ふたりの食卓

 俺の幼なじみ、朝桐あさぎり結里花ゆりかには昼の顔と夜の顔がある。
 昼間はつんと澄ました優等生で、近寄りがたいそのぴりっとした空気は、うちの高校で氷結の姫という異名を取るくらいだ。先生たちすら、結里花に話しかけるときは緊張しているように見える。結里花はそれにも淡々と対応して、事が済むと「失礼致します」と膝丈スカートをひるがえしていく。
 昼のあいだは絶対話しかけてこないよう彼女に言われていて、俺も『氷結の姫』のときの結里花に接したことはない。だから、昼の結里花については、同じクラスでも俺は見ているだけだ。しかし、それだけでも関わったらかえって火傷するような、ドライアイス感はある。
 放課後、今日もお疲れ様でしたと自分をねぎらって、帰宅する。宿題を片づけて夕暮れが終わりかけた頃、下校途中に買ってきて冷蔵庫に保存していたものを提げて、お隣の結里花の家を訪ねる。
 明かりはついていない。生徒会の仕事がある結里花は、いつも俺より帰りが遅い。しかもひとりっこだし、おじさんは医者、おばさんは看護師、夜勤なども多くて昔から不在が多い。
 預かっている合鍵で朝桐家にあがると、俺は明かりをつけてキッチンに立つ。
 提げてきたエコバックから取り出すのは、今夜の食材。
 メインは秋の生鮭だ。こいつはムニエルにする。それからしめじとえのきを、バターソテーに。かぼちゃはスープにして、ふっくらしたナスはベーコンとチーズ焼きにする。もちろん白米も炊飯器にスタンバイだ。
 じっくり煮込むために、まずはかぼちゃのスープから調理に取りかかる。普通皮は剥くものだろうだけど、俺はそのままで適当な大きさに切る。レンジにかけて柔らかくすると、中火でしばし煮る。かぼちゃの甘い香りがほっこりただよってくると火を止め、ミキサーでなめらかにすることはなく、すりこぎですりつぶす。いい具合につぶれてくると、牛乳加えてことこと弱火で煮る。
 そのあいだに、ムニエルに白ワインをなじませ、塩胡椒を振る。フライパンにバターを引くと、鮭をそこに寝かせて、たまにバターをかけつつ焦げめもつける。
 ついでに、鮭を調理したあとのフライパンでにんにくとオリーブオイルを投下し、香りが出たところで素早くきのこを炒めたらソテーも完成だ。
 そして、チーズ焼き。これは簡単。輪切りにしたナスと小さめに切ったベーコンを耐熱皿に盛る。にんにくも突っ込むのがさらにおいしくさせる。そして蕩けるチーズをたっぷり載せ、電子レンジへ。
 そんな料理の匂いがふんわりと満ち足りてきた頃、玄関で物音がした。帰ってきたかなと手を洗い、エプロンで拭いていると、軽やかな駆け足が近づいてくる。
 現れたのは、黒髪ロングをハーフアップにして、怜悧な黒い瞳ときりっとした口元、手足がすらりとしているわりに胸にボリュームはある、要するに美少女を体現したような、かの氷結の姫──朝桐結里花だった。
「よう。おかえり」
 俺がそう言うと、結里花は無表情のまま、こちらにずんずんと歩み寄ってきて──ぼふっと、俺の胸にしがみついてきた。
なおくん」
「うん」
「直くん」
「はい」
「会いたかった」
「同じクラスですけどね」
「ごはんいい匂い」
「できあがるぞ。制服着替えてこい」
「んーっ、まだ少し充電ー」
 くそ、かわいいので許す。
 結里花は俺の背中に腕をまわし、ぎゅうぎゅうと抱きついて、胸板に頬をすりよせてくる。俺は学校では話しかけることもできない女の子の髪に触れ、指先で優しく梳いてみる。
 裏表、といったら言葉が悪いが、結里花がこんなふうに学校での昼の顔と家での夜の顔を持つようになったのは、いろいろ事情がある。
 切っかけは、小学校高学年の頃に俺と手をつないでいるところを、同級生にボロクソに揶揄われたときだ。俺は別に気にしなかったが、結里花は「私が甘えると、直之なおゆきくんが意地悪を言われるんだ」と考えた──俺は意地悪されようが、あまり気にしなかったのだが。
 中学生になり、結里花が「みんなの前では仲良くしないでおこう」と言うので、俺は日中は彼女に接触しなくなった。しかし、彼女は幼なじみの俺以外に友達がいるわけでもなく、予想以上に寂しかった。
 自分から話しかけていくなんてとんでもないし、話しかけてもらっても噛んでろれつがまわらないのが恥ずかしくて反応が薄い。
 氷結の姫は、豆腐メンタルだった。とんとん拍子に昼間は素直になれなくなって、結局、その反動が夜にすべて現れて、俺にごろごろと甘えてくる猫みたいになった。
「んんーっ、鮭のムニエルほろほろに柔らかいっ。これはごはん進むね!」
 そんな結里花の癒やしが、俺の作る料理だ。結里花も料理ができないわけじゃないけど、俺が作った料理のほうが幸せそうにもぐもぐ食べる。
 俺は自分の家での夕食があるから、一緒に食べることはあまりないけど、向かいの席でコーヒーくらいは飲む。
「これチーズ? ベーコンと何だろ」
「ナスですね」
「やばっ。めっちゃおいしい奴じゃん」
「めっちゃおいしいから食べて」
「うんっ」
 結里花はチーズ焼きを頬張り、熱さにはふはふとしながらも、味わって飲みこむと召されたような涙目になった。
「おいしい……」
「そうか」
「すごくおいしいよ、直くん」
「そいつはよかった」
「直くん、いつの間にこんなにレパートリー増やすの?」
「スマホで調べたレシピ」
「ふふっ。スマホでレシピを検索する高二男子」
「夜のあいだは、結里花を笑顔にさせときたいからな」
 かぼちゃのスープを手にしかけていた結里花は俺を見て、「えへへ」と照れ咲いを見せた。
 学校の奴らは絶対知らない、想像もしない、かわいい笑顔。本当は、俺がこの笑顔を俺の前だけに閉じこめておきたいから、いまだに結里花の昼と夜のスイッチを受け入れているのかもしれない。
「直くんのかぼちゃのスープ、お店と違うのが好きだなー」
「普通、皮剥いてなめらかにするもんな」
「この、かぼちゃのかたまりがたまにごろっと入ってるのがいいんだよー」
 唸りながら結里花はスープもすすり、俺もぬるくなってきたコーヒーを口にする。
 明日になったら、結里花はまた朝早く登校して、学校では氷結の姫として行動して、無駄口もきかず誰にも心を開かないのだろう。そんな彼女が夜になると俺にくっついて、ぱくぱくと威勢よく食べて、子供みたいに甘えてくるなんて誰が信じるだろうか。
 まあ誰も信じなくていいけどな、と俺は笑みを噛む。夜の彼女は俺だけのものだ。
 昼間は頑張る君に、明日もおいしい夕食を用意しよう。そして返ってくる無邪気な笑顔が、俺にとっては最高の癒やしだから──それは昔も今も、この先も変わらない。

 FIN

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