春の陽射しが柔らかい中、僕の周りを蝶がひらひらと舞っている。
シロツメクサが広がる公園で、僕は花を摘んで冠を作っていた。三つ葉の草の匂いがあふれ、ぽかぽかと背中が温かい。不器用な指先なりに、シロツメクサはつながっていく。
綺麗な王冠ができたら、おかあさんにあげよう。おかあさんは、昨日の夜もおとうさんに怒られて泣いていた。僕はおかあさんの味方だから、もう泣かないでってプレゼントをあげなくちゃ。
そう思って、幼稚園が終わると団地に面したこの公園に来て、シロツメクサを摘みはじめた。
蝶が空中を揺らめいて、春の訪れを喜んでいる。
僕のほかに公園に来ている人はまだいない。
僕もこの四月から年長組で、来年には小学生になる。早く大きくなって、おかあさんを守れるようになるんだ。大きな声ばかり出すおとうさんを追い出せるくらい、大人の男になるんだ。
そんな想いをこめて、シロツメクサを編んでいた。そんなとき、不意に「わっ」と何かに驚いたような誰かの声がした。
はたと顔を上げた僕は、そこに白いワンピースの女の子がいて、その子が自分に近づいた蝶にびっくりしていることに気づいた。
「大丈夫?」
慌てて立ち上がり、その子の頬のそばにいた蝶を両手の中に捕まえた。女の子はまばたきをして僕を見て、「怖くないから」と僕は蝶をすぐ空に逃がす。ひらひらと離れていく蝶を見送ったその子は、僕を見つめなおして、「何してるの?」と首をかたむけた。
「プレゼントを作ってるんだ」
「プレゼント」
「おかあさんにあげるの。君は何してるの?」
「私、今日ここに引っ越してきたの。おとうさんもおかあさんもいそがしいから、公園に行ってお友達を作りなさいって言われて」
「そうなんだ。僕もここに住んでるよ」
「ほんと? じゃあ、お友達になってくれる?」
「うん、いいよ。僕は杉島結人」
「私は南村桜乃」
「さくのちゃん」
「プレゼントって、何を作ってたの?」
「王冠だよ。この花で作れるんだ」
僕は足元のシロツメクサをしめし、「お花で作れるの?」と桜乃は目をきらきらさせた。
僕は座っていたあたりに戻り、地面に置いた作りかけの冠を桜乃に見せた。「すごい」と桜乃は長い睫毛をぱちぱちとさせる。
「私も作りたい」
「じゃあ、教えるから一緒に作ろうか」
「うんっ」
そうして、僕たちは陽だまりの中に向かい合って座り、シロツメクサを編みはじめた。僕が教えた順番通りに、桜乃は指を動かす。
ふわふわと波打つ長い髪、長い睫毛に大きな瞳、肌は白くて桃色の唇が映えている。かわいい女の子だな、と思った。白いワンピースもレースの裾がドレスのようで、お姫様みたいだ。
友達になれたのを何となく誇らしく感じた。
「あれ、次はどうするんだっけ」
桜乃が困った顔を上げて、僕はその手を覗きこんだ。「ここに通すんだよ」と指を導くと、「そっか」と桜乃はまたシロツメクサを編みはじめる。
おとうさんは、何でおかあさんと結婚したのかな。ふっとそんなことを思った。おかあさんのこと、好きだからじゃないのかな。何でいつも怒るんだろう。たとえば、僕はこの女の子と結婚できたら、怖い顔なんてせずに大切にするのに──
半年ぐらいして、おかあさんは家を出ていった。リコン、という言葉を説明された。要するに、おとうさんとおかあさんはもう一緒にいなくていいらしい。
僕はてっきりおかあさんについていけると思った。しかし、おかあさんは僕に謝ってひとりで家を出た。「あいつには経済力がないからな」と僕と手をつないだおとうさんが言っていた。
おかあさんがいなくなって落ちこむ僕を、一生懸命励ましたのは桜乃だった。桜乃は僕と同い年で、幼稚園も同じだったから、よく一緒に過ごすようになっていた。
