傷ついた約束

 たわいもない子供の約束だったのは分かっている。でも、それが何となく私を支えていた。
 片想いが叶わずに終わっても。友達に彼氏ができて寂しくても。
 十歳のときに「結婚しようね」と告げて、引っ越していった男の子。
 彼がこの町に戻ってくるあてなんてない。だけどその約束が、恋愛絡みで不安定になりやすい高校生になった私の心の柱を保っていた。
 夏休みが明けた残暑の朝、駅から高校までの道のりには制服すがたの子たちがあふれかえっている。朝陽越しに木陰を落とす桜並木からも、もう蝉の声は聞こえなくて、周りのはしゃいだ挨拶のほうがうるさい。
 まだ暑さは続くんだよなあ、と朝食のときに見た天気予報を思い出していると、「おはようっ」と突然背中をたたかれた。振り返ると、そこにはクラスメイトの友達である佑奈ゆうながいて、「ん、おはよう」と私はあっさり返す。
「相変わらず香乃子かのこはクールだなあ」
「……何それ」
 と言いつつ、クラスでの自分の位置づけがそういうキャラなのは分かっている。佑奈は愛くるしいペットタイプだ。毛先が跳ねるミディアムヘアやカールさせた睫毛、小柄なところもかわいい。
「夏休み何してた?」と深い意味もなく訊いてみると、佑奈は待ってましたとばかりに笑顔になった。
「何と、彼氏ができました!」
「そうなの」
「もっと食いついてよっ。頑張ったんだから」
「佑奈から告白したの?」
「そういう次元では、いまどき恋愛とかできないから。ふふふ、従姉にクラブのイベントに連れてってもらったの」
「クラブ……」
「自分からそういう場所に行かないと、学校の男子なんて、下ネタ語り合うくせに行動力は草食だしね。はー、十七歳にしてヴァージンも成仏しました」
「はあ……。よかったね」
 愛猫みたいな佑奈でときめく男子は、この肉食を知ったら哀しむだろうなあと思いつつ、私はそう答える。そんな私を佑奈はじろじろとして、ふうっとわざとらしく息をつくと、「香乃子って彼氏作んないよねえ」と首を振る。
「クラブのイベントとか、私は何か怖いし」
「一緒に行ってあげようか?」
「いや、それでも怖い」
「ええー、まさか学校に気になる奴とかいたりするの?」
「今はいないかなあ」
「今は」
「一年のとき、片想いしてた子には彼女できたみたい」
「マジで? そんな悲愴な恋愛してんの」
「悲愴ってほどでも」
「そんなのは忘れて、さっさと次を考えなさい」
「引きずってるつもりはないけど」
「来年は受験一色だよ? そのとき、彼氏という癒やしがなくてどう生きるの?」
 むしろ、受験生に彼氏なんて浮わついたものがいるのがどうかと思うけど、私はただ肩をすくめておく。そのあとも、佑奈は高校生活における恋愛の重要性を熱く語っていたけれど、私は生返事だった。
 言えるはずもない。小学校のときにプロポーズしてくれた男の子がいて、まあ何とかなるかなと思っているなんて。
 小学四年生の一学期の終わり、クラスメイトだった峰野みねの信英のぶひでくんは、親の仕事の都合で転校していった。よく私に絡んでくる男の子で、嫌ではなくても、嬉しいというか恥ずかしかった。懐くように追いかけてきたり、大声で遠くから名前を呼ばれたり。
 一学期の終業式、最後の日なのに特に会話もせず私が帰ろうとしていると、峰野くんは私に例によって突進してきて、腕をつかんだ。「え、何」と私がまじろぐと、「かのちゃん、僕、ちゃんと帰ってくるから」と峰野くんは真剣なまなざしで言った。
 私を「かのちゃん」呼びした男の子なんて、後にも先にも峰野くんだけだ。
「……あ、そ、そうなんだ」
 私がそんな間抜けな返事をすると、峰野くんはちょっとむくれた顔になり、言葉を続けた。
「だから、そのときには結婚しようね」
「は……はっ?」
