朝から、今日はいつ暴風警報が出てもおかしくないとテレビが言っていた。なのに、期末考査中だからかどうか分からないけれど、私の通う中学は休校にならなかった。
確かに午前中しかないけど。台風の上陸も夕方らしいけど。普通は休校にするでしょ。
そう思いながらも、私は仕方なく雨風の中を登校して、教室で同じくどうにかやってきた友達とぶつくさした。国語と理科と家庭科。今日はその三教科で、ちょうど全部試験が終わったところで、本当に暴風警報が出たらしい。
窓に強風が体当たりする音の中、先生は手早くホームルームを終わらせて、解散を言い渡した。
靴箱を出ると、激しい雨が風にあおられて降りしきっていた。大丈夫かなあと思いながら、傘をさして雨天に出る。
びくっとしてしまいそうに、傘に雨が打ちつけてくる。向かい風に向かっているあいだは、セーラー服にまで雨粒が刺さって、冷たく濡れた布に軆が冷えたものの、まだマシだった。
急に風向きが変わって、追い風になったときだ。ぶわっと後ろから風が吹きつけてきて、「あっ、」と声が出たときには、傘が引っくり返って骨が折れてしまった。
「うそー」と泣きそうな声で言ったのと同時に、頭に肩にかばんに、豪雨が降りそそいでくる。
「最低っ」
思わずそう叫びながら、私はかばんとたたんだ傘を抱えて、家に向かって駆け出した。
もう、大事を取って休校にさえなってればよかったのに!
まだそんな愚痴を心でわめいて、家まで五分くらい、暴風の中を走った。
家に着いたら、私の惨状に驚いたおかあさんがすぐにお風呂を沸かしてくれて、熱めのお湯で軆を温めた。そのあと、ミディアムボブの髪を乾かすと、ホットココアを飲んで体内も癒やす。脱いだびしょ濡れのセーラー服は、おかあさんが洗濯機の乾燥にかけた。
「あの傘、気に入ってたのになあ」と私が何度も言うと、おかあさんはしょうがないといった感じで財布を取り出し、「台風が過ぎたら、いい傘買ってきなさい」とお金をくれた。
夕方に上陸した台風は、ひと晩じゅうひどい轟音で家を包みこんで、次の日の明け方に鎮まっていった。もちろん、その日はさすがに休校だった。
お昼にようやく雨風は静かになって、鳥の声もちらほら芽生えてきた。ルームウェアのまま一階のリビングにいた私は、サンデッキに面したガラス戸から外を窺った。
ここが田舎だからなのかどうか、台風のあとはいつも爽快なほどの青空が覗く。
「雨上がったかあ?」と同じく会社が休みになって、ソファで寝ていたおとうさんが、寝ぼけた声で訊いてくる。
「うん、大丈夫だと思う」
そう答えておいて、私は昨夜がたがた鳴って、不安をあおったガラス戸を少し開けてみた。
雨の匂いをしっとり含んだ、冷たい空気が頬を撫でる。雨も風もやんだみたいだ。新しい傘買いにいっても大丈夫かなあ、なんて逸ってしまうけど、一応、おかあさんに訊いてからにしよう。
お昼ごはんにとんこつのラーメンを食べたあと、おかあさんに傘を買いにいっていいか訊いてみた。そんなに急がなくても、と言われると思ったら、また新しく発生した台風があるらしく、「ここを通過するかは分からないけど、今のうちに買ってきなさい」と言われた。
「また台風来るのー?」と私はうんざりしたため息をつきながらも、部屋で服を着替えて、お財布の中にもらったお小遣いがあるのを確認すると、昼下がりに家を出た。
家並みの道端を歩いていると、今年初めての蝉の声が聞こえた。台風の名残で束の間涼しくても、この夏も暑いんだろうなあと思う。
空には雲さえ残っていない。陽射しが濡れた景色をきらきら反射している。