秋が深まる中、みんなが遊びまわる幼稚園の運動場の隅っこで、僕はまた泣いていた。おかあさんがいなくなって、ごはんはコンビニ弁当や冷凍食品が多い。おかあさんが作ってくれたほかほかでほろほろのごはんが恋しくて、昨夜、「おかあさんのごはんが食べたい」とこぼしてしまった。
すると、おとうさんはみるみる不機嫌になって、「じゃあ食べるなっ」と僕の前にあったお弁当を床になぎはらった。怖くて夜は眠れなかった。朝になってもおとうさんはいらいらしていて、僕は逃げるように幼稚園のバスに乗った。
「結人くん」と声がかかって、顔を上げた。えんじ色の幼稚園の制服を着た桜乃がいた。桜乃は僕の隣に座ると「大丈夫?」と優しく僕の頭を撫でてくれた。
僕は瞳を滲ませ、昨夜のおとうさんのことを話した。桜乃はしばらく考え、「結人くんがおかあさんと行ってたら、私が結人くんとお別れになってたよ」とつぶやいた。僕は桜乃を見る。「私は結人くんと一緒にいるから」と桜乃は僕を見つめ返す。
僕は鼻をすすって、「じゃあ、桜乃ちゃんが僕のお嫁さんになってくれる?」と訊いた。「えっ」と桜乃はびっくりして目を開いたものの、僕がじっと見つめていると、「うん」と頬を染めてほのかに咲った。
桜の花びらの中で大きなランドセルを背負って、小学校に上がっても、僕と桜乃は特別仲が良かった。クラスこそ別々でも、登下校や放課後は一緒だった。友達を作らないわけではなかったけれど、僕が桜乃のクラスを訪ねると、桜乃は会話を中断して駆け寄ってきたし、逆も然りだった。
高学年では桜乃と同じクラスになり、「杉島って南村とつきあってんの?」とよく訊かれるようになった。僕が慌てて首を振ると、「でも、南村のこと好きだろー?」とにやにやされて、それにはどぎまぎして何も返せなかった。
僕は確かに、桜乃のことが好きだけど。桜乃はどうなのかな。僕なんか、幼なじみに過ぎなかったら? 桜乃はすごく綺麗な女の子に成長した。だから、やっぱり男子にモテる。僕など相手にしなくても、もっとかっこいい男子が、桜乃のことを好きらしいとうわさにもなっている。
桜乃の気持ちを確かめられないまま、中学生になった。桜乃は男子に注目されながらも、誰かとつきあったりはせずに僕と仲良くしてくれている。期待したくなっても、こらえて僕は咲う。
満開の桜が葉桜になって、初夏が過ぎると梅雨が来る。空気がじとじとして、やっと青空が広がると炎天下が続く。暑さは長引き、十月になってようやく冷房をつけなくなった。そして冬が訪れ、風が軆を切りつけるように冷たくなる。
そんな季節の移ろいを眺めながら、桜乃にいつ彼氏ができてしまうか、それがだんだん怖くなってきた。帰り道、男子が呼び止めてきて「話がある」と桜乃を連れていくこともある。そういうとき、僕はいつも靴箱で桜乃を待っていて、桜乃も僕を見つけてほっとした顔になる。
何の話だったのかは訊かなかったし、話されなかった。
「今日ね、これ調理実習で作ったの」
三学期に入った一月の終わり、今日も桜乃は僕と下校してくれていた。同じ制服が放課後の解放感の中で歩道を流れる中、桜乃はそう言って、かばんからふくろを取り出した。
クッキーが何枚か入っていて、「食べる?」と問われて僕はこくんとする。渡されたふくろの口を開くと、ふわりと甘い香りがした。一枚取り出してさくっと食べると、バターの塩味と砂糖の甘味がまろやかに広がる。
「おいしい」と僕が微笑むと、「よかった」と桜乃もにっこりした。
「それ、全部あげる」
「いいの?」
「私、授業で焼きたての食べたし」
「そうなんだ。ありがとう」
