青く残る

 もし、紗衣さえのことが好きじゃなかったら、終わりなんて来なかったのに。
 どうして好きになってしまったのだろう。小学校から高校まで同じ学校で、不思議と同じクラスも多くて、俺たちはいい親友だった。
 なぜそこに留まらなかった? なぜ、恋なんていういつか終わりが来るものに踏みこんでしまった?
 中学二年生、あの日も梅雨の最中だった。紗衣と俺は同じクラスで、深い意味もなく一緒に靴箱にまでやってきた。雨音が薄暗い校舎内に響いている。そのとき、すでに紗衣の傘は友達にパクられていて、その代わり、俺と相合い傘でもして帰れというハートマーク付きのメモが靴箱に入っていた。
「はあ!?」と俺と紗衣は声を合わせ、顔を合わせた。
「え……えーっ」
「いや、そんなんしないからな」
「は? そしたらあたし、どうなんの」
「頑張れ」
「何をだよ。しょうがないな、入ってやるから、傘」
「相合い傘って……あれ、地味に濡れるだろ」
「やったことあんのか」
「ないけどな」
「女子が濡れなきゃ、相合い傘成立なんだよ。お前は濡れろ」
「いや、お前がひとりで濡れて帰れ」
「いいじゃん、いい想い出じゃん」
「……ったく、しょうがねえなあ」
 その日、ちょうど俺は新しい傘を下ろしていた。空色に近い青の無地の傘だった。前の傘は先日ジャンプが壊れ、この時期に傘は不可欠なので、すぐ親と買いにいった。そして、開くとそこだけ青空になるようなこの傘が気に入って、迷わず購入してもらった。
 その傘を開いて「おー、綺麗」と感嘆した紗衣を入れて、俺たちは強めに降りしきる雨の中に歩き出した。
 湿気がむっとして、一瞬にして俺の右肩は濡れた。が、同時に紗衣の左肩もざーっと濡れた。
「ちょっと、ぜんぜんダメじゃん」
 ふくれっ面をしてきた紗衣に、「文句言うなら出ろ」と俺は傘を自分のほうに引き寄せようとした。
「わっ、ここでそれはないでしょ!」
 そう言って、紗衣が青く映る傘の中に飛びこんで、俺にしがみついてきた。その瞬間、軆の左側に伝わった柔らかさに思わず立ち止まってしまった。
 胸。腕。髪。
「やべえ」とか言って、紗衣は俺を気にせず、軆に打ちつけた雨をはらっている。
 匂いも、甘くて柔らかい。
 紗衣は固まる俺を見上げ、「何?」とかきょとんとしてきた。その声ではっとして、俺はそっぽを向いて、「何でもねえよ」とか言っていたけど──
 そのときには、紗衣が「女の子」だと気づいて、恋をしてしまっていた。
 何の願掛けか分からないけど、高二になった今でも、その青い傘を使っている。この傘を使っていると、よく紗衣と相合い傘ができた。
 梅雨はもちろん、夏の炎天下、冬の雪の日、いろんなときにこの傘が紗衣を俺に近づけてくれた。雨の日にそうしたときは、よく一緒にその青さに晴天を見て、「早く晴れないかなあ」と話した。
 今日もそうやって、雨の中を紗衣とひとつの傘で歩いてきた。俺はいったい、いつ紗衣に手を伸ばせばいいのだろう。手をつなぐ? 肩を抱く? すぐにできる距離なのに、なかなか手が伸ばせない。
 そんなふうにぐずぐずして、三年も経ってしまった。駅に着いて腕時計を見た紗衣は、「よかった」とつぶやいた。
「え」
「あ、あたしここまでね。中の本屋行ってなきゃ。待ち合わせしてるの」
「友達?」
「んーん、彼氏」
「かれ……しっ? はっ?」
「あー、あたしにもそれくらいできますー。そういう歳ですー」
「嘘だろ」
「あんたにそんな意味ない嘘つかないっての。今度紹介もするからさ」
「え、……いや、それは気にしなくても」
「そう? って、まあ告られてOKして、おとといできたんだけどさ」
「おととい……」
「うん。そういや、あんたとこうやって一緒に傘入ったりするのも、もうまずいのかなあ」
「……まずい、だろうな」
「だよねっ! じゃあ、こういうの今日がラストね。今まで、いつも入れてくれて、ありがとうございましたっ」
 頭なんか下げる紗衣を見て、俺は何とか咲った。
 紗衣はすごくかわいい笑顔をしていた。その笑顔が、俺のものではないことに血の気が引いた。
 おとといって。俺は何年、こいつの隣にいた? もしおとといより早く俺が告っていたら、そしたら、どうなっていた?
 紗衣が行ってしまっても、茫然と駅の軒先に突っ立っていた。すぐ目の前を、銀の雫が幾筋も伝っている。それに合わせて俺の頬にも雫があふれて流れてきた。
 塩味が舌に溶けた。終わった。終わったのだ。俺の恋は、届きもしないうちに終わってしまった。
 今日もあの日のようにむっとして少し暑い。雨音が鼓膜を圧迫し、アスファルトの濡れた匂いがただよっている。
 紗衣、ごめん。親友なのに。ごめん、好きになったりして。そのせいで、俺はもうお前の顔が見れそうにないよ。本当に、本当に、こんな親友でごめん。
 濡れた視界で天を仰いだ。曇り空が一面に広がっている。何度もこの傘をフィルターにして、ふたりでそこに青空を見た。
 もう決して、俺の恋は叶って幸せに晴れあがることはないのに。
 一緒に願った青さだけ、目に沁みて残っている。

 FIN

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