地元は本当に田舎だから、かわいい傘なんて見つからない。隣の駅まで出向いて、その町にあるショッピングモールに行く。
といっても、そこでも傘があるお店なんて、ファンシーショップか雑貨屋さんくらいだけど。もう中学生だし、ファンシーショップでキャラクタープリントの傘を選ぶのはなあ、と雑貨屋さんに行った。
そこにはやはり、ワンポイントやボーダーの大人向けのデザインの傘が置いてあった。
でも、高い。ちょっと自腹のお小遣いも合わせないといけないかも。
どうしようかなあ、と迷ったけれど、結局インディゴに白の切り替えが入った長傘をそこで買ってしまった。
期末考査が終わって、七月の第一週のあいだは天気が良かった。でも、すぐにおかあさんの言っていた台風が、また日本に接近してきた。進路変えてよー、と思ったのも虚しく、月曜日は風は強くなくても雨が降り出した。
答案用紙が返ってくるだけでも憂鬱なのに。そんなことを思いつつ、新しい傘と登校した。そして六時間目が終わる頃には、雨脚が強くなってきていた。
また傘が引っくり返ったらやだなあ、と思いながら、放課後、私は靴を履き替えて傘置き場に行った。あの新しい傘を手に取ろうとして、あれ、と首をかしげる。私の出席番号の傘立てが空いている。
何で。私、朝にちゃんとここに差したはずだけど。それでも一応、近くの傘を確認したけど、私の傘がない。
何? 嘘でしょ。まさか盗られた?
「ええー……」
完全に困った声をもらしてしまったときだ。背後で噴き出す声が聞こえて、ん、と振り返った。
そこにはクラスメイトの赤沢くんがいて、私と目が合って「あ、ごめん」と言いつつまだ笑っていた。私の情けない声がツボだったらしい。私がむすっとすると、赤沢くんは「傘忘れたのか」と私の隣に来る。
赤沢くんは、今のクラスで私と家が一番近い。別にだからと言って親しくはないけれど、私が休むと届け物をしてくれるのは赤沢くんだ。逆もそう。だから、届け物を受け取るときに、少しだけふたりで話したことがある仲だった。
「持ってきたんだけど、なくなってるの」
「え、盗まれた?」
「分かんない……」
「ビニ傘だったのか」
「ちゃんとした奴だよ」
「じゃあ、柄で間違えないよなあ。もしかしてイジメ?」
「えー、それはないと思うけど……」
「まあ、雨すごいからなあ。忘れたんで盗る奴もいるかもな」
「……買ったばっかりなのに」
「あ、あの傘、やっぱ直らなかったんだ」
「え」
「先週、槙谷の傘が風で引っくり返ってるの見た。あれは笑ったわ」
「笑ってたの!? 助けてくれてもいいじゃない」
「助けるってどうすりゃよかったんだよ」
「傘貸してくれて、自分は濡れるとか!」
「ええー……」
さっきの私の困った声を真似する赤沢くんに、私は不機嫌をあらわにして傘立てを離れた。
湿った匂いの昇降口で天を仰ぐと、あの日ほどではなくても、けっこう降っている。当然、みんな傘をさしてその中に混ざっていく。これを傘なしで突っ切っていくのは目立つ。またかなり濡れそうだし、でも、待っていて小降りになる雨でもないし。
おかあさんに車で迎えにきてもらおうかなあ、とかばんの中の電話代を取り出そうとしたときだった。
「しゃーないなあ、入れてやるよ」
赤沢くんが私の隣に並んで、傘を広げた。「は?」とその横顔を見ると、「どうせ、槙谷の家の前通るしな」と赤沢くんは私の腕を引っ張って傘の下に招く。
つかまれた腕に伝わった体温にどきっとしたものの、平静を取り繕う。肩がくっつきそうな傘の下で、赤沢くんが歩き出したので、私は慌てて歩調を合わせる。