「かのちゃんは僕のお嫁さんにする」
 教室に残るクラスのみんなが注目する中で、よく言ったなあと思う。私が狼狽えて視線を迷わせると、「だからっ」と峰野くんは私の手をきゅっとつかんだ。
「待っててね」
 私は峰野くんを見つめた。ここで拒絶するのはひどいというのは分かった。だから、ぎこちなくうなずくと、教室で歓声があがって、峰野くんも「いえーいっ」とか言いながら友達に駆け寄ってハイタッチしていた。
「かのちゃん……」と友達は若干同情するように私の名前を呼び、私はあやふやに咲ってみせた。
 嫌ではなかったし。恥ずかしかったけど。嬉しい、と思ったから、いまだに私は自分を選んでくれた峰野くんで、女としてのプライドらしきものも守っている。
 しかし、あれから七年が過ぎたわけで、峰野くんが地元に帰ってきたという話は聞かない。というか、峰野くんを憶えている同級生はどのくらいいるのだろう。そもそも、私が小学校時代の友達と遊ぶこともなくなって、その仲は風化している。
 どんな男の子になったのかな。そう思うときもあるけれど、別れにあたって特に連絡先を交換したわけでもないから、完全に音信不通だ。そんな相手との約束を心に留めているなんて、我ながらバカバカしいのは承知している。
 日射しが明るい教室に到着すると、佑奈も含む仲良しの五人グループで夏休みについてそれぞれ語り合った。恋愛だったり、別荘だったり、勉強だったり、部活だったり。みんな思い思いに過ごしたみたいだ。
 私は、年の離れた妹の面倒が主だった。「夏休みが育児とかないわー」と言われたけど、七歳の妹に対して私はややシスコンなので、そこはそれで充実していた。
 予鈴が鳴って、私たちはそれぞれの席に散った。今日は始業式とホームルームだけだけど、明日からさっそく六時間授業だし、間髪入れずに学期明けテストもある。
 志望大学は二年生に進級する前に書かされ、すでにクラス分けは進路別になっている。私は英文科に進もうと思っているから、文系のクラスだ。やっぱり女子が多いクラスだったから、本鈴が鳴って担任の先生が見慣れない男の子を引き連れてきたときには、女の子たちは色めいた。
「今日からこのクラスに仲間入りする小松こまつくんだ。仲良くしてやるように」
 そう言った男の担任は、その転校生にも挨拶をうながした。
 私は頬杖をつきながら、なかなかの美少年である小松くんとやらを眺める。これから女子が騒ぎそうだ。
「小松信秀です。これからよろしくお願いします」
 小松──ノブヒデ。いや、偶然か。というか、名字がそもそも違う。
 小松くんは、先生が指さした窓際の席にしゃきしゃきした足取りで歩み寄り、椅子を引く。「よろしくー」と隣の席の女子が声をかけると、「よろしくー」と小松くんはにっこりと返して、「やばい」「かわいい」と教室の女子がささめいた。
 そんなとっつきやすい愛想の良さと、確かにかわいらしい感じのルックスで、小松くんはすぐに教室になじんだ。一部男子はいらっとしているようだけど、それをあらわにしたら女子から嫌われるくらいには、人気者になっている。
 仲良しグループの中でも、彼氏がいない子どころか、彼氏持ちの佑奈も小松くんについて騒いでいた。とはいえ、私も私のいるグループも、特に小松くんに近づく機会はなかった。
 女子のあいだで、小松くんの魅力はあっという間に伝わり、さっそく告白やらモーションやら仕掛ける子が現れている。そして、それに対して小松くんはというと、「とりあえずデート行く?」と答えたりするそうで、意外と簡単に女子と遊びにいっていた。
 男ってやっぱそういうものなのか、と私はややあきれつつ、相変わらず峰野くんの一途な約束を想っている。同じ名前でずいぶん女の子への態度が違うなあなんて勝手な比較をして、ときおり小松くんを眺めた。