僕はいそいそとクッキーのふくろをかばんにしまった。家で大切に食べよう。
最近、家にはおとうさんの部下だという女の人がたまに食事を作りにくる。ずっと憧れていた家庭料理だけど、もうおかあさんを思い出すことになるのがつらい。当時の事情が、現在になって何となく分かってきたけど、面会にも来ないおかあさんが今どうしているかは、まったく分からない。
「結人は」
はっとして桜乃を向いた。桜乃はセーラー服のスカーフを指先でいじりながら、僕に首をかしげてくる。
「甘いものって、好き?」
「え、うん。食べるよ」
桜乃はうなずき、「分かった」となぜか僕に笑みを見せた。僕はよく分からないままうなずく。もうじき学年末考査だとかいう話になって、一学期からの勉強を振り返るのかあと憂鬱になった。
二月に入ってすぐ、学年末考査が行なわれた。頑張って桜乃と勉強したおかげか、平均点は全教科クリアできた。桜乃の成績もよかったみたいだ。これであとは、春休みが来て二年生に進級するだけだ。
ひと安心した二月の半ば、朝登校すると靴箱に包みが入っていた。何だろ、と取り出していると、「うわっ、いきなりチョコもらってるし」とクラスの友達が後ろから突然声をかけてきた。
チョコ。そうか。今日はバレンタインか、とぼんやり思った。「誰から?」と突っこんでくる友達をかわして、廊下に出ると、桜乃が僕の手にある包みを見つめてきた。
「あ、何か、バレンタインみたいで」
「クラスの子?」
「分かんないけど。どうしよう」
「……食べてあげたらいいんじゃない?」
「食べたらお礼しなきゃいけないよ」
「結人、いつも私のバレンタインにお返しくれるじゃない」
「桜乃だからだよ」
桜乃は僕を見て、「お返しのことより、告白されたってことを考えたら」と言う。
「えっ。あ──そうか。困るな……」
桜乃はふわふわの髪をなびかせて歩き出した。僕はそれを追いかけて、「女の子はチョコ返されたら傷つくかな」と訊いてみる。
「傷つくなんてものじゃないよ」
「そ、そうなんだ。一度持って帰るしかないか……」
言いながら、桜乃を見た。
桜乃には毎年チョコをもらっている。けれどそれは、桜乃からというより、桜乃と桜乃のおばさんからで、いつも買ったものだ。それでも、桜乃からのチョコは嬉しいけど、今日はまだもらってない。
無論催促するわけにもいかず、一日を過ごした。
小学校まで桜乃にもらうだけだったのに、何人かの女子にチョコをもらった。困った顔をしてしまうと、「杉島くんが、南村さんを好きなの分かってるけど」と言い添えた子もいた。それなら渡さなきゃいいのに、と思っても、「ありがとう」と言っておいた。
放課後になると、桜乃と一緒に帰途についた。
「結人、これ」
団地が入り組む道になって人通りが減ると、桜乃は僕に白いリボンがかかったピンクの包装を差し出した。僕はまばたきをして、つい微笑んでしまい、「もらえないかと思った」と受け取る。
「どうして」
「中学生になったし、女の子は好きな人にあげるんだなあと思ったから」
「だったら……結人には、あげないわけないでしょ」
「え」
「今年はおかあさん手伝ってないから。私が作った奴だよ」
「作ってくれたの?」
「本命にはちゃんとしたいから」
「え……えっ、本命?」
「本命」
「え、と。それって……」
「ずっと、好きだったから。結人のこと」
驚きでまじろいた。桜乃は白い頬に色をさして、視線をそらす。
「好き、って。ほんとに」
「うん」
「僕のこと……」
「幼稚園のときから、結人が好きだったよ」
手の中の包みを見下ろし、桜乃の横顔に目を戻した。
「あ、あの……」
