月の道

『月が夜の海に映って、きらきらと道のように輝いていました。
「あの道を歩いていけば、一生幸せでいられる国に行けるんだよ」
 そう言ったあの子は、触れたら枯れてしまう花のようでした。』
 ──そんな場面があったあの絵本を読んだのは、まだあたしが六歳で、あの港町にいた頃のことだった。あたしを本当の妹のようにかわいがってくれた、お隣の部屋の圭司けいしおにいちゃんが読んでくれた。
 確か絵本の中で、主人公と「あの子」はその道を渡らなかったように思う。だから最後はお別れすることになって、「どうして、幸せになれる方法が分かってるのにそうしないの?」とあたしが首をかしげると、「何でだろうなあ」と圭司おにいちゃんは煙草に火をつけた。
 そのとき、圭司おにいちゃんはまだ十歳くらいだったけど、慣れた手つきでよく煙草を吸っていた。あたしが「吸ってみたい」と言うと、「こんなもんやめとけ」と言うのに、自分はやめない。
 波の音がいつも聴こえるその町は、場末の飲み屋街が連なっていた。夜になると、その通りはオレンジ色に染まって、笑い声や叫び声があふれる。
 この町の女の人は、みんなその飲み屋街で働いている。そして、男の人はその稼ぎをもぎとって暮らしている。わずかにまじめに漁師として働く男の人もいたけど、本当にわずか。ほとんどは、好きでもない女の人を殴って、その稼ぎを奪って、その金で気に入っている女の人を買う。
 だから、綺麗な女の人はお金が貯まると、そのままこの町を逃げた。
 圭司おにいちゃんのママもそうだった。だから、圭司おにいちゃんは、一緒に町に取り残されたおねえさんの稼ぎで暮らしていた。あたしの家にはママがいなくて、パパはご多分にもれず、どこかの女の人から奪ったお金で生きていた。
 あたしにまわってくる生活費なんて小銭程度で、いつもお腹が空いていた。そんなあたしに、お弁当やお菓子を分けてくれるのも圭司おにいちゃんだった。
 圭司おにいちゃんは、お人形のように綺麗な容姿をしていた。長い睫毛、くりんとした黒い瞳、すべすべの白い肌に、華奢な軆。
 やがて、隣の部屋で圭司おにいちゃんの喘ぎ声が聞こえる夜があるようになった。パパがのしかかった女の人があげる声と同じだった。
 圭司おにいちゃんが五十万円稼いだのはまもなくのことで、ある夜、そのお金をそっくりあたしに持たせた。
「これ持って、この町から逃げろ」
 お金をつめこんだ小さなリュックをあたしに背負わせて、圭司おにいちゃんはそう言った。
「え……っ、け、圭司おにいちゃんは?」
「俺はここで、どうやってでも生きていけるから。でも、希子きこはこの町の女みたいにならなくていい」
「圭司おにいちゃんも一緒じゃないの?」
「俺はもうダメだ」
「何で? あたし、圭司おにいちゃんとじゃないと──」
「この金をどうやって稼いだかは、もう分かってるだろ……俺はこの町で生きていくしかない」
 あたしは、圭司おにいちゃんの睫毛が震えるのを見つめた。それでも、と言おうとした。
 そのとき、「用意できたぞ」と見知らぬおじさんが玄関に顔を出した。「ありがとう」と圭司おにいちゃんは答え、そのおじさんにあたしを引き渡した。そのおじさんからは酒のにおいでなく、強い潮のにおいがして、この町のわずかな漁師さんだと分かった。
 あたしは何度も振り返った。圭司おにいちゃんは、ずっとあたしを見送っていた。
 あたしはそのおじさんの漁船に乗って、港町を出た。
 月のない夜で、やや湿気た海はひたすら暗かった。強い海風のにおい。揺れる漁船に、あたしは手すりをつかんで、ぽろぽろと泣いた。こんな暗い海を渡っても、幸せにはなれないと思った。
 行き着いたのは、あの港町とは違う整備された港で、あたしの親戚だと名乗るおばさんが迎えにきていた。
 あたりが蒼白く染まった早朝だった。
「希子ちゃん?」と確認され、ぎこちなくうなずくと、「うちの妹がごめんねえ」はそのおばさんはあたしを抱きしめた。「弥子やこちゃんのおねえさんかい」と漁師のおじさんが言って、おばさんはうなずいた。
 ヤコ。うっすらとした記憶だけど、パパが口走っていたママの名前だ。
 おばさんはおじさんに頭を下げて、あたしの手を取って歩き出した。あたしは恐る恐るおばさんを見上げた。おばさんは何も言わず、近くに停めてあった車の助手席にあたしを乗せると、自分は運転席に乗りこんだ。
「お金は?」
