午前四時半【1】
あたしはローファーに足をさしこみながら、ちらりと隣のひたきの汚れたスニーカーを見た。
十月も下旬に入ろうとしている。短い雨季を過ぎて、気候はすっかり秋になり、季節はあたしが四季の中で一番好きな心地良さになった。
爪先をとんとんと整えながら、まさか行かなくなるなんてね、と思った。ひたきはプライドが高いから、そういう方向には走らないと思っていた。分からないものね、とあたしはドアを開けると、いつも通り学校に向かう。
ひたきが学校に行かなくなって、もうすぐ二週間経つ。登校拒否が悪いとは思わない。異常だとも思わない。あたしのクラスにだっている。ただ、ひたきには似合わない。
とはいえ、最近のあの子をあたしは知らない。イジメが急激に加速したのかもしれない。ほかに何かあったのかもしれない。しかし、妥当に考えれば、あたしのせいだ。
気が向かない日が続いて、ひたきの部屋に行かなくて、ひたきがやってきても応じなくて。何だかだんだん、ひたきとどう関わればいいのか分からなくなった。要するに、あたしはひたきを避けていた。
だから、学校に行きたくないというより、部屋を出たくないのかもしれない。
ひたきは、少なくともあたしがいるときは、部屋を出なくなった。朝起きたり、学校から帰ったりしたら、ダイニングに用意していた食事を済ましているから、引きこもりではないと思う。洗濯するときに気づくが、かごには脱がれた服や使ったタオルも放りこまれている。
今のあの子にとっての問題は、両親に登校拒否を知られたことだろう。さすがにあの両親も蒼ざめ、なるべく帰宅してひたきの話を聞こうとしている。それであたしの部屋来るかしら、とも思ったけど、ひたきはあたし以上に徹底的にあたしを避けている。
何だか、姉と弟であんなことしていたなんて、白昼夢のようだ。
「つぐみ」
あたしは、いつのまにか太陽に背いていた顔を上げた。かのはだった。
まったく、こいつと言い、辻谷と言い、なぜ他人はこんなに粘着なのだろう。
辻谷にキスは許したように、かのはにもいらいらするのに飽きたので、学校以外で話しかけられるのは許している。そのお許しに気づいたのか、かのはも学校では話しかけてこない。
「おはよう」
「はよ。ひたきは?」
「まだ登校時間じゃないわ」
「え、じゃあ──」
「降りてきてなかったけど」
かのはは息をつき、「そうか」とうつむいて黒髪を秋風になびかせる。あたしの香水もその風に乗る。一週間ぐらい前、「何かひたきの顔見ないけど」と言われ、ひたきの登校拒否はかのはには話していた。
「あのさ、つぐみ」
「行かないと遅刻するわ」
「一緒に行けないだろ」
「そうね。だからさっさと話してちょうだい」
「………、ひたきのことなんだ」
かのはの表情は、雨雲のように気詰まりそうで、話していいのか迷っている感がある。
ひたきのこと。
あたしは通学かばんの持ち手をつかみ、歩き出した。
「お、おい、」
「止まって聞いてたら遅刻するわ」
「でも」
言いながら、かのはもついてきている。
「辻谷に見られなければいいわよ」
「ほんとに」
「早くして」
あたしに一瞥されると、同行許可を理解して、かのはは誕生日を迎えた子供のように咲った。ほんと単純な奴、と思っても、口にはしないでおいてやる。
「ひたきが学校行かなくなったのって、俺のせいかもしれない」
「は?」
「っていうか、俺のせいだ。たぶん」
「どっちよ」
「あ、いや、うん。俺のせい」
あたしの怪訝の瞳に、かのはは垂れた髪に顔を隠す。
「何で。あの子はあたしが──」
あきれたまま言いそうになって、慌てて口をつぐむ。肉体関係を拒んだからなんて言えない。かのはにあたしの緘口を気にする様子はなく、それより告白してしまった混乱に必死な様子だ。
「二週間くらい前、俺、六時間目サボって帰っただろ」
「あったわね」
辻谷に「何か知らないか」などとかこつけて呼び出されたので、よく憶えている。
「あの日、俺、ひたきに会ったんだ」
「……どうして」
「………、何か、ストーカーみたいだけど。つぐみとひたきが変わった理由が知りたくて。お前は今より話してくれなかったから、ひたきなら話してくれるかなって」
「あの子は、あたし以上にしゃべらないわよ」
「うん……。あの日、ひたき、怒って先行っちまったんだけど。家の前で突っ立っててさ。声かけても返事しなくて。見てみたら、泣いてたんだ」
「泣いてた?」
突拍子もない情報に、あたしは眉を寄せる。
泣いていた? あのひたきが?
