よ。じゃあね」
 強引に言うと、あたしは素早く上履きとローファーを履き替え、その場を走り去った。かのはの声が聞こえた気がした。無視して校舎を出た。
 外は制服の群れがざわめき、かたむく直前の陽射しの中、ひんやりとした風が吹いている。
 かのは傷ついたかな、と思った。思ったけど、それでいいじゃない、と思い直した。いっそ嫌われたほうが、あたしは守られる。他人なんて嫌だ。鬱陶しい。みんなみんな、いなくなってしまえば──
 かのはに追いつかれないよう、小走りで帰路をたどった。家に着いた夕暮れ時には、わずかに息がはずんでいた。汗ばんで、少し暑い。
 夕食の支度の匂いがただよいはじめても、近所の子供たちはまだ遊んでいる。冷たい門に手をかけ、一度振り返った。かのはのすがたはない。ほっと長息したあと、無意識に車がないのを確認し、玄関に向かう。通学かばんから鍵を取りだした。ドアを開けると、ひたきのスニーカーがある。
 ひたき。帰ってきているのか。
 あたしは鬱した息をつく。なぜだろう。疲れたせいだろうか。ひたきを誘おうと思えない。ひたきが来ても応えたくない。何にもしたくない。
 ここに座りこんでしまいたいくらいだったが、さすがにそれでは酔っぱらいみたいなので、ローファーを脱いで家に上がる。ひたきに気づかれないよう、静かに部屋に行くと、あたしは着替えもせずにベッドに倒れこんだ。

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