最悪の状況
着替えず、化粧も落とさずにベッドに伏せる。そんな飲んでもいないのに、二日酔いのときより全身がどろりと重い。ため息ばかり続いて、滅入ってくる精神に神経はもつれて、静電気のように喉の奥がいらいらした。
そんなとき、ふとスマホの着信音が聞こえた。あたしは何とか首と腕を伸ばし、ベッドサイドに投げていたバッグからスマホを取り出す。通話着信──……『真辺くん』!
あたしははっとして身を起こし、慌てながら応答をタップする。
「もしもし」
そう声をかけると、『あ、夏月。久しぶり』という久々の真辺くんの声が鼓膜に流れこんできた。心が甘い懐かしさにきゅうっと絞られる。
『今、いそがしい?』
「ううんっ。部屋でぼんやりしてた」
『そうなんだ? あれ、今、同窓会の最中だって写真も送られてきたんだけど、行かなかった?』
「あー……行ったけど。二次会は行かなかった。美希音もいなかったし」
『そっか。夏月は長川いないのは寂しいよな』
真辺くんはくすくす咲い、あたしは睫毛を伏せて、ぎゅっとスマホを握りしめる。
「写真、送られてきたって」
『うん?』
「誰から、送られてきたの?」
『木津だよ。憶えてない?』
「……サッカー部の」
『そう。一応親友だから、あいつとも連絡続いてるし』
確かに、真辺くんには木津くんという親友がいた気がする。だから、真辺くんがそう言うなら素直に信じればいい。なのに、どうしても心がかきみだされて考える。
その写真、実は牧瀬多香子からじゃないの?
「真辺くん」
『ん』
「……そ、の」
『うん』
「………、同窓会、来なかった……ね」
何言ってんだあたし。違う。こんなんじゃない。
今すぐ牧瀬多香子の名前を出して、きちんと確認しないと──
『さすがにこっちまで通知来なかったから。昨日、木津がメッセが教えてくれて知ったくらい』
……ああもう。だからそれ、木津くんじゃなくて、牧瀬多香子じゃない? って。せめて、これだけでも吐き出せたら──
『都合つくなら行きたかったけど、今ばたばたしてるからなあ。知ってても行けなかったかも』
「ばたばた、って仕事?」
『仕事もだね。いろいろ』
いろいろって何? あたしにはちゃんと説明して。でも、そんなことを言えば、問いつめているみたいで鬱陶しい。
ついに何を言えばいいのか黙りこんでしまうと、『夏月』と真辺くんの物柔らかな口調が耳元に響く。
「……うん?」
『何か、……その、あんまり、無理するなよ?』
「えっ──」
『いや、声の感じだけだけど。そんな気がして』
「………っ、」
『夏月は、写真とか送ってくれないしね』
「……老けたよ」
『でも、その……今も綺麗なんだろうなと思う』
あたしは唇を噛んだ。
真辺くんも、きっとかっこいいと思う。そう言えたらいいのに。牧瀬多香子が言っていたから、実際かっこいいのだろう。
あたしはそんなふうには知りたくなかった。ほかの女の口から、真辺くんが今も王子様みたいなんて、聞きたくなかった。
中学時代の話を少しした。でも、結局牧瀬多香子の名前は出なかった。逢ったんだよね? 名前こそ出さなくても、偶然逢った中学時代の奴がいるとか、そのくらい話題に出てもよくない? やましいの? やましいから言わないの? 黒い濃霧が猜疑心ばかりあおる。そのまま、あたしからも牧瀬多香子のことは何も訊けず、真辺くんとの通話は終わってしまった。
あたしはスマホを充電にもつながず、とりあえず服を脱いで、シャワーを浴びながら化粧を落とした。アイラインとマスカラを落とすために、オイルで目の周りをすすいでいたら、急に嗚咽がこみあげてきた。
耳に真辺くんの穏やかな声がまだ残っている。あの声を信じられない自分が一番嫌いだった。ぐちゃぐちゃ考える頭の中も、心の中も、全部かきだしてこの熱いシャワーに流してしまいたい。
抑えてきた。我慢してきた。平気なふりしてきた。
けど、もうダメだ。
真辺くんが帰ってきたときに泣けばいいと思っていた。ずっと寂しかったよって叫べばいいと。まだ届かないうちに駄々をこねても仕方ない、そう思ってこらえてきた。
けれど今、どうしようもなく涙があふれて止まらない。あたしは誰にも抱かれたことのない全裸を、しゃがんで自分で抱きしめて、ざーっという激しい水音に声も雫もむしりとられながら、湯気が充満していく浴室で長いことひとりで泣いていた。
お盆休みはすぐに明けて、また毎日仕事に追われた。まだまだ続く暑さの中を一日駆けまわり、営業を終えたあと、デスクで報告をまとめる。
人と向かい合うわけではないこういうとき、ひどく疲れていて重苦しいため息が出る。もうPMSが巡ってきたかと思うほど、気分が落ちていて、入力内容に集中しない上の空の思考回路も病んでいる。
大学を卒業して連絡が減った頃、すでに真辺くんには女ができてたってないかな? うん、きっとそうなんだ。そりゃ、周りの女だって真辺くんを放っておくはずないよね。あたしなんて、もう恋人じゃないんだ。何の触れ合いもないうちに、どうせ友達みたいな感覚になっちゃったんだ。それで、ブロンドの綺麗な女と楽しんでるんでしょ。
あたしがバカなんだ。中学生の『待っててほしい』を、この歳になるまで固く守っていたなんて──
「おい、夏月っ」
そのとき、急に後頭部を小突かれて、がくっと頭が前のめった。あたしは眉を寄せて振り返り、そこに例の離婚上司が立っていることに初めて気づく。やば、と思ったのと同時に、柏崎さんというその上司は顰めっ面で言った。
「また辛気臭い顔してるぞ」
三十なかばくらい、美形ではなくも渋い味わいのある柏崎さんの顔立ちを気まずく見つめ、「すみません」とあたしはぼそりと返す。柏崎さんはなおもあたしを眺めて、「何かあったのか」と相変わらず横柄にも感じる口ぶりでこまねく。
「……いえ。何も」
わざとらしい嘘をつき、あたしは視線をそらす。そんなあたしを柏崎さんはじろじろとすると、報告書を入力中のPC画面を覗いた。
「さっさとそれ仕上げろ」
「はい。分かりまし──」
「で、今夜つきあえ」
「は?」
「お前とは、ちゃんと話をしなきゃいけない」
う、わ──……と、思わず露骨にうんざりした表情が一瞬もれてしまったものの、慌てて引き締めて「あの、でも」と一応断ろうとした。
が、「分かったなら、早く切り上げろ」と柏崎さんは腕組みをほどいてつかつかと自分のデスクに歩いていってしまう。周りから憐れむ視線もちらちら来る。
最っ悪……。飲み説教とか。何かのハラスメントじゃないの?
そう思って顔を両手で覆っていると、「夏月っ」とまた柏崎さんの厳しい声がして、「すみませんっ」とあたしはここはひとまず切り替え、報告作業に戻った。
【第八章へ】