「俺、自分の何が悪かったか分かんねえけど、きっと俺の言った何かが、」
「ちょっと待って。あの日って雨だったでしょ。涙じゃなくて、その雨とか──」
「いや、ひたき、ちゃんと傘さしてたし」
あたしは思わず立ち止まって、顔を伏せた。周囲には、いつのまにかあたしたちと同じ制服の子がちらほらしはじめている。
ひたきの涙なんて、十年近く見ていない。それが、いきなりかのはの前で涙を見せた?
ありえなくて、迷子になったようにとまどってしまう。あたしの困惑に、かのはは余計、罪悪感を刺激されたようだ。
「つぐみ、俺、」
「違うわ」
「え」
「たぶん、かのはのせいじゃない」
「え……」
「それとも、あの子にきついことでも言ったの」
「いや、言ったつもりは──。あ、けど、触ったらすごい嫌がられた」
「触った?」
「変な意味じゃなくて。先行こうにしたのを、肩つかんで止めたら」
「肩……」
あたしは情交のときのひたきの軆を思い出した。白い肌は、赤い傷だらけ、青い痣だらけ──
「あの子、学校でイジメられてるのよ」
「えっ」
「たぶん嫌がったのは、その傷に触ったとかそんなのよ」
「い、イジメって」
「かのはには関係ないわ。でも、ありがとう。そろそろ別々に行かないと」
「ちょ、ちょっと待てよ」
「あんたには関係ないって言ったのよ。あたしが今夜、ひたきと話すわ」
「おじさんたちはイジメのこと知ってるのか」
「知るわけないでしょ。だから、あたしが直接ひたきと話すの」
「そ、そうか……」
「もう首突っ込まないでね。あたしたちの問題なんだから」
かのはは再び哀しそうな色を見せたが、イジメと言われては自分の領分ではないとわきまえたのか、うなずいた。「じゃあね」と残すと、あたしは先に制服の中へと歩き出した。
ひたきが泣いた。やっぱり、あたしのせいだ。あの子はいつもいらいらしていた。はちきれそうに。あたしと寝たあとだけは、幼い子供に戻って、胸の中にうずくまっていた。
蛾みたいだ、とも言っていた。明るいところには行けないから、夜の暗闇で光を求める。姉弟の背徳があの子の糧で、言い過ぎれば、支えだったのだ。
それを、気が向かないとかよく分からないあたしの理由で、剥奪されて──ついに、はちきれた。
あたしにも、ひたきとのセックスはそうだった。辻谷に迫られたら、気持ち悪くて気持ち悪くて、ひたきに同じ血を求めた。そう考えて、辻谷が迫ってくるのが減っているのに気づく。
なくなったわけではないが、それはかのはがいなかったり、友達につかまったりしているときで、そんなとき以外はかのはがお節介を焼いてくるのだ。本当に呼び出すまでのことか、とか、今日は何もしていないはずだ、とか。
あんなに邪慳しているのに、かばってくるかのはも不気味だったが、辻谷が与えてくる不快感ほどではなかった。おかげで、あたしはひたきとの関係が必要なくなっていた。
予想以上に、あたしはかのはに影響されているらしい。何でよ、と唇を噛みしめた。ずっとあたしのそばにいたのは、ひたきだった。あたしが受け入れられるのはひたきだけだ。ひたき以外の人間は、得体の知れないゴミクズだ。
かのはだってそうだ。昔は仲が良かったけど、好きだったけど、現に数年間もあたしを放置していたではないか。
あたしの支えもひたきだ。かのはじゃない。それさえ、あの子に伝えれば──
しかし、こんな日に限って、ついていない。辻谷にいいように使われる、日直だったのだ。体育の授業はなかったけれど、プリントを職員室まで取りにこいだの何だのと、あたしとの時間を作ろうとする。プリントを受け取るとき、「いい加減にしてよ」と目も見ずに言ったら、ほかの教師に顰蹙されて、辻谷は愉快そうに譏笑していた。
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