「二週連続で台風来るっておかしいよなー」
「……私もそう思う」
「プール開きする前に、夏休み来そう」
「プール楽しみなの?」
「合法でスク水の群れを見れるしな」
「何それ。男女分かれるじゃない、どうせ」
「そばでは見れるだろ」
「男子って、水着着た女子見て嬉しいの?」
「嬉しいに決まってんだろ」
「……そうなんだ」
私は、正面の視界を切る雨糸を見つめる。
そんなもんなのか。中学二年生。確かに、そういう感覚も芽生える頃かもしれない。
「槙谷も、男の筋肉見たら嬉しいだろ」
「嬉しい……かなあ? 分かんない……」
「嬉しいと言いなさい。何か俺だけ変態みたいだから」
「別に嬉しいとまでは──」
赤沢くんは、私の腕を肘で突いた。私はすぐにやり返して、赤沢くんはその肘鉄で大袈裟によろけてみせる。同時に傘がかたむき、私の肩にざっと雨が降りこんだ。
「あ、悪いっ」と赤沢くんは慌てて体勢を立て直し、「わあ、濡れちまったなあ」と腕を伸ばして私の肩の水分に触れた。湿った布越しに赤沢くんの指の熱を感じて、また心臓がどきんと動く。
「タオルあるけど使うか」
「う、ううん。平気」
「俺は使ってないぞ」
「そこ気にしたんじゃないから」
「じゃあ、遠慮すんな」
赤沢くんはバッグからタオルを取り出し、「ん」と押しつけてくる。私は躊躇ったものの、受け取って、素直に左肩の水気を吸わせてもらった。そして、「ん」と同様に赤沢くんに押しつけて返すと、「おう」と赤沢くんはタオルをバッグにしまった。
冷たい雨の匂いの中、赤沢くんは私の家の前まで私を送ってくれた。どんどん雨は強くなっていて、「明日学校休みかなあ」とつぶやくと、「学校あったら、傘はビニ傘にしとけよ」と赤沢くんはにやりとした。「分かってるよ」と私はむくれたあと、「入れてくれてありがとう」とお礼はきちんと言う。赤沢くんはうなずき、「またな」と手を振った。
私は息を吐いて、思い切って激しい雨下に出ると、門扉を抜けてダッシュで家の庭を横切って玄関にたどりついた。一瞬だったけど、やっぱり、かなり濡れてしまった。赤沢くんを振り返ると、こっちを見ていた彼は、「ピンクだな!」と雨音に負けずに笑顔で言った。
ピンク。何となく自分を見下ろすと、桜色のブラジャーが透けていた。私は頬を熱くしながらも、「バカじゃないのっ」と言い捨てて家の中に入った。
ドアに背中を預けて、息を吐く。どくん、どくん、と心臓が跳ねて脈打っている。ぽたぽたと髪から雫が落ち、頬には熱が名残っている。
何でもないふりはしたけど、緊張した。中学生になって、あんなに男の子と至近距離になったのは初めてだった。
どきどきした。赤沢くんのほうは、平気だったのかな。
「おかえり──って、ちょっと、あんた傘はどうしたの。ちゃんと買ったでしょう」
リビングから顔を出したおかあさんが、眉をひそめる。「何か盗られてた」と私が答えると、「もう、それならビニール傘でも使っておきなさい」と赤沢くんと似たようなことを言われたので、つい噴き出してしまった。
それから、すぐに夏休みに入った。七月の頭の台風は何だったのか、狂ったように青く晴れて、蝉の声が飛び交っている。
さっき水を撒いた庭は、芝生の匂いが土の匂いに混ざって立ちこめている。そんな庭に面した縁側で、私はバニラアイスをかじっていた。早く食べないと、この茹でるような熱気に溶けはじめてしまう。指に垂れる前に急いで冷たい甘味をふくんでいると、「槙谷ー」とふと名前を呼ばれて私は顔を上げた。
