ALIKE-9

近づくために

 一週間実家で過ごしたあと、予定通り俺は暮らしている町に戻ってきた。部屋は相変わらず隣人の多少の生活音以外静かで、まあ悪くはないんだけど、と思いつつ、喉が渇いていたので帰り道のコンビニで買ったペットボトルのコーラを飲む。
 荷物の整理は明日でいいか、と旅行かばんは投げて、貴重品をまとめたショルダーバッグからケータイを取り出した。向こうを出発したのは昼だったので、時刻は二十時をまわっている。
 雪のトークルームを開くと、しばらく空中を眺めて考え、『戻ってきた。』ととりあえず送信した。そして、既読を待たずに『通話』とひと言続ける。コーラに口をつけ、弾ける炭酸を飲みこんでいると、まもなく既読がついた。
 男といたら断るだろうな、とどんより思っていたら、思いがけず通話着信がついたのでビビってしまう。もちろん雪からで、俺は急いで応答をタップしてケータイを耳に当てた。
「よ……よう」
『あんまり長く話せないわよ』
 いきなりばっさり言われて、すくんでしまいそうになったものの、「デートかよ」と何とか皮肉を言い返す。
『仕事中』
 思い設けなかった答えに、「え」と俺のほうがとまどう。雪が関わると、本当に俺はいそがしい。
「仕事中はケータイに出れないんじゃね」
『じゃあ切っていいのね?』
「いや、……ええと、伝言が」
『伝言』
「雪のおじさんとおばさんは、隣に帰省してたからさ。お前も正月には顔出せって」
『……そうね、お正月には』
「司と南も会いたいって言ってた」
『みんな元気だった?』
「いつも通りだった。てかさ、勝手に料理が出てくるってすげえな。あと、風呂に浸かれるのに感動する」
 雪が少し咲ったのが聞こえて、『ひとり暮らし始めるとそうなるわね』と返ってくる。
『あたしも料理はしないから、実家に行くとそう思うわ』
「え、料理しないのかよ」
『しなくて悪い?』
「できなかったっけ」
『しないのよ』
 どちらなのか気になったが、今追究しなくてもいい。俺は床にコーラを置くと、咳払いなんかしてから、「あの、雪さん」なんてかしこまってしまう。
『何よ』
「料理しないなら、普段何食ってんの」
『そんなに気になることなの?』
「いや、そういうわけじゃなくて──何というか、飯とか行かねえかなって」
『誰と』
「俺と」
『何でよ』
「何で、って言われると……いや、飯くらい男とも行ってんだろ」
『だからわざわざ、あんたにおごってあげるごはんなんて行かなくていいわ』
「俺もおごるから」
『誰のお金よ』
「………、司と南」
『おごるって言わないわね』
「いや、その──雪を飯にでも連れていって、お礼しといてくれって言われたから」
 嘘なのだが、こうでも言わないと予想以上に雪は動きそうにない。『ふうん……』と雪はやっと考えるような声で言って、『じゃあ』と言葉をつないだ。
『週末にどこか行ってもいいわよ』
「え、マジで」
『司さんと南さんがそう言ってるなら』
 よし、あとで司と南に口裏を合わせるメッセを飛ばしておこう。
「じゃあ、週末──金曜でもいいのか?」
『金曜日と土曜日は仕事があるから、日曜日ね』
「昼飯にしとく?」
『お昼まで寝てるから、夕食だと助かるわ』
「日曜だからって昼まで寝てんのかよ……」
『文句ある?』
「いや、別に。じゃあ、日曜の夕飯な。十八時に駅で待ち合わせでいい?」
『そうね。どこか連れていくぐらいしなさいよ』
「分かってるよ」
 ふてくされたように答えつつ、こちらのことは雪には見えないので、俺はガッツポーズを我慢できなかった。
 やった。雪と飯に行ける。しかも夜とか。妙な期待はしないほうがいいが、それでもその夜は雪をひとりじめできる。彼氏がいるのかいないのか、そこは勇気を出して訊かなくてはならないけども。
『じゃあ、また日曜日にね。仕事に戻らなきゃいけないわ』
「おう。頑張れよ」
『………、素直ね、ほんとに』
「は? 何て?」
『何でもないわ。じゃあね』
 雪はそう言い残すと、遠慮なく通話を切った。それでも俺は、緩んだ笑みをこらえきれず、何だかふわふわした気分に満たされた。ガキみたいにじたばたしたいのは何とかこらえても、通話時間が表示された雪のトークルームを見つめてしまう。
 しかし、思えば女に飯をおごるなんて初めてだ。どこか連れていけって、どういうところがいいのだろう。席は予約しておくべきなのか。
 分かんねえな、と首をかしげても、訊くような相手はいるだろうか。司と南は何だかんだで初めから両想いだったらしいから、そういう、駆け引きのような経験はなさそうだ。かといって、弟共に訊くのは癪だ。絶対、揶揄われるし。
 専門学校の友達、と思い、秀のことを思い出した。あいつが合コンに使った飲食街、行くのはそこでいいかもしれない。だが、あんなにたくさんの店の中でどの店がいいのか分からない。