桜乃は僕に目を向ける。僕は曖昧に咲った。
「どうしよう、答えはホワイトデーじゃないといけないのかな」
「えっ」
「僕も、ずっと桜乃が好きだったから」
「結人──」
「でも、今お返しのクッキーとか持ってないし、ちゃんと、」
慌てる僕にまばたきをしてから、桜乃は微笑んだ。「待たなくていいよ」と桜乃は僕の顔を覗きこむ。
「お返しなんてくれなくても、結人の気持ちが一番嬉しい」
桜乃と見つめあって、僕は照れ咲いをこぼした。桜乃もにっこりして、僕たちは久しぶりに、幼い頃よくそうしたように手をつないだ。
そうして、僕と桜乃は恋人同士になった。
中学時代は、桜乃と穏やかに想い出を残していった。僕たちがつきあいはじめたことは、自然と学校でも知れ渡ってほとんどの人に祝福してもらえた。桜乃を気にかけているとうわさだった男子さえ、「やっぱ杉島には勝てなかったあ」と完敗を認めている。そんな中で、修学旅行や体育祭、文化祭──いろんな行事を桜乃と過ごし、僕たちは同じ高校に進学した。
その頃、僕の家の中が騒がしくなった。おとうさんが、例の部下の女の人と再婚することにしたのだ。
おとうさんは、相変わらず子供のように機嫌を損ねることがあっても、女の人はそういうおとうさんのこともひっくるめて「しょうがないですねえ」と受け入れてしまっていた。悪い人ではないのだろう。そう思ったから、僕は再婚に反対しなかった。
「結人くんには、ひとり紹介しなきゃいけない子がいて」と新しく母親になる早智子さんというその人は、ゴールデンウイークの最中、僕の前にあまり歳の変わらない男の子を連れてきた。
「桐弥っていって、前の夫との子なの」
僕の家に来た早智子さんの隣で、桐弥くんはかったるそうにポケットに手を突っこんでいた。「どーも」と馴れ馴れしい口調で言われて、不良っぽいな、と思いつつ「初めまして」と消え入りそうに返す。
「桐弥は高校三年生になったところだから、結人くんのふたつ年上ね」
「はあ」
「愛想悪いけど、本当の兄貴だと思って厳しくしてやって」
弟が兄に厳しくするのかと思っても、口にはしない。桐弥くんは面倒臭そうに僕を一瞥したあと、「おじさんは」と早智子さんに問う。
「今日は遅くなるって言ってたから、私たちで夕食食べておけって言ってたわ」
「どっか食べにいくの?」
「この家のキッチンにはもう慣れたんだから、作ります」
「ちぇっ、いつも通りじゃん」
「ほら、ふたりはリビングでゆっくり話でもしてて。すぐ何か用意するから」
え、とまごついていると、早智子さんは僕と桐弥くんをリビングにうながし、キッチンに立った。
桐弥くんはソファにどさっと腰を下ろし、僕はそろそろと隣に座る。桐弥くんの髪は毛先のほうが青に染められて、グラデーションになっている。細い目、白い肌、肩幅の骨はしっかりある。
桐弥くんは僕を見て、「何だよ」と眇目をした。僕は首を横に振る。すると、素早く手を伸ばした桐弥くんに頬をつねられた。僕が嫌がって顔を背けると、桐弥くんは楽しそうに笑う。
「おじさんの息子だから偉そうかと思ったら、ぜんぜんじゃん」
「……僕はおとうさんがよく分からないから」
「っそ。お前、名前何だっけ」
「結人」
「別に、かあさんとおじさんの結婚、反対じゃないだろ」
「ん、まあ」
「じゃ、まあ、そこは祝福して、俺たちも仲良くやろうぜ。俺たちが気まずかったら、親も気まずいだろ」
「……そう、だね」
「よし。じゃあ、よろしく」
桐弥くんは手をさしだしてきて、僕は握り返した。「女みたいな手だなあ」と桐弥くんは僕の手を見てからから笑った。一見、怖いけれど。嫌な人ではないのかもしれない。