「……えっ」
「お金、持ってるでしょ」
 おばさんの急に冷たくなった声に、身をこわばらせながら、あたしは背負ったままだったリュックを渡した。おばさんはリュックの中身を確かめて、お菓子はあたしに投げて返したけど、札束はつかみだすとすぐ数えはじめた。
「弥子はほんとにダメな子でねえ」
 おばさんはうんざりした口調で言った。
「高校生で妊娠して、生むって聞かなくてそのまま家出して──それが、何年か前に顔を出して、金貸してくれなんて。追い返したけどね。そしたら今度は、あんただよ。あの男の子も、どうやってうちのことを割り出したんだか」
「け、圭司おにいちゃんが、あたしのこと……」
「そうだよ。……はあ、一応確かに五十万はあるね。ほんとは百万は欲しかったんだけどね」
 あたしはおばさんの横顔を見つめていて、その視線に気づいたおばさんは、虫唾が走るように眉間に皺を寄せた。
「弥子は、あたしの彼氏も寝取るような妹だったからね。あんたのことも、かわいがるなんてまっぴらだから」
 じゃあ、何で──
 そう言いたかったけど、つっかえて声が出ないあたしに、「旦那が中学生に手を出して、その子が警察に訴えを出す前に金がすぐに必要だったし」とおばさんは乱暴にエンジンをかける。
「十一歳だろ? あんたがいりゃ、それで旦那も満足なんじゃないかと思ってね」
 あたしは唇を噛んで、すでに動き出していた車から飛び降りようとした。すると、「何やってんだい!」とおばさんはあたしの腕をぐっとつかんでくる。
 あたしは首を振って泣き出しながら、「死なせて!」と半開きのドアからわめいた。おばさんは舌打ちして車を停め、あたしを引っぱたくと腕を伸ばしてドアを閉めた。
「あんたは捨てられたんだよっ。弥子からも、あの男の子からだってねっ。帰る場所もない無能なんだ。うちでおとなしくしないなら、何とでも言って施設にぶち込むよっ」
 あたしは急にこみあげる嗚咽のせいで息切れしながら、おばさんを睨んだ。おばさんはまた舌打ちすると、「ほんとろくでもないね」とつぶやいて、車を発進させた。
 あたしはお腹を抱えるようにして、うめいて噎んだ。捨てられた。圭司おにいちゃんからも。だったら死にたい、と思った。
 あたしは十八歳になるまで、おばさんの家で育った。学校なんてイジメられるだけだったし、家ではおばさんの夫であるおじさんに軆をまさぐられた。そんなあたしを、おじさんとおばさんの実の娘の従妹は冷ややかに見ていた。
 おじさんは、あたしのふとんに忍びこむのでは飽き足らず、お風呂のときにも入ってきて、挙句の果てはおばさんも従妹もいるリビングで触ってくることもあった。高校を卒業して、あたしはようやくその家を出て風俗で働き、寮で暮らしはじめたけど、仕事のあとはいつも吐いた。
 目標は百万円。それを持って、あの港町に帰って、圭司おにいちゃんに返すんだ。
 圭司おにいちゃんが、あの家庭の内情を知っていて、あたしをよこしたわけではないのは分かっている。あたしに、あの港町で娼婦になってほしくなかっただけなのは分かっている。
 でも、結局同じだよ。あたしは幸せになれなかった。あたしの幸せは、たとえあんな港町であっても、圭司おにいちゃんの隣にいさせてもらうこと。
 あたしは接客が下手だったし、嫌悪感で技術も上達しなかったから、なかなか指名がつくこともなくて、風俗でたった百万稼ぐのに半年以上かかった。それでも、百万貯まった。晩秋の朝、あたしはバッグに百万の入った通帳と多少の現金を突っ込んで、出勤もばっくれて寮を出た。
 ネカフェであの港町に行く方法を調べて、海側でなく山側をまわって、電車で行くこともできることを知った。店に支給されたスマホは置いてきたあたしは、その道順を手帳にメモして、その足で駅に向かった。
 あの町の記憶は潮の香りに包まれているから、山間を走っていくのは変な感じで、本当に合っているのだろうかと電車の中で思った。一番最寄りという駅も、いたって普通で静かな町並みで、いよいよ不安になった。
 けれど、山から海へとくだる道を歩いていくと、次第に一軒家やマンションよりアパートが並び、ラブホテルが続き、パブやエステが増えてきた。それがヘルスやソープになって、やがて風俗店でさえない、二階でぱっとそういうサービスをするのを兼ねた飲み屋になってくる。
 そして、潮風のにおいがしてきて、波が押し寄せる音が響いてきた。