 小松くんは、いつもにこにことほがらかに女の子と向かい合っている。ただし、ふと女の子の視線がそれたりした隙に、言いようもない暗く虚ろな目を覗かせることがあった。それはほんの一瞬で、女の子の視線が戻ると、すぐに切り替わる。
 私は小松くんの横顔から目を離し、よく分かんない子だな、と自分のグループの会話に戻った。
 そんなある日、下校して地元の駅ナカを歩いていたとき、小松くんが違う高校の制服を着た男の子と談笑しているのを見かけた。何で私の地元に小松くんが、と思わず足を止めると、笑っていた男の子がこちらに気づいて、「お、もしかして高宮たかみやじゃね?」といきなり私の名字を言い当ててきた。
 首をかしげると、小松くんも私を振り向いてきて、「あれ」と一応同じクラスにいる顔なのは分かった様子でまばたきをする。
「高宮って」
「高宮──何だっけ。あっ、何か思い出した。信英、お前さ、あいつに盛大に告って転校していったよな?」
「………、もしかしてあの子、高宮香乃子ちゃん?」
「そうだろ。えっ、違う? 合ってるよな?」
 ここをスルーして過ぎ去るのは感じが悪い気がして、「そうだけど」と私はふたりに歩み寄る。
 小松くんが私をじろじろとしてくる。その目線に臆面していると、小松くんは「ほんとだ」とつぶやき、ぱあっと表情を輝かせた。
「うわー、久しぶり、かのちゃん!」
 かのちゃん。私をそう呼ぶ男の子なんて、この世にたったひとりだ。
 私は表情を少し引き攣らせ、「峰野くん……?」と恐る恐る確認してみた。すると刹那、小松くんの瞳が揺らいだけど、「うん、そうだよ」とすぐに笑顔を取り戻す。
「ん、お前ら同高じゃね? その制服」
「それどころか、同じクラスだよ。ねっ」
「う、うん。まあ」
「はあー、マジで? 信英、どんな手使ったんだよ」
「偶然だっての。つか、君がかのちゃんだって気づかなかった。話しかけてよー」
「えと、私も気づいてなかった……」
「おいおい、婚約者同士がそれはないだろー」
 名前は思い出せないけど、小学校の同級生らしい男の子がからからと笑う。
 婚約者。あれを憶えている人、私以外にもいたのか。
 それに何となく動揺しつつ、小松くんを盗み見ると、私はどきんとして肩がこわばりかけた。瞳に、あの、暗い虚ろがあったのだ。ついで、小松くんはそれを私が見てしまったことに気づいた。小松くんはあやふやに咲ってみせると、首をかたむけて「あんなの忘れたよね」と言った。
 私はちょっと迷ったものの、小さく「憶えてるよ」と答えた。小松くんは目を開いてから、「そっか」と吐息と共にこぼし、男の子に向き直った。
波多瀬はたせ、俺、かのちゃんと話したいし。とりあえず、また今度遊ぼう」
「ああ、そうだな。邪魔はしねえわ」
「サンキュ。またな」
「おう。高宮も、じゃあな」
 私はただ軽い会釈だけした。そういえば、あのときのクラスに波多瀬くんっていたかも、と記憶を手繰っていると、「かのちゃん」と小松くんが私の顔を覗きこんできた。
「えっ、あ、はい」
「少し話せる?」
「ん、まあ」
「じゃあ、南口にカフェできてたよね。あそこ行こう」
「もうチェックしたんだ」
「帰ってきて、ひと通り歩きまわった」
 小松くんはスクールバッグを持ち直して歩き出し、私は遠慮がちにその隣を歩かせてもらった。
 名字が変わったみたいだけど、何かあったのかな。そこがやはり気になりつつも、口にできないまま駅の南口に出て、郵便局とコンビニにはさまれたカフェに入る。
「おごるから何か選びなよ」
 客数のわりに耳障りな騒ぎもない、落ち着いたチョコレート色の店内は、クーラーがきいていて涼しかった。
