長いあいだ-9

断ち切るために

 終電とか言っていたものの、柏崎さんはあたしを駅まで送ると、二十一時ぐらいには帰してくれた。
 あたしは柏崎さんとの別れ際も、ひとりになった電車の中でも、ずっと顔を伏せていた。涙は止まっている。でもきっとみっともなく化粧が落ちている。
 笑い声がすると、つい過敏になってしまった。ドアにもたれ、車内のききすぎているクーラーにわずかに身震いして、その寒さで逆に軆の芯がほてっているのを感じる。
 ぼんやり、男に告られたのは久々だなあ、と思った。しばらくそんな想いを向けられてこなかっただけに、心のまろやかな痺れにとまどって、自分でも困惑している。昔は男に告白されたって、平然と振ってしまえていたのに。ずいぶん大人になった今のほうが、よほどうぶに揺らめいている。
 最寄り駅で電車を降りて、改札を抜けると空を見た。くっきりした月が浮かんでいて、今頃真辺くんは太陽を見ているのだろうなあと思った。同じ空の下、なんて言っても、あたしたちは一緒に月さえ眺められない。
 ヒールを響かせて歩きはじめながら、無造作にスマホを取り出すと、真辺くんのトークルームを呼び出した。
 声が聴きたい。そう思った。そうでもしないと、本気でこの夜に流されてしまう。
 歩調のリズムが緩むくらい躊躇ったのち、思い切って通話をタップすると、スマホを耳にあてた。
 コール。コール。コールが、永遠みたいに続いた。
 不意に途切れて、どきんとした。でも、聞こえてきたのはぶつっという切断音で、画面を見ると『真辺くんは通話に応答がありませんでした』というコールが届かなかったシステムメッセージがあった。ついでそれも消えて、トークルームには不在着信の文字が残る。
 あたしは顔をゆがませ、「何で」とつぶやき、震える息遣いのままひと思いに大きく泣き出しそうになる。
 ねえ、『何で』……って、何が?
 真辺くんが通話に出てくれなかったこと?
 あたしの気持ちが思いがけないほど揺らぐこと?
 何が分からないの?
 あたしの気持ち? 真辺くんの気持ち?
「何で、あたしのそばにいてくれないの……」
 指先がスマホの画面を彷徨う。柏崎さんのトークルームもある。今のところ、ただの連絡事項しか並んでいない。
 ここに入力して送信するだけ。『つきあいます』って、あのぶっきらぼうでも実直そうな人に答えるだけだ。そしたら、あの人はあたしのそばにいてくれるのだろう。
 そして、終わるんだ。待つだけの日々も。真辺くんとの関係も。
 あたしは真辺くんのトークルームに戻り、ああ追撃うざいなあ、と我ながらうんざりしながら通話をかけた。しかし、今度はコールさえなかった。すぐにぶつっと切れる。画面には、『真辺くんは通話中のため応答できません』──
 ……あ。だめだ。もうこれ、だめなやつだ。
 くらくらした。心臓が不安に高鳴り、吐き気がした。不安を感じるだけマシだった。確信ってこんなにつらいんだ。
 それでも、何とか部屋まではこらえた。鍵をまわして、ドアを開けて閉めて、鍵をかけたら、あたしはくずおれて、一気にまた涙をあふれさせた。
 何で。何で何で何で。
 真辺くん、あたしに折り返しもせず誰と話してるの?
 あたしの着信は届いてないの?
 もしかして今、本当にあたしじゃない女とつながってる?
 分からない。信じられない。あたしはもう、真辺くんで安心することができない。
『真辺くん。
 あたし、そっちに会いにいってもいい?』
 最後。これが最後。いろいろ考えながらシャワーを浴びたり着替えたりして、寝るだけになると、ベッドでたっぷり悩んでから、真辺くんにそんなメッセを送った。
 あなたに賭けるのは、これが最後。そう思って、あとはスマホをサイレントにして画面は伏せ、逃げるように眠った。
 深い眠りではなかった。でも、一応ひと晩眠った。浅い感覚の中、ゆらゆらととりとめなく夢を見ていて、何だか疲れる眠りだった。
 のろのろと目覚めると、すぐに意識はスマホに向かい、おそるおそる手に取ってみた。ランプ。メッセの通知。バーを引き下げると、真辺くんの返信が表示された。
『来なくていいよ。
 待っててくれたら。』