私の家の門扉に、赤沢くんが寄りかかっていた。思わずどきりとしても、それは押し隠して、「何ですか」となぜか敬語で訊いてしまう。「敬語とか」とやっぱり突っこんでから、「入っていい?」と赤沢くんは門扉のかんぬきをがしゃがしゃ動かす。「いいけど」と私が言うと、赤沢くんは門扉を開けて庭に踏みこんできた。
赤沢くんは当然私服で、黒と水色のボーダーTシャツにジーンズを合わせていた。近所なのに、私服は初めて見る気がする。
さくさく、と芝生を踏んでこちらに来た赤沢くんは、縁側に腰かけた。「アイス」と言われて、「食べたいならまだあるよ」と返すと、「いる」と遠慮なく赤沢くんは答えた。
私は立ち上がり、キッチンから同じバニラの棒アイスを取ってくると、縁側で背伸びしていた赤沢くんに渡した。「サンキュ」と受け取った赤沢くんは、包装からアイスを取り出してかじりつく。「うまっ」と言った赤沢くんに少し笑ってしまいながら、隣に腰を下ろす。
「槙谷」
「うん?」
「期末の結果どうだった?」
「どう、って。普通だよ。とりあえず平均は越えた感じ」
「そうか……。俺はかなり赤点だった」
「そ、そうなんだ」
「台風がなー。あのとき、台風来てたじゃん?」
「来てたね」
「それが集中力を削いだというかだな。分からん?」
「分かんない」
「………、補習プリントが鬼のように出たんだわ」
「プリントなんだ? 学校には行かなくていいんだね」
「自力でやれっていうほうが鬼だろ」
「そうかなあ。学校行くほうが面倒だけど」
「できない奴は教えてもらわないとできない」
アイスを食べ終わった私は、残った棒をかじった。
何となく、赤沢くんが言いたいことは分かった。
「私に教えろと」
「そうなるな」
「何でそうなるの?」
「できる奴はできない奴に教える宿命なんだよ」
「宿命って。自分でやらないと、追試でまたコケるよ?」
「答えまんま教えろとは言わないし。普通にどうやったら解けるか教えろよ」
「いや、そっちのがむずかしいよ」
「いいじゃんー。相合い傘した仲だろー」
「相っ……」
「おーしーえーろっ」
「教えてくれる男子の友達とかいないの?」
「みんな、遊びじゃないから逃げていくんだよー」
ため息をついた。赤沢くんはあっという間のスピードでアイスを食べてしまう。「教科は何なの?」と私が訊くと、「槙谷様!」と赤沢くんは目を輝かせた。
「プリント、ここに持ってきてよ。部屋には入れないし」
「何で? 汚いの? 気にすんなよ」
「私が気にするしっ。ここでしかやらない」
「えー、暑い……」
ぶつくさしつつも、赤沢くんは立ち上がって、いったん私の家の敷地を出ていった。教えるなんてできるかなあ、と縁側の室内である和室のゴミ箱にアイスの棒を捨てておく。
すぐに赤沢くんはプリントを抱えて戻ってきて、ばさっと広げられた量に私は頬が引き攣った。赤沢くんって、こんなに頭悪かったんだ……。そんな失礼な本音は押し隠し、私は何枚かプリントを手に取って、解説できそうなものから赤沢くんに教えていくことにした。
一日で片づく量ではなかったので、赤沢くんは私の家の縁側に通った。赤沢くんの来訪を知ったおかあさんは、なぜか「あらあら」と嬉しそうにして麦茶を持ってきたりした。
絶対勘違いされてる、と思いつつ、それを赤沢くんに対して口にするのは何だか怖かった。肯定されたら何か困るし。否定されたら──ちょっと傷つくかも。
赤沢くんは首を捻りつつも、どうにか補習プリントを飲みこみながらクリアしていって、ついでだから私たちは一緒に夏休みの宿題も始めて、お盆に入る前に全部片づいた。
