眠る想い

 初めてのひとり暮らしを過ごしたこの部屋とも、いよいよ来週にはお別れだ。
 会社で勤務地の転勤が決まったからで、自分の気分で引っ越すわけではないからちょっと寂しい。けれど、その寂しさに浸る間もなく、転居先を探したり、送別会を開いてもらったり。この週末にやっと荷造りを本格的に始められるくらい、ここのところいそがしかった。
 社会人になってこの部屋で暮らしはじめた。今二十五歳だから、三年くらいお世話になったことになる。アパートのほかの住人と関わりはないけれど、大家さんと管理人さんとは顔見知りになって、会えば立ち話はするくらいにはなっていた。私が退去の申し入れをしたときも、アパート内の清掃をしていた管理人のおばさんは、「寂しくなるわねえ」なんて言ってくれた。
 ワンルームとはいえ、荷物は少なくないから、運送屋さんに多めにダンボールをもらっておいた。それにせっせと荷物をつめこんでは、マジックで中身を表記しておく。
 もちろん、思い切って捨てるものもある。あんまり着なくなった服とか、ほとんど使わない食器とか。
 黙々と荷物をかきだしていって、いるかいらないか判断して、ダンボールかゴミぶくろに分けていく。そんな作業を深夜になっても続けていたら、そろそろ一段落ついたかなと思ったクローゼットから、きゅっと口を縛られたふくろが出てきた。
 何だろ、ととっさに中身が分からなくて首をかしげた私は、中身を確認して「わっ」と声を出してしまった。
 やばい。学生時代のガラケーたちだ。
 私の学生時代は、ぎりぎりまだスマホがなくて、ガラケーだったのだ。そう、メールや画像が残っているのを実家に置いてくるのも何だったので、持ってきたっけ。懐かしいなあとふたつ折りを開いてみるけれど、もちろん画面は暗いまま起動しない。
 動かないよなあ、なんて思いつつ、充電器も同じふくろに入っていたので、物は試しに充電してみた。そのあいだ、またしばらく荷造りに精を出していたけど、思い出して充電にかけていたガラケーを手に取って、電源ボタンを長押しする。
 すると、ガラケーは一度震動して目を覚ましてくれた。
「やば、懐かしすぎ……」
 そんなひとりごとがもれてしまう。
 壁紙とか、学生時代にハマっていた漫画の二次創作絵のままだし。この漫画、もう売っちゃったんだよな。あんなに好きだったことを思い出すと、もったいないことをしたかなあなんていまさら感じる。
 メール残ってるかな、と久々に操作にやや手間取りつつ、メールボックスを開く。すると、きっちり受信箱が整備された画面が現れて、笑ってしまった。そうだ、昔は手動で振り分け設定とかやっていた。最近ほとんど連絡を取っていない、学生時代の友達とのメールがたくさんあって、思わず受信箱の中身をひとつずつ読みふけってしまう。
 でも、その中にあの人のメールも残っているのに気づいたときは、心臓がひやりとするくらい脈打った。
『次の授業サボれる?』
『ごめん、今日の放課後は無理だわ。』
『週末会えるけどどーしよう。』
 ……私、これ消してなかったのか。
 雪田ゆきた太一たいち先輩。高校時代、私がずっと片想いしていた人。私の気持ちに応える気はないのに、処女だけはもらっていった人。……同じ三年生に、お似合いの彼女がいた人。
 その彼女──関谷せきや菜月なつき先輩は、部活で私をかわいがってくれていた人だった。あんなにお世話になりながら、関谷先輩を裏切っていることは分かっていた。でもやっぱり雪田先輩が好きで、私は隠れた浮気相手であることに甘んじていた。
 関谷先輩が、私と雪田先輩のことを知っていたかどうか、当時は分からなかった。でも、卒業したら関谷先輩は私に連絡を返してくれなくなったから、感づいていたんだろうな。それに気づいたのを切っかけに、私は雪田先輩のメールに返信しなくなった。そのまま、つながりは自然消滅した。
 今頃、あのふたりはどうしているのだろう。まだつきあっている? もしかして、結婚したかな。子供もいたりして。
 私だって、雪田先輩の隣にいたかった。選ばれるはずもないのに、好きで、声を聞きたくて、触れあいたくて。
 あの頃の想いが胸をよぎり、ぎゅっと息が苦しくなる。我ながらバカな恋に高校時代を費やした。けれど、どうしても、あの人が好きだったのだ。
 ああ、もう。忘れていたのに、一気にいろいろ思い出しちゃった。
 このメールは消したほうがいい。きっと、もうこのメアドも変更されて、雪田先輩につながることは絶対にないけど。それでも、残しておくといつまでも断ち切れない。
 受信箱ごと雪田先輩からの言葉を削除した私は、ほんとに好きだったな、としんみり思った。
 好きな人にセカンドにされていた。無意識に、その体験で新しく誰かに恋をすることも避けていた気がする。でもそろそろ、次の恋も考えていかないと。前に進むんだ。
 ガラケーたちをふくろに戻した私は、これって普通にゴミとして捨てるのは無理だよなと考える。処分するなら、ショップに引き取ってもらうしかないか。ちょっと今はそのヒマがなさそうなので、転居先でどうするか考えることにして、とりあえずダンボールに投げこんでおく。
 それからまた、荷造りに取りかかりはじめる。
 このまま、あの恋は眠らせよう。心がひりひりするほどだった想いは眠らせる。そして痛みが鎮まったら、ちょっとした恋活でも始めてみようか。
 あなたへの恋に囚われていた頃とは、違う私だから。焦がれた想いはもう眠る。そして私は、新しい自分として目を覚ます。

 FIN

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