 とりあえずあいつにいろいろ訊くか、と俺は秀のトークルームを画面に呼び出すと、別に前置きのメッセもせずに通話をかけた。
『おー、築じゃん。実家堪能してる?』
 しばらくのコールののち、秀は特にいそがしかった様子もなくそう応じてくれた。こいつのこういうとこが楽なんだよな、と思う。
「今日帰ってきた」
『あ、そうなんだ。おかえりー』
 ちなみに秀は帰省しなかった。家族とは何もわだかまりはないのではと思ったら、単に交通費がなかったらしい。「金はまず服と化粧品に使ってしまう。それは家族も知ってる」とか言っていた。
「あのさ、お前に訊きたいことあって」
『初体験の歳?』
「いらねえよ、そんなの。何というか、今度雪と飯行くんだけど」
『えっ、何それ。デート?』
「デート──デート?」
『僕に訊かないでよ』
「デート、なのかもしれない。いや、デートならますます訊かなきゃやばいじゃん。デートってどこ行く感じ?」
『ホテルじゃないの?』
「ふざけんな。雪が俺とそんなもん行くわけねえだろ。行こうとした瞬間、本気で股間蹴られる」
『うわっ』
「飯に行くんだよ。そういうとき、どんな店に連れていったらいいか分かんなくて」
『えー、中学生レベルの質問だなあ。ついでに告れば?』
「ついでって何だよ」
『デートして告白とか、中学生やってそうじゃん』
「………、あのときの男が、彼氏かどうかは訊く」
『はあ……まだ訊いてなかったの』
「訊けるかよ」
『彼氏でも何でも、告っちゃえばいいじゃん』
「それは、……雪を困らせる、というか」
『築は意外と繊細だなあ』
 ふうっと秀がため息をついたのが聞こえる。繊細。それはわりとよく言われる。兄弟の中でも、きっと俺が一番ごちゃごちゃ悩みやすい。
『ねえ、築』
「ん?」
『考えてもみなよ』
「何を」
『雪さんとのセックスは、きっとすごくいいよ?』
「は……はあっ?」
『本命とのセックス、築は知らないでしょ。それって、童貞と大して変わんないからね?』
 う、と言葉につまってしまう。雪を想って自分でするときを思い出したのだ。確かに、どんな女と寝ても、その自慰のほうがいいと思ってきた。いや、でも、雪と──
 想像しただけでじわっと体温が上がって、マジで童貞じゃねえか、と歯噛みしてしまう。
『築』
「……ん」
『いい加減、男になりなさい』
 唾を飲みこんだ。くそ。こいつはきっと正しい。雪が好きなくせに、ほかの女と軆だけ重ねて、俺はしょせん男になりきれていないのだ。
 だから彼氏の有無を訊くのも怖い。告白するのも怖い。雪に振られるのも怖い。
「……秀」
『うん?』
「やっぱ、俺、お前のことけっこう嫌いじゃねえや」
『僕に告白してんの?』
「バカ。友達だよ」
『えー。友達ー?』
「違うのかよ」
『もうね、親友だっての』
 俺は噴き出してしまって、親友か、と心の中で繰り返した。そうなのかもしれない。司と南の昔の肩書き。もちろんふたりにとってその肩書きは苦しいものになっていったけど、俺は秀とそうなれるなら嬉しいと思う。
「じゃあ、俺が振られたら全力で励ませよ」
『任せなさい』
「ありがとな」
『んーん。築はいい奴だからね、僕はうまくいくように祈ってるよ。いい店も教えてあげるから、頑張ってこい』
「おう」
 そうして通話を切ったあと、秀はピックアップした店の情報のリンクをトークルームに送信してくれた。掘りごたつの和食と、ダイニングバーのイタリアンと、個室もある鉄板料理。『全部席の予約取れる店だから、先に空けといてもらいないよ~。』というアドバイスもついていた。
『サンキュ』と返信しておくと、俺は店のホームページをじっくり吟味して、周りの人としっかりさえぎられる鉄板がいいかなと思った。お好み焼きとか、ひとり暮らしだとあまり食べる機会もないだろうし。よし、とだいたいそこに決まると、明日予約の電話入れようと思い、雪とデート、という響きに浸って、ふとんも敷かずに床に転がった。
 足元が浮きそうにそわそわしながら、四日後の日曜日を待ちわびた。服とか普通でいいんだよな、と思い、雪はどんな恰好をしてくるのだろうと思う。別に、普通でもぜんぜん構わないけど、ちょっとくらいめかしこんできたら嬉しい。
 あの日、男といた日は、すごく綺麗だった。俺のことなんか意識しないのは分かっていても、少しだけでもいつもと違ったら、俺はそれで幸せになれる。帰省した荷物を整理したり、司と南に例の口裏についてメッセしておいたり、もちろん鉄板料理の店で個室の予約も取っておき、長いようですぐに日曜日が来た。

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