ALIKE-7

変わらない家族

 昼過ぎに地元の駅に着いてから、いつも家にいる南に連絡しようと思ったけど、作業中だろうかと思った。南は絵を描くのが仕事で、日中と深夜は作業をしていることが多い。
 盆だから司も仕事が休みかもしれないが、家にいるなら南のそばにいるだろう。じゃあ授──陸上部のエースは部活か。響は勉強しているだろうし、奏は母親の巴さんとの家かもしれない。あんなに人がいて誰も確実に捕まらねえじゃねえか、と舌打ちした俺は、別に鍵持ってるし、ともう誰にも何も言わずに帰宅することにした。
 蝉の声が反響する、狂ったように青い空から、日射しがぎらぎらと半袖の腕を焼いてくる。体温がおかしくなりかけて、頭がくらくらするので、ときおりペットボトルのスポーツドリンクで喉を潤す。その水分はすぐ汗になって、こめかみや軆を伝っていく。じっとりした生温かい風がたまに流れると、道端の雑草が蒸された匂いを立ちのぼらせる。「暑い」と無駄なひとりごともこぼれる。
 盆だけど、雪は帰省しないらしかった。大学生になってから来ないの増えたよな、とうつむき、あんな女でも彼氏と離れたくないとか思うのだろうかとアスファルトを踏むスニーカーを見つめる。
 いつからつきあっているのかとか、不倫じゃないだろうなとか、いろいろ疑問は湧いてきても、ぶつける勇気も機会もない。俺が『今日から実家帰る。』とメッセを送っても、『みんなによろしく。』としか返ってこなかった。男らしいぐらいに短文だ。高校時代の経験だと、女のメールは長いものだと思っていた。
『水瀬』と『美由』の名字が並ぶ表札の前にたどりつくと、ドアフォンくらいは鳴らしておいた。時刻は十四時が近い。勝手に入っていいだろ、と門扉に手をかけると、『水瀬あるいは美由ー』とインターホンからふざけた応答が聞こえた。
「お前、部活なんじゃねえの」と名乗りもせずに言ってみると、『誰っすか?』とか返ってきたので、無視して庭に踏みこんだ。鍵を取り出す前にドアががちゃっと開いて、「お、やっぱにいちゃんかー」と昨日も会っていたようなナチュラルさで、アイス片手の授が顔を出す。
「『誰っすか?』って何だよ」
 ずいぶん日焼けしたなと思いながら、授の俺より人懐っこい顔立ちに眇目をすると、「いや、」と言いながら授はソーダ味っぽい青いアイスを食べる。
「帰ってくるとか聞いてなかったもんで」
「盆は帰ってこいって司が言ってただろ」
「ちゃんとそれ守るとは、驚きですわ。ちょうど彼女とのつきあいが切れたとか」
「向こう行ってから、女作ってねえし」
「えー、ついに行きずりに」
「やってねえよ。お前の中の俺は何なんだよ」
「女たらし」
「ちっ。お前は彼女とどうなんだ。陸上バカで、そろそろあきれられてるだろ」
「俺と桃に限ってそんなんないし。仲良しこよしですよ。盆で部活ないから、会えなくて嘆いている感じですよ」
「……司と南は?」
「あのふたりも仲良しこよし」
「それは知ってる。今いねえの?」
「さっきまでリビングにいたけど、南が作業に行ったんで司もついていった」
「──授、いい加減、にいさんを家に入れてあげたら?」
 不意にそんなクールな物言いが聞こえて、リビングにつながるドアを見ると、授に較べてずいぶん肌がしっとり白いままの響が現れていた。
「よう」と俺が言うと、「おかえり」とやっとまともなことを言ってもらえる。「アイス溶けるー」と授が引っこんだので、俺は半開きのドアから家の中に入った。懐かしい匂いがして、響が開けているドアからひんやりした空気も流れこんできていた。
「響はにいちゃん帰ってくるの知ってた?」
「ううん、知らなかった」
「別に誰にも言ってねえからな」
「えー、南とか絶対『言ってくれてたらご馳走作ったのに』って言って、俺もついでにご馳走食えたのに」
「今日作れなきゃ明日作るだろ。一週間ぐらいいるし」
「一週間」
「悪いかよ」
「いや、意外と短いなと」
「にいさん、専門学校はうまくいってるの? 確か、夏休み前は試験あるよね」
「よく知ってんな。ちゃんと合格したから夏休みに入れた」
「そうなんだ。向こうでのこと、あんまり報告ないから、司と南、心配してるよ」
「いちいち報告することもないし。何か……変な友達ならできたけど」
「変な友達」
 そこは声を揃えた授と響に、「いろんな奴がいるよな……」とつぶやいて俺は家に上がった。「変な友達を詳しく」と授もついてきて、「にいさんが友達の話するの初めて聞いた」と響も眼鏡の奥でまばたきをする。
「俺も友達くらい作るし。奏は?」
「昨日、かあさんも一緒にここで夕食食べて、帰っていったよ」
「巴さん、元気だった?」