ゴールデンウイークが過ぎて六月になり、おとうさんと早智子さんは結婚した。早智子さんと桐弥くんが僕たちの家に引っ越してきて、四人での生活が始まる。
桐弥くんは校則が緩いと聞いたことのある高校に通っていた。僕の通う高校では、茶髪だって先生にとがめられる。
歳の近い兄ができたことは、桜乃には話していた。「仲良くなれそう?」と心配されて、「仲よくしようとは話した」と僕は複雑な口調で答えた。
むしむしと湿気が肌にまとわりつく霖雨が続く中、期末考査の試験期間に入った。今回も一緒に勉強しようということになり、桜乃を家に連れてきた。
「ただいま」と玄関を開けると、すうっと冷気が触れる。エアコンが入っている。誰かいる、と雨に湿った肩をはらいながら思ったとき、リビングから桐弥くんが顔を出した。
「おう、結人おかえり」
「桐弥くん──え、高校は」
「雨だからサボった」
受験生の桐弥くんは、一応進学組らしいのだけど。
まあいいや、と僕は後ろにいる桜乃を家に通した。すると、「え、何その美少女」と桐弥くんが廊下に飛び出して歩み寄ってくる。桜乃はとまどって僕を見て、僕はさりげなくふたりのあいだに入る。
「僕の彼女だよ」
「はあ!? 何、お前、こんなスペック高い子とつきあってんの」
「幼なじみだから」
「うわっ、何だその最強設定。えー、彼女ちゃん、名前は」
「南村桜乃……です」
「何だよー。幼なじみなんて安全な奴やめて、俺にしない?」
「えっ。……いえ、それは」
「わーっ、振られた。くっそ、彼女かあ。欲しいけど女って面倒だからなー。結人も苦労してんだろ」
「してないよ。桜乃は面倒な女の子じゃない」
僕が憮然として言うと、桐弥くんは噴き出して「マジになるなよ」と言ってふらふらとリビングに行ってしまった。僕は桜乃を覗きこんで、「大丈夫?」と髪を撫でた。桜乃はうなずいても、「結人とぜんぜん違う感じだね」とつぶやいた。
期末考査が終わって梅雨が明けると、青空が広がり、夏休みになった。蝉の声が狂ったように降ってきて、何もしなくても汗がいくらでも流れる。
桜乃は僕と桐弥くんの仲を案じ、よく遊びに来てくれた。そんな桜乃を「押しかけ女房かよ」と桐弥くんは揶揄う。桜乃も気が弱いほうではないから、次第にそんな言葉に言い返すようになった。
そして、そういうやりとりのうち、桜乃は桐弥くんに僕より先になじんでいった。喧嘩みたいな言い合いをしつつ、桜乃は楽しそうに咲っていて、僕はそれに混ざるテンションが分からず置いてきぼりになる。
桐弥くんの前で、見たこともない快活な笑顔をあふれさせる桜乃に、心臓がもやもやしても、どんな言葉で声を出したらいいのか分からなかった。桜乃は僕の家に来ても僕とふたりきりになることはなく、桐弥くんと軽口をたたく。
桜乃の気持ちが霞むようにつかめなくなり、不安で吐き気が胸につきまとうようになった。
もしかして。もしかして、桜乃は僕のことより──
夏休みが終わりかけた八月、その日はいつもリビングでだらだらしている桐弥くんが出かけていて、僕と桜乃は久々にふたりきりだった。
「桐弥さんは?」と真っ先に尋ねられて、心が嫉妬で捻じれたけれど、「友達と遊ぶって」と僕は桜乃に麦茶をそそいだグラスを渡した。「そうなんだ」と言った桜乃の表情が、かすかに残念そうだったのを僕は見てしまった。僕は自分の麦茶もグラスにそそぎ、桜乃を部屋に連れていった。
ベッドサイドに並んで腰かけ、お互い無言で麦茶を飲む。冷房がよくきいている。なのになぜだか、くつろぐことができない。どうして、こんなに気まずいのだろう。
僕たちは、ずっとふたりで仲が良かったではないか。ふたりきりの時間なんて得意なはずなのに。桜乃の顔を見るのが怖い。