 あたしは立ち止まって、あたりを見まわした。冷たい空気が、ちょっぴり塩からい。
 そこは確かに、あたしが幼い頃を過ごした港町だった。
「おねえちゃん、ずいぶん若いなあ」
 まだ昼間なのに、そんな男の声がすかさずかかって、あたしはそれを振りはらうと走り出す。飲み屋を突っ切った先にある、あばら家の二階建てのアパート。それを見つけると、あたしは一階の一番奥の部屋の前に立った。
 隣に父親がまだいるのかどうか分からないし、そんなのはどうでもいい。あたしはチャイムを押した。中から物音がして、がちゃっとドアが開いた。
 あたしがぱっと顔をあげると、そこには見憶えのある長い睫毛と黒い瞳の──
「……誰?」
「えっ」
 まばたきをした。あれから八年だ。圭司おにいちゃんも声変わりしているはずだ。でも、なめらかな女の声だった。だいたい男の人にしては髪も長いし、キャミソールワンピからは、覗く胸の谷間があるし──でも、顔は圭司おにいちゃんだ。
「け、圭司……おにいちゃん?」
 あたしがこわごわそう問うと、その人ははっと瞳を開いて、目を眇めてあたしを見つめなおした。
「あなた──希子ちゃん?」
「え、あっ……はい」
「……出ていったはずでしょ、圭司の手引きで」
「そう、ですけど──あたし、」
 その人はため息をついた。懐かしい、圭司おにいちゃんが吸っていた煙草の匂いがした。
「圭司はいないよ」
「えっ?」
「女と出ていった」
「え」
「何年前かなあ。今どうしてんのかも分かんないわ」
「あ、あなたは……じゃあ、」
「あー、あたしのこと憶えてない? 圭司の姉なんだけど」
「……あ、」
「かあさんの代わりに育ててやったのに、まったく、恩も何にもない弟だったわ」
 その後、あたしは少しだけおねえさんの愚痴を聞いて、アパートをあとにした。鈍器で殴られたように、頭がぐらぐらしていた。
 圭司おにいちゃん。女と出ていった。今どうしてるのか──。
 何で?
 何を信じていたの?
 あたし、おばさんに言われたじゃない。
 帰る場所もない無能だって。
 ふらふらしているあいだに、夜になっていた。あたしは港に出て、凪いで静かな海を見た。満月の光が海に映り、道のようになっていた。
 圭司おにいちゃんが読んでくれた絵本を思い出した。あの道を歩いていけば、一生幸せでいられる国に行ける。
 ああ、幸せになりたいなあ。
 あたしの人生、ずっとこんなじゃない。
 どこにも後戻りできないし。
 もう、幸せに続く道をただ歩きたい。
 絵本のふたりは幸せになれる月の道を渡らなかった。だから最後はお別れしていた。
 あたしはバッグを地面に落として、靴を脱いで、港に座ってつま先をきらきら輝く海面に浸した。ひやりとした。あたりを見まわし、誰もいないのを確認すると、そのまま海の中に降りた。深さは腰のあたりしかなかった。
 でも、進んでいけば、やがて海底に足がつかないほどになって、あたしは海に飲まれて、月の道を流されていくだろう。
 足を踏み出した。水圧が重い。でも、まっすぐ月を見つめて、その道を歩いていく。
 幸せになる。
 ただ幸せになりたい。
 どんな別れがあっても、生きていくことが本当の幸せなのだと、あの絵本は言っていたのだろう。
 でも、あたしはもう生きていけない。
 たとえ死であっても、あたしは幸せになりたいの。
 足元がふわりと浮いて、あたしは目を開いた。月の光がその目を焼いた。次の瞬間、ずぶりと軆が海水に沈んで、口の中にからすぎる水が流れこんでくる。波に喉が圧迫され、否応にも手足がもがいてしまう。でもどこにも取りつく場所はない。
 水飛沫に月光がきらめく。こんなに、綺麗なのに。残酷なほど美しいのに。月の道の中は、冷たくて、重くて、苦しくて、からくて、うるさくて──
 あたし、この道を圭司おにいちゃんと眺めていたかっただけなのにな。
 幸せの国には行けないけど、幸せだねって咲いたかったのに。
 ──海に飲まれたあたしの軆は、沖にさらわれて、結局どこにも行けなかった。ただ死体になって、やがて沈んで、魚たちに蝕まれて、跡形もなくなった。
 どんなことがあっても生きていく。その道を選ばなかったあたしが、一生幸せになれる国になんて、行けるわけがなかったんだ。

 FIN

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