スタートライン
俺じゃない。俺が決めたわけじゃない。
進学することにした専門学校が、雪の地元にあるのを知った司と南が、「絶対に雪ちゃんの部屋の近所に住め」と懇願してきたのだ。俺は露骨に嫌な顔を作ったものの、作っただけで──まあ、いい口実だとは確かに思ったけれど。
俺が高校を卒業し、浪人することなく第一志望の合格通知を受け取ると、「今年の夏は吹雪が来る!」と次男その一の授と末弟の奏は騒いだ。俺がそんな二匹の頭をはたいていると、次男その二の響だけは、「おめでとう」と笑みを噛みながら祝辞を述べた。
司は「よくやった」と肩をたたいて、南は「遠方になるのは心配だなあ」と寂しそうに息をついた。
「にいちゃんがひとり暮らしとか、確実にコンビニ弁当生活だよなー」
「僕もそう思う……。ちゃんと野菜も食べなきゃダメだよ? 野菜ジュースでもいいから」
「ていうか、女の子連れこみ放題だよねー」
「あー、俺はそれが心配。築、お前、遠慮なく徳用のコンドーム常備しとけよ」
「雪さんが見てくれるといいけど……近所で部屋見つかりそうなの?」
ボロカスに言ってくる家族に、俺は舌打ちして、「何か、せいせいしてきたぜ」とリビングのソファの真ん中にどさっと座った。
授と奏は格闘ゲームの対戦をしていて、響はソファの右隅で本を読んでいる。スーツの司は日曜出勤から帰ってきたところで、南はエプロンをつけて夕食の支度の最中だ。
「雪ちゃんに、ちゃんと電話入れとかないとな。部屋見に行くときも付き添ってもらえよ」
「ひとりで行ける」
「部屋の選び方とか、お前何にも知らないだろ。住みはじめてから問題に気づいても、引っ越し代やらねえぞ」
司は建築関係の仕事をしているせいか、家の間取りとか管理にうるさい。「俺、そこまでこだわらねえし」とつぶやくと、「やっぱ俺が付き添うかなー」とか過保護なことを言い出したので、俺はおとなしく「雪には、このあと電話して訊いてみるけど」と言っておいた。
「女ったらしもひかえるようにしろよ。んなことしてたら、留年するだけだからな」
「分かってるっつうの」
「というか、にいちゃん、今、彼女いないの?」
「卒業式に別れた」
「うわ、そこは遠く離れても、愛を誓うところだよね」
「初恋もしてないガキが言うな」
「にいさんとつきあえる順番待ってる女の子もいるとか言ってたけど」
「あー……卒業式に押しかけてきた女もけっこういたけど」
「まさか、全員待たせるの?」
司が脱いだスーツを受け取る南が、まばたきをする。「まとめて振ってきた」と俺がしれっと言うと、「悪魔がいる」「冷酷な鬼がいる」と授と奏がコントローラーを連打しながら、またざわめいた。「うるせえし」と俺は授と奏の背中を順番に蹴る。
そんな俺をたしなめた南は、「離れるのは寂しいけど、築に厳しくしてくれる雪ちゃんのそばに行くならいいことかもね」と苦笑して、ネクタイを緩める司といったんリビングを出ていった。
できあがった夕食は、醤油風味が和風の菜の花のパスタと、バターで仕上げた春キャベツと豚肉炒めだった。南の料理はどんどんうまくなっている、と思う。これを食べられなくなって、毎日コンビニ弁当になるのは、味気なくなるなとは正直感じた。
授と奏はまだゲームをやるらしく、俺は部屋で雪に通話するので、風呂は響に譲った。司と南は、一緒に食器を洗っている。
二階に上がって授との部屋に入ると、明かりをつけて二段ベッドの下に腰かけた。三月半ば、室温はそろそろ暖房まで入れなくてもよくなった。充電につないでいたケータイを手に取ると、深呼吸などしてしまう。
雪が隣の家に里帰りしたときは、そこそこ話したりもするのだけど、わざわざ連絡することなんて、これまでほぼなかった。ちゃんと出るよな、と雪の連絡先を表示させ、通話をタップしようとした。