お盆は私も赤沢くんも親の実家に帰省した。私は何だか、赤沢くんのことばかり考えていた。傘に入れてもらったときからおかしいなあ、とは分かっていても、ついあのやんちゃな笑顔を思い出してしまう。
もしかして、私は赤沢くんを好きになってしまったのだろうか。けっこう、変なことも言われているのに。スク水がどうとか、私の下着がピンクとか。あんな一面も知っているのに、好きになるとか──
すんなり肯定できなかったけど、地元に戻って「みやげ」と赤沢くんにご当地お菓子をもらったとき、予想以上に嬉しくて、私は彼が好きなんだと思った。
「槙谷は?」
「えっ」
「俺にみやげないの?」
「え……と、欲しかった?」
「欲しいだろ! 普通に期待してたぞ!」
「おじいちゃんち、ここより田舎で何にもないからなあ」
「米とかでもいいぞ」
「米でいいの?」
「米あるの?」
「米はもらったけど」
「よし、米くれ」
おかあさんに頼むと、あっさりお裾分けぶんを用意してくれた。「こんなのしかあげられなくてごめんねー」と言ったおかあさんに、「米は一番大事なので」と赤沢くんは米の入った小袋を受け取る。「いい子じゃない」と笑ったおかあさんに、「変わってるよ」と私はあきれながら返した。
夏休みの後半も、私は何となく縁側で過ごした。ここにいると、赤沢くんがやってくるときがある。いつのまにか、それを待ちわびるようになっていた。
そしてすぐに夏休みが終わって、新学期、教室に行くと私はいきなり友達に囲まれた。
「あんた、赤沢とつきあってるの?」
「夏休み、毎日会ってたって聞いたよー!」
「あれはやめときなよー。ちょっとなしだわ」
「え、えと」と私が言葉につまっていると、友達は私を揺すぶって「目を覚ませー!」とか言ってくる。私は困って、赤沢くんの席をちらりとしたけれど、彼は友達と笑っていてこちらに気づいていない。「つきあってないよ」ととりあえず事実を述べつつ、でも好きかもしれない、という気持ちは相談しないほうが良さそうだなと考えた。
二学期が始まると、夏休みの近い距離感はわりと簡単に失われて、赤沢くんと話す機会がだいぶなくなった。そのおかげで、周りが騒ぎ立てるのがすぐ鎮火したのはよかったけれど、夏休みはあんなに仲良くしてたのに、と正直寂しかった。
私から話しかけたら、赤沢くんはきっと屈託なく応えてくれると分かっているのだけど。話題がよく分かんない、と躊躇しているうちに息苦しいほど焼けつく夏が移ろいはじめて、風が涼しく抜けはじめた。
その合間に秋雨がしっとり降って、私は夏休みに買った黒に白のドット柄のシンプルな傘を持ち歩いた。
その日も雨が降っていた。靴を履き替えて傘置き場に向かうと、そこに赤沢くんが立っていたので少しどきっとして、自然に、と気をつけながら隣に並んで自分の傘に手を伸ばす。
赤沢くんは私を見て、「槙谷」と昨日も話したみたいな口ぶりで名前を呼んできた。
「……久しぶり」
傘を抜き取りながら、私がそう言うと、「え?」と赤沢くんはまばたきをした。
「教室で毎日会ってんじゃん」
「え、あ──まあ。そうだけど。話すのは久しぶり」
「そうか? まあいいや、困ったぞ」
「何?」
「傘がない」
「えっ」
「絶対盗んでる奴いるだろ、これ。槙谷もそうだったよな。クラスの奴か? 担任に言うか? てか、槙谷の傘は見つかったのか?」
「私のは結局そのまま」
「よし、担任に事件をチクろう」
「事件って」
「傘を盗むって、盗む奴は気軽かもしれないけど、盗まれた奴はたまらんぞ」