 テイクアウトのカウンターで、小松くんはそう言ってショウケースの中のケーキをしめす。チョコレートケーキ、チーズケーキ、抹茶やマロン、いろんなケーキがきらきら並んでいた。
 でも、そんなに甘いものが欲しい気分でもなかったので、ドリンクのメニューをちらりとして、「アイスラテだけでいいよ」と私は言う。「そう?」と小松くんは食い下がらず、自分もアイスラテを店員に注文した。
 グラスにそそがれたMサイズのラテをふたつ持ち、小松くんは空いていたふたりがけのテーブル席に腰をおろす。
「かのちゃんにまた会えるとは思ってなかったなあ……」
 ラテにシロップを入れていると、小松くんはストローをグラスにさしながらそう言った。
「ずっとこの町にいたの?」
「私の家は、転勤とかないし」
「そうなんだ」
「小松くん……は、また親の都合で戻ってきたの?」
「んー、まあ、親の都合っちゃそうだけど」
 私は小松くんを一瞥して、小松くんも私を一瞥する。
 何とも言えない、この気まずさは何なのか。私たちは、しばし無言でラテを飲んだ。
「んー」と不意に小松くんが唸って、私は顔をあげる。
「どこから、話したらいいのかなあ」
 小松くんは唇をストローから離すとそう言った。私はストローを爪繰り、「……名字、違うよね」とぼそりと切り出してみる。「ん?」と小松くんは大きな瞳をぱちぱちさせてから、「あー、そこね」と笑った。
「だよね、やっぱそこだよね」
「話したくなければ」
「そんなことはないよ。かのちゃんには話すよ」
 とは言うものの、小松くんはラテにまた口をつけて言いよどむ。話したそうな気配は感じるけれど、私からうながしたら踏みこむことにならないだろうか。そう案じつつ、思い切って問うてみた。
「ご両親に、何かあった?」
 小松くんはこちらに上目遣いをして、小さく咲うと「うん」と背筋を伸ばした。
「離婚しちゃった」
 離婚。
 無論、予想していなかったわけではない。ただ、もしかしたら亡くなったというのもあるかなと。だって、小松くんはあの日、私に結婚しようって言った。結婚がほどけるものだなんて知っていたら、また会いたい相手に、あんな台詞を無邪気に言うはずもない。
「けっこう最悪な感じでね」と小松くんはストローでラテを混ぜた。からからと氷が響く。
「転勤先で、父親が部下と不倫始めちゃったんだ。初めは軽い浮気だったんだろうけど、最終的にはその女にずぶずぶにされて夢中だよ。そんな父親に、母親はショックが大きくて、ほとんどノイローゼになった。兄貴はそんな家にうんざりして帰ってこないか、たまに帰ってきても母親を怒鳴ったり、俺を殴ったりだよ。完全に家庭崩壊。マジで地獄絵図」
 吐き捨てるような小松くんに、どんな言葉をさしだせばいいのか分からない。
 ただ、小松くんのご両親が、それまで子供たちの前で仲良くしていたのは察せる。だから、小松くんは結婚に夢を見て、私にあの約束をした。
「家にいるだけで、俺もそこの空気が耐えられなくて、頭おかしくなりそうだったよ。何年間、そんな状態だったのかな。母親がダメなんだよ。あんな父親にいつまでもすがって、捨てられた現実見てなくて。まあ父親も父親でそうとうクズだけどね。年取ってから若い女に走るって、ありきたりすぎて、むしろないわ。そんなのがやっと離婚してくれて、俺は母親に引き取られて戻ってきた。母方の実家がこの町なんだ」
「おかあさん、今、大丈夫……なの?」
「じいちゃんもばあちゃんも生きてるから、甘えた子供みたいな生活してる。俺には干渉しない。てか、無駄な遺産みたいに迷惑に思ってるかもしれない」
「……そう」
 かといって、おとうさんのほうは──その女の人と生活を始めるのだろうから、ますます居場所ではないだろう。
「兄貴は向こうに残った。ちょうど二十歳過ぎてたし、ひとり暮らし始めたんだよね。俺のこと殴ってきたクソ野郎だけど、そこだけはうらやましい」