が、彼氏といるとかで無視されるかもしれない。雪に彼氏がいるかどうか、はっきりしたことは知らない。普通に考えて、いると思う。
あんなにしっとりした美人で、歳なんて二十歳だぞ。唸って考えた挙句、とりあえずメッセしよう、と俺はケータイの画面を睨みなおし、『通話できる?』というひと言にたどりつくまで、何度も言葉を打っては消した。
ようやく思い切って送信をタップし、どっと疲れて大きく息をついたのに、すぐに既読がついたのでどきっとしてしまう。じっと見守っていると、『髪が乾いたら、こっちからかける』と返事がぽんと表示された。
まばたきをして、髪濡れてるのか、とそのすがたを想像しかけて振りはらった。いや、というか、何で? 普通に風呂上がりか。彼氏との事後じゃないよな。そうだったらどうしよう。
勝手に悶々としてベッドに倒れこみ、そばに行けたらもっと雪のこと分かるのかなあ、と考えた。この春から、盆と正月にしか会えなかった雪の日常に入りこむことができる。
俺のことを少しは意識してくれたりとか、そういうのはないだろうか。でも彼氏いるかもしれねえし、と自虐的に固執し、雪の上気した肌を男の手が這うのを妄想してへこむ。
雪の日常にいる存在になりたい。それと同じくらい、雪の身の周りが明るくなるのが怖い。知りたくないことまで知ってしまうかもしれない。
それに同時に、俺のことも知られるということなのだ。ほんとに女と軽くつきあえなくなるかも──雪が近くにいるなら、たらしは必要ないことなのかもしれないが。
仰向けになって、ぼんやり上のベッドのマットレスを眺めていると、不意にケータイに通話着信がついた。
俺はぱっと起き上がってケータイをつかむ。雪からだ。ふうっと息を吐いて心臓をなだめてから、俺は応答にスワイプした。
「もしもし」
『もしもし。何か用?』
「いそがしかったのかよ」
『頭が痛いの。二日酔いかしらね』
「誰かと飲んでたのか?」
『さあね。それで、用はあるの? ないの?』
ないって言ったらこいつ冷たく切るんだろうなあ、と思いつつ、「第一志望のそっちの専門に合格した」と報告してみた。雪は『あら、おめでとう』と答えてから、『本当にこっちの学校受けたのね』と続ける。
「児童心理学のカリキュラムがよさそうだったから」
けして嘘や言い訳ではないことを言うと、『ああ』と雪は声をもらす。
『あんた、スクールカウンセラー目指すんだったわね』
「笑うなよ」
『笑ってないわよ』
「学校でも家でも、かなり笑われたぜ」
『昔のあんたみたいな子を、ちゃんと導きたいんでしょ。いいんじゃない?』
雪が目の前にいなくてよかった。ほかならない雪にそう言ってもらえて、にやにやしてしまったから。
しかし、授がいつドアを開けてくるかは分からないので、すぐ表情は引き締める。
『あんたは、本当に頭悪かったわよね』
「何だよ、それ」
『司さんと南さんのこと、頑固に拒絶して、その家にいたくないって、家出の真似事ばっかりして。授と響にも心配かけて。ほんとはた迷惑な奴だったわ』
「……悪かったな」
『でも、そんなふうに家庭が居心地悪いと思う子にとっては、せめて学校が居場所になるのはいいことだと思うわよ。あんたはその手伝いをしたいのよね』
「ん、まあ。そうかな」
『頑張りなさい。できるわよ』
俺はケータイを握って、いつになく素直に「……うん」と言った。雪がそう言ってくれるなら頑張る。マジで目標も叶えてやる。
そうしたら、雪も俺のことを少しは認めてくれるかもしれない。
「あー、それで……司と南が、すげーうるさく言ってくるんだけど」
『何?』
「できれば、雪の近所の部屋を借りろって」
『………、あんた、信用ないわね』
「迷惑ならそれでいいし。ただ、雪から司と南に──」
『構わないわよ。住宅街のアパートだから、近所のアパートなんていくらでもあるわ。さすがに同じアパートは気持ち悪いけど』