「うん。仕事は大変そうだったけど」
 響と奏の母親である巴さんはスタイリストで、俺でも聞いたことがある芸能人と仕事をしたり、撮影で海外まで飛びまわったりしている。そんな巴さんが留守のとき、奏は第二の我が家であるここにやってくるわけだ。
「響は勉強順調か」
「宿題終わったから、二学期の予習してる」
「宿題終わって、さらに勉強するのが俺には分からんのですが」
「お前、宿題終わってないのかよ」
「まだ盆だよ」
「夏休みなんかすぐ終わるぞ。で、たぶんすぐ実力テストだぜ」
「えー。仕方ないから、俺は頑張って走ろう」
 授は、陸上の推薦で今の高校に進学した。だから、多少は部活の実績で成績も何とか大目に見てもらえるらしい。
 リビングに入ると、クーラーがきいていて天国に来たみたいに癒やされた。俺は荷物をおろして、「シャワー浴びてえ」とかぶつぶつしながらクーラーの下に行き、冷風で髪をそよがせる。
 しゃりしゃりと音を立てながら授はアイスを食べて、響はソファに腰かけて読みかけだったらしい本を手に取る。各自部屋でクーラーをつけていたら電気代もかかるので、夏はなるべく日中はずっとクーラーがきいているリビングに溜まる。そんないつも通りの夏が相変わらずそこにあって、帰ってきたんだな、なんて思った。
 ひぐらしの声が響いてゆっくりと日が暮れはじめた夕方、司と南が二階の作業部屋から降りてきた。「どうも」と言った俺のすがたにきょとんとしたあと、「ちゃんと帰ってきやがったかーっ」と司は俺の肩をはたいて、「元気そうでよかった」と南も嬉しそうに微笑んだ。
「連絡くれてた? 気づかなかったならごめん」
「いや、してない。南は作業中かなと思って。司もそれに付き添ってるだろうなって」
「いつになく築に気遣いがある」
「いちゃついてるとこに電話したくなかったんだよ」
「南の作業中は、そばにいるだけでそんないちゃついてねえよ」
「まあまあ」と南が割って入り、「今から買い物行くけど、築は何食べたい?」と訊いてくる。南の料理なら何でも懐かしいと思うけど──考えてみると、「夏なのに、まだ素麺食ってない」と気づいてつぶやいた。
 すると、「俺は素麺食いまくってるんでもっと考えて」と授が口をはさんだので、あえて俺は「素麺がいい」と改めて推した。「やっぱり自分で料理はしてないの?」と響が首をかたむけてきて、「なるべくやってないな」と答えると、「なるべくって何か違うだろ」と司が苦笑した。
 買い物に出ていった南は、授の声も考慮したのか、ただ素麺を買いこんできただけではなく、ガラスのうつわですでに汁に浸した素麺に、冷やし中華のようにトマトやきゅうり、焼き豚といった具を載せた料理を用意した。それから、昆布が香ばしい枝豆の炊きこみごはんと、わかめと豆腐の味噌汁。南のこういう家庭的な献立は、無機質なコンビニ弁当などが増えていただけにありがたい。
「そういや、あのにいちゃんが今は女をたらしてないらしいですよ」
 相変わらず、もりもりとおかわりをする授がそんなことを言い出すと、「えっ」と司も南も、響までぎょっと俺を見た。俺はそれを睨み返し、「文句あるかよ」と言ってたまごを絡めて素麺をすする。
「それは、雪ちゃんとうまくいったということでいいのか」
「雪は──、いや、……雪は関係ないだろ」
「築に身を固めさせるなんて、雪ちゃんぐらいでしょ」
「身を固めるって、そこまでのことじゃねえし」
「雪さん、にいさんのそういうことも見張ってくれてるの?」
 響の言葉はまあまあ的を射ていたので、「それはあるかもな」と答えておくと、「雪ちゃん!」と司と南が声を合わせた。
「さすが雪ちゃんだな。任せてよかった」
「僕、ずっと築が妊娠させるとか病気になるとか心配で」
「このまま、雪ちゃんに築をもらってほしいもんだな」
「雪ちゃんなら、僕たちも安心だよね」
 雪に彼氏らしき男がいることを、ここで言っていいのか分からなくて、俺はカニカマと素麺を静かに食す。「雪ねえちゃんはやっぱにいちゃんより強いなー」と授は炊きこみごはんをかきこみ、「にいさんに勝てるのは、雪さんだけだね」と響も味噌汁に口をつける。まあ、言い得ているけれど。ただし、雪には俺ではなくほかに男がいる。
 雪のこともこのまま見失うのかなあ、とぼんやり考えた。俺はかあさんのことを見失ってしまった。あんなに大好きだったのに、もうどうしているのか分からない。雪のことも、そんなふうに何も分からなくなって──俺はまた、置いていかれるのだろうか。

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