「小松くんも、いつか……できるよ。ひとり暮らし」
「そうだねえ。俺、家事とかできないから、やってくれる子を見つけておかないとな」
 小松くんは頬杖をついて睫毛を半分伏せ、気だるくストローをまわしている。
 家事をやってくれる子。私は口を開きかけたけど、何となく、ずうずうしい気がして言えない。
「俺の両親ってさ」
 いらだっているような口調を切り替えた小松くんに、私ははたとして「うん」と応じる。
「幼なじみなんだ。幼稚園くらいくらいから一緒なの」
「え……そうなの」
「うん。だから、結婚までいったのたぶんすごいんだよね。向こうに引っ越すまでは、いい感じの夫婦だったし。正直、ふたりが大好きだったよ。両親が幸せそうに仲良くしてるとこを見るのが、俺はほんとに好きだった」
「………、」
「なのに、何で──あんなふうになるんだろう。あんなに愛し合ってたはずのふたりでも、こんな結果になるんだから怖いよね。結婚って何なんだろ。分かんないや。ただ、何か俺は結婚どころか、恋人になるのも嫌だ。つきあって誰かの固定になりたくない。適当にふらふらして、いい加減な関係で済ましておきたい」
 私は唇を噛んでうつむいた。やっと、小松くんが私とわざわざ話したいとカフェに誘った理由が分かった。
「だからさ……何か、ごめんね。あのとき俺が言ったことは、ほんと忘れちゃって」
「………」
「って、かのちゃんがあんなガキのたわごとまだ信じてるとか思ってるわけじゃないけど。憶えてるって言ってたから」
「ん、……平気」
「うん。かのちゃんなら、すぐ彼氏できるよ。いや、もしかしている?」
「いないよ」
「そうなんだ。えー、美人になったのになー。かのちゃん、あのクラスのクールビューティ担当じゃん」
 そんなことを言って、小松くんは楽しそうに咲う。私はどうにかそれに合わせて、ぎこちなくだけど咲う。
 ダメ。泣いちゃダメ。責めちゃダメ。もちろん、今気づいてしまった君への気持ちを、告げるのもダメ。
 たわごと。そうだよね。でも、私は信じていたよ。子供のたわごとだって、分かっててもあの約束を信じていた。あのとき君が言ってくれた言葉が、私の心を支えてきたんだから。
 ああ、私のほうが、よっぽど結婚したかったんだな。いつのまにか、本気で君を待っていた。恋をしていた。ずっとずっと、君が好きだからあの約束を握りしめていた。
 できるなら、結婚はそんなに悪いものじゃないかもしれないよって伝えたい。そして、君の心の傷を癒やして、あの約束をふたりで叶えたい。
 でも、どうやら彼の傷はあまりにも深く、不信感や嫌悪感をどくどくと流すばかりで、私などには手が届かない。
 約束はもうおしまい。何もかも今日ここまで。君のことが好きだったけど、その気持ちは空っぽになったグラスと共に、背を向けて置いていかないといけない。
 ラテを飲み終わった私たちは、一緒にカフェを出た。また教室で会うのに、「またね」とは言わずに「さよなら」と言って別れた。
 夕暮れがただよう空には、うっすらと桃色と橙々の膜がある。
 私はどろどろ朽ち落ちていくような胸の中を押し殺し、自分の靴音に耳を澄まして、歩道を歩いていった。哀しいとき、寂しいとき、いつも心を埋めてくれていた約束は見つからない。心にはただ、あの瞳と同じ暗い虚ろな穴が開く。
 あれ。これから私、どうやって咲っていけばいいんだろう……?
 急に目の前が暗くなるみたいに、容赦なく明日を迎える毎日が不安になる。よりどころをなくした心に、私はいまさら取りつくみたいに振り返ったけど、そこには自分の影が長く伸びているだけだった。

 FIN

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