「気持ち悪いって何だよ」
『朝、ゴミ捨てに行ったらあんたがいたりするの? 所帯じみて嫌だわ』
確かに所帯じみた感じになるのは嫌だな、と思う。「部屋探すのも手伝ってもらえって言われた」と俺がつけたすと、『ひとりでできないの?』と雪はあきれる。
「俺は自分でやるって言ったけど、司がうるさいんだよ。雪がつきあわなかったら、司がついてくるかもしれない」
『保証人のサインとか必要だし、ついてきてもらったほうがいいんじゃないの』
「そうだけど……司って部屋の間取りとかにうるさいんだよ。ついてきたらめんどくさい」
『そういえば、司さんって建築関係だったわね』
「そう。司じゃなくて俺が気に入った部屋に住みたいし」
『まあ、それはそうね。分かったわ、つきあうわよ。今週、とりあえずこっち来なさい』
やった、と思わずガッツポーズが出る。いや、違う、司と南がうるさいからなのだけど! それでも、雪に会えるのは、近所に部屋を探せるのは──くそ、やっぱ嬉しいな。
通話を切ってケータイを投げると、一階に降りて、司と南に雪がふたりの頼みを承諾したのを伝えた。ソファで授と奏の対戦を眺めていた司と南は、「よかった」と声を合わせて微笑んだ。
「そしてにいちゃんは雪姉の尻に敷かれるのであった」と授が言って、奏はころころと笑う。「築は敷かれてちょうどいい」と司はこまねき、「一応、僕たちからも雪ちゃんに連絡しなきゃね」と南は几帳面に言う。
「今週、とりあえず来いって言われたんだけど」
「日帰りできたっけ?」
南が首をかたむけて茶色のくせ毛を揺らし、「たぶん無理」と俺は肩をすくめる。
「でも、夜行バスとかで行けば、夜寝てるあいだに移動できるし」
「そっか。バスも予約しないといけないね」
「借りたい部屋のメドはつけてこいよ。お前まだ十八だし、保護者のサインいると思うから、そういう書類も持って帰ってこい」
「司のサイン?」
「俺じゃ不満かよ」
「いいけどさ。間取り見て文句つけんなよ」
俺の言葉に南がくすっと咲って、「司は仕事だからどうしてもね」と笑みを噛む。司はやや憮然としたものの、「アドバイスしなきゃいいんだろ」と少しむくれた。
「ただし、家賃はらってやるのは俺と南なんだから、そこは考慮しろよ。安ければいいってわけでもないけど」
「え、家賃はらってくれんの」
「学生のあいだははらってやるよ。卒業したあとは、きちんと給料からはらえ」
「すぐ就職できんのかなあ」
「できなかったらバイトしろ」
「やっぱり、就職も向こうで考えるの?」
南の問いに俺は首を捻り、「まだそこまで考えてねえけど」と正直に答える。「そっか」とうなずいた南は、「この家にはいつでも帰ってきていいからね」と微笑んだ。「分かってるよ」と言いつつ俺が照れ臭くて目をそらしていると、「お風呂空いたよ」と髪も乾かした響が顔を出した。ふわりとボディソープの匂いがただよう。「お前ら、風呂は」と司に訊かれると「まだ!」と授と奏は声を揃えた。
「じゃあ、俺たちもあとでいいから、築行け」
「『俺たち』って一緒に入んのかよ」
「うらやましいか?」
俺がそっくりだと言われる、切れ長の目で司がにやりとして、俺は「……勝手にやってろ」と息をつくとリビングを出た。
階段をのぼりかけていた響が、「雪さんは何て?」と尋ねてくる。「今週のどっかで向こう行って、一緒に部屋探してもらう」と伝えると、響は「そう」とうなずき、「にいさんが家を出るって変な感じがするね」と少しかわいらしいことをつぶやいて二階に行ってしまった。
この家を出る。昔は、死ぬほど毛嫌いしていた家なのに──俺も、ひとり暮らしを始めるなんて変な感じだ。浴室に向かいながら、家を出る歳になったんだよなあ、なんて思った。
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