 その瞬間、頭の中が真っ黒に感電したのが分かった。でたらめに殴り書きしたような、ものすごく狂暴で黒い感覚だった。
 あたしは連絡先を呼び出し、プライベートではほとんど使わない携帯番号で真辺くんに電話をかけた。三コールだった。『もしもし?』と聞こえてきた真辺くんの声はびっくりしたような口調で、あたしはそれをわざとらしいなんて感じてしまい、もう自分も真辺くんも嫌いだと思った。
『何、どうかした──』
「別れたい」
『えっ?』
「もう真辺くんと別れたい」
『え……な、何、夏月?』
「疲れたよ。もう嫌だ」
『何で、何かあった?』
「もう嫌なの、全部嫌になった! 大っ嫌い!!」
 ひと息でそう叫び、一方的に電話を切った。今度はすぐに折り返しがかかってきた。『拒否』をタップする。着信音もバイブも鬱陶しいから、サイレントのまま、あたしはベッドを出るとスマホを放って朝の支度を始めた。カーテンを開くと、今日も憎たらしいほどきらきらと晴れている。
 はは、ついに涙も出てこない。
 終わっちゃった。
 真辺くんと、終わっちゃった──。
 故障したような、乾燥したような、何とも言えないざらつきを感じつつ、支度や朝食を済ました。鏡の前に立つと、自分の目を見て、笑顔さえ作ることができた。
 すっきりしたのだろうか。よく分からない。
 スマホをやっと手に取ったものの、着信履歴は件数すら確かめずに削除する。あたしは鍵をつかんで、部屋を出て、まばゆくて焼けつくような快晴の下を前を見て歩いていく。
 その日も一日営業まわりの予定だったから、朝出勤してすぐ、柏崎さんのデスクに向かった。柏崎さんはメールチェックでもしていたのか、まだ始業前なのにPCに向かっていたけど、あたしに気づくと顔をあげて、「どうした」と昨夜を蒸し返す表情さえ見せずにさらっと言った。
「昨日のお礼を、今夜させてもらっていいですか」とあたしが答えると、大人の男というものは聡いもので、お礼なんかとか遠慮することはなく、察した様子で「分かった」とうなずいた。あたしは頭を下げてから自分のデスクに戻る。
 何だか、この行動も浅はかで軽率なのかもしれない。でも、あたしはずっとずっと、ひとりだった。本当に、だいぶ前からひとりだったのだ。彼氏なんていなかったのと同じだ。
 だから、傷心してぐずぐずする時間なんていらない。そばにいると言ってくれる人がいるのなら、あたしもその人の隣を早く獲得してしまいたい。
「つきあいます」と答えて、それだけで今夜が終わるのかも分からない。柏崎さんも、まさかあたしが処女だとは思っていないだろう。重いかなあと心配になる。正直に言うしかないけれど。経験があるふりで、いざ痛みとかで抵抗してしまったら、それこそかっこ悪い。柏崎さんはあまり聞きたがらないかもしれないけど、真辺くんとのことを話して、中学時代からバカバカしい操を立ててきたとはっきり言おう。
 そわそわしそうなのを抑えて、一日をあわただしく過ごした。終業時刻が近づき、会社に戻る頃には緊張で鼓動が頭の中まで響くようだった。ランチのときにスマホの画面は確認したけど、もう新しい着信はついていなかった。
 やっぱり、そんなもんだよね。そう思って小さく嗤った。
 十七時をややまわった頃、会社のビルの前に戻り、さあここからだ、と深呼吸して、自動ドアの抜けようとしたときだった。
「夏月!」
 はっと足を止めた。え、と思った。呼ばれた。呼ばれた、よね。でも、嘘でしょ。
 空耳に決まっている。
「よかった、見落としたらどうしようかと思ったけど」
 ……あの、十年以上、機械越しだった声。
「やっぱり、綺麗だからすぐ分かった」
 こわごわ、かえりみようとした。けど、そのときちょうどビルから出てきた人にぶつかりかけて、あたしの疲れた脚がよろめきそうになる。後ろから、手があたしの右肩を支えた。その男の手を見て、あたしは狼狽しながら声も出せない。
「夏月……」
 懐かしい声が、切なくかすれる。
「会いたかった」
 あたしは振り返った。

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