「まあ、そうだね」
「職員室行こう」
「私の傘はもうどうでもいいけど──」
「んなこと言ってたら、その水玉も盗まれるぞ」
「水玉じゃなくてドットだけど」
「いいから、槙谷も被害者として来い」
がしっと手首をつかまれて、飛び跳ねた心臓に力が抜け、つい赤沢くんに引っ張られてしまう。
職員室に行った私と赤沢くんは、担任の先生に傘が盗まれたことを話した。「お前たちもかあ」と参った声で言った先生によると、雨期になると傘の盗難が多いことが、職員会議にもなっているらしい。
「平気で自分の傘みたいに持っていくみたいで、なかなか目星がつかなくてな」
そう言った先生に、「頑張ってくださいよー」と赤沢くんはせがむみたいに言う。「今日のところは槙谷の傘に入れてもらえ」と先生は簡単に言って、「はっ?」と私は声を上げたものの、「そりゃそうしますけどー」と赤沢くんもさらっと返した。
そんなわけで、なぜか私は、再び赤沢くんと同じ傘に入って帰途についた。
重たい灰色の空からの雨は静かで、きめ細やかに地面に降りそそいでいる。
もちろん赤沢くんのほうが背が高いから、私は傘を持ち上げなくてはならない。けっこう腕疲れる、と思っていたら、「俺が持てばいいんじゃね」と赤沢くんは傘を奪って持ち直した。「ありがと」と私はもごっと言って、「いえいえ」と赤沢くんは私の歩調で歩いてくれる。
私も赤沢くんも冬服になった。夏服よりかっちりした造りの肩が軽くぶつかって、体温は伝わってこなくても、どきどきする。
赤沢くんは平気なのかなあ、と右側をちらっと見上げると、「何か槙谷といるのなじんだなー」と赤沢くんは前を向くまま言った。
「えっ……と、なじむって」
「こうやって近いのとか。初めは緊張したけど」
「今はしないの?」
「槙谷だからなー」
「私だから……」
「白原さんとかだったら無理だわ」
白原、さん。クラスは違うけれど、たぶん学年で一番かわいい女子だ。なぜ彼女だとダメなのかよく分からずにいると、やっと赤沢くんは私を見た。
「俺、一年のとき、白原さんと同じクラスだったんだけどさ。隣の席になったことあるんだ。一ヵ月ずっと緊張してたなー」
「は……あ」
「白原さんがこんな近くにいたら無理だわ」
「……白原さんのこと、好きなの?」
「あの子を好きじゃない男子はいないだろ」
「………、」
「かわいいもんなー。すっげえ優しいしな? どっかの槙谷さんとは違うぞ」
「名前出てるし」
「はは」
笑った赤沢くんと一緒に、私も小さく笑った。笑ってごまかすしかなかった。
ああ、赤沢くんにとって私はそんなものか。そうだよね。そもそも、白原さんには勝てないし。私の片想いなんだ。こうして隣り合っていて、どきどきしてるのは私だけなんだ。
そうだとしたら、赤沢くんからは離れなきゃいけないかな。そんなふうに思われて、隣で笑っているのはきついよ。
相変わらず雨が降っている。なのに、傘があるせいで思い切って泣けない。泣いたら赤沢くんをびっくりさせてしまう。
赤沢くんを家まで見送ったら、そのあと、傘なんておろして泣いてしまおう。
今だけ、もう少しだけ、無理に咲ってみせる。赤沢くんの前で、最後に咲っておく。好きな男の子に、急に泣き出すうざい女子とは思われたくない。
この心がちぎれそうな瞬間が終わったら、あの日の雨みたいにいっぱい泣く。
傘の下で、涙までこぼしてしまうのを必死にこらえる。雨に包まれた世界で、その音も匂いも哀しい。
その銀色の水に溺れて泣くのは、もうちょっとあとで。……もうちょっとのあいだ、咲う。
FIN