「……あの」
不意に桜乃から沈黙を破り、僕ははっと肩をこわばらせ、グラスを握りしめる。
「深い、意味はないんだけど」
「……うん」
「桐弥さん、ほんとに友達と出かけたの」
「えっ、何で」
思わず桜乃を見ると、「えっ……と」と桜乃は少し言いよどむ。
「何というか、彼女ができたんじゃないかなって」
桜乃を凝視した。桜乃はうつむき、「そんなわけないか」と僕が何か言う前に自分で否定してしまう。その照れるような表情に、僕は頭の中が粉々に砕けた気がした。
そんな。ひどいよ、桜乃。君は、僕のそばにいてくれるって言ったじゃないか。
僕のそんな猜疑心から、桜乃との仲がぎくしゃくしはじめた。
猛暑だった夏がやわらぎ、吹く風が涼しくなる。街路樹の銀杏が紅葉する頃、もう一緒にいても息苦しいのに桜乃と共に下校して、棟の入口で別れると帰宅した。
桐弥くんの大きなスニーカーがある。また学校サボったのか、と息をつきながら家に上がると、「お、結人おかえり」と桐弥くんがリビングから現れた。
「あ……ただいま」
「腹減ったー。カップ麺なくて、昼飯食ってねえわ」
「早智子さんのお弁当は?」
「あれは朝に食った」
「はあ」と答えながらさっさと部屋に行こうとしたとき、「そういや、桜乃は?」と桐弥くんが切り出してきてどきんとする。
「家に、帰ったよ」
「っそ。じゃあ、今度連れてきてくれよ。返事するし」
「……返事?」
「ったく、お前、しっかりしろよなー。あいつ、俺に告ってきたんだぜ」
僕は桐弥くんを振り向いて、目を剥いた。
「俺にはあいつ妹みたいなもんだし、振るけどな。お前のほうが似合ってるよ」
視覚も聴覚も、砂嵐になる。息が震える。足元が無重力になったみたいに心許なくなる。
告った? 桜乃が桐弥くんに?
……いや、分かっていた。気づいていた。それでも、喉が痛んで涙がこみあげそうになる。まさか、桜乃が本当に僕を裏切るなんて。
ひと晩じゅう、頭がずきずきしてくるほど考えた。桐弥くんは、たぶん本当に桜乃を振る。しかし、かといって僕は平然と桜乃の彼氏を続けられるのか。
桜乃は僕と別れるという手順さえ踏まなかった。恐らく、僕は保険なのだ。桐弥くんに振られても、僕のところに戻ればいいという。
何だよ、それ。僕を何だと思っているのだ。そんな桜乃を愛おしいとは、もはや思えない。
翌日、僕は桜乃と一時間目をサボって、ファミレスで桐弥くんに告白したのを聞いたと話した。桜乃は真っ青になっていたものの、何分も続いた重苦しい沈黙に耐えかね、押し殺して泣き出した。
僕のほうが泣きたいのに。
「ダメだって、ちゃんと思ったんだよ」
桜乃が言い訳を始めても、心は微動もせず冷めている。
「私はずっと結人が好きだったし、揺らぐはずないとも思った。けど、どうしても桐弥さんのことで頭がいっぱいになって。我慢できなくて。どんどん、桐弥さんのこと好きになっちゃって……」
きっと、桐弥くんには振られるよと諭しても、何の効果もないのだろう。ひがんだ僕が嫌味を言ったとしか受け取ってもらえない。
僕たちは、いつも通じあってきた。しかし、重なっていた心と心には亀裂が入って、言葉の思うところさえ共有できない。その時点で、僕たちはダメなのだ。
ずっと一緒だと思っていた。バカみたいだけど、桜乃と結婚するんだろうなんて思っていた。
幼かった春の日、クローバーの野原で、蝶が連れてきた綺麗なお姫様。一生大切にしたかった。
だけど、僕たちは終わりだ。
大好きだった。
でも、今ここで別れよう。
だって、二度と君は、僕に向かって「好き」って言わないのだろうから。
FIN