離れててもつながってるなんてあるかよ

 たぶん、今、世界は終末に直面しているのだと思う。
 この世の終わりは、核戦争でも宇宙人襲来でもなく、突然現れたウイルスのパンデミックだった。
 激痛をともないながら、細胞が壊死していくそのウイルスは、空気感染するので、あっという間に人類の九割以上が侵された。そして、ほんのわずかな感染前に保護された人間──「陰性者」は、かすかな人類存亡の光として、徹底的な無菌室に隔離された。
 感染経路なんて、もう分からない。普通の高校生として過ごしていた僕は、身を守るヒマもなくすぐウイルスに感染し、左腕から麻痺が始まった。
 早くやっておかなくてはならないことを考えて、真っ先に繭美まゆみに会っておこうと思った。
 繭美は、幼い頃から心臓の病気で入退院を繰り返している僕の幼なじみだ。パンデミックの渦中も入院していた。それが幸か不幸かで、繭美は世界でも希少な「陰性者」となり、無菌室に厳重に閉じこめられている。
 感染している僕は、もちろん面会なんて許してもらえなかった。
 それでも、僕が会いにきたという話を耳にした繭美は、ガラス越しでもいいから会いたいと言ってくれた。医者たちはだいぶ渋ったようだけど、僕に会えないくらいならみずからウイルスに感染する、と繭美は医者たちを脅したらしい。
 医者たちも、無論とうに感染している人間ばかりで、繭美に接するときは防護服を着ている。その防護服に針一本の穴でも開ければ、繭美もウイルスに感染できるのだ。
 防護服は貴重なので貸し出せないということで、普段の繭美への問診に使うという、ぶあついガラスに仕切られた無菌室に面した白い部屋に、僕は案内された。
 久しぶりに会えた長い髪をおさげにした繭美は、肌は蒼白かったけど、澄んだ瞳や桃色の唇は確かにウイルスに感染していない証拠だった。僕は左腕の痛みが進行していて、毎晩、肩から腕をもぎ落とす妄想をするせいで、特に目が濁っている。
 そんなふうに、このウイルスは思考回路や雰囲気まで毒してくる。
「一度でいいから、康太こうたとデートとかしたかったなあ」
 その声は、繭美自身は目の前にいるのに、ガラスが音すら通さないのでオンライン経由で聞こえてくる。僕は繭美の長い睫毛を見つめ、そのうちできるよ、とも言えずにうつむいた。
「ねえ、康太」
 僕は顔を上げ、はっと息を飲んだ。繭美が涙で頬を濡らしている。
「私、毎晩、男の人とセックスしてるの」
「……えっ」
「この病院に隔離されてる、同じように感染してない男の人と、……させられるの」
「な……んだよっ、それっ」
「今はそれしか、人類を絶やさない方法はないって。人工授精とかじゃ、空気も汚染されててうまくいかないんだって」
「ふざけんなっ、繭美の気持ちはどうなるんだよ。それに繭美は心臓の負担だって──」
「………、いつも、『これは康太だ』『私、康太に抱かれてるんだ』って」
「繭美……」
「ほんとは、康太としたかったよ」
 左肩の筋肉がいびつにきしみ、ああ、と思った。そういえば、さっきから左手の感覚がないかもしれない。
 このウイルスで死ぬとしたら、ふた通り。全身に壊死が行き渡る。あるいは、心臓にウイルスが入りこむ。僕は心臓に近い左上半身から発症したから、心臓をやられる可能性が高いとは言われていた。
「ねえ、私、そう思ってていいよね」
「えっ」
「私はいつも、康太としてるんだよね。お腹に赤ちゃんができたって、それは康太との子供だよね」
「繭美……」
「そう思わせてほしいの……じゃないと、頭がおかしくなりそうだよ」
 そう言ったきり、繭美はただ泣いていた。僕はずきずきしてくる左肩を抑えながら、どう言ったらいいのか必死に考えて、「僕、」と口を開く。
「自分でするときは、繭美のこと考えるから」
 繭美は濡れた睫毛を上げて僕を見る。僕は情けない笑みしか浮かべられなかった。
「繭美も……僕で、してよ。そしたら僕たち、つながってると思うから」
「つながってる……」
「触れなくても、離れてても、つながってるから。僕の軆じゃなくても、……僕、だから」
「……うん」
「そばに、いるよ」
「康太……っ」
「大好きだよ、繭美」
 繭美が何か応えようとしたときだ。ガラス越しの部屋のドアが開き、防護服を着た医者が繭美を連れていった。
 僕の背後にも、僕をここまで通した医者がやってきて、「あの子が話したことは内密にお願いしますね」と言った。僕は唇を噛んで、神経を逆撫でられるような不快感で痛む肩をつかんだ。
 それから一週間もせず、やはり心臓をウイルスに一気に蝕まれて、僕は死ぬことになる。僕が死んだことは、繭美にだけは伝わらないようにしてほしいと、死の直前に友人に懇願しておいた。家族はすでにウイルスで亡くなっていたので、友人に伝えるしかなかった。
 今夜も繭美は、「陰性者」の男に抱かれるのだろうか。
 そして僕を思い出し、錯覚に溺れるのだろうか。
 かけはなれた僕に、その見知らぬ男を介して、愛されていると──
 そしたら僕たち、つながってると思ったけど……ああ、やっぱり遠いな。
 だって僕たちは、お互いの体温も知らないままじゃないか。
 そうだ、本当は分かっていた。離れててもつながってるなんて、そんなのあるかよ。